第36話 子どもを盾にする神官
王都の地下には、血と鉄の匂いが充満していた。
私たち『現場班』は、大神官ヴァルターが勇者候補の子どもたちをかき集めた大神殿の地下深層へと足を踏み入れていた。
私の瞳から『契約視』の光が失われて数日。かつてなら、近くにいる兵を縛る命令の条件や、魔力の供給源を糸として読めた。だが今の私には、松明の明かりと、人間の足音という物理的な情報しか届かない。
私は、目の前に立ち塞がる兵士たちの内面を見抜くことはできず、彼らの『行動』からすべてを判断するしかなかった。
地下大回廊には、二つの異なる旗が翻っていた。白陽王国の深紅の旗と、聖光教会の純白の旗だ。
「逆賊クラウスと、魔王ネレイアだ! 王都を転覆させる政変の首謀者どもを殺せ!」
教会の指揮官が叫ぶ。ヴァルターはすでに、私たちの行動を魔王による政変であると王国軍へ通達し、防衛線として配置していた。
だが、私たちの歩みを最も重くしたのは、彼らの陣形の最前列に並べられた小さな盾だった。
「……子どもたちを」
クラウスが低く呻く。
教会の防衛線の最前列には、バルトが作った『子ども用防具』を着せられた数十人の勇者候補生たちが、震えながら立たされていた。彼らの背後には防衛用の魔力装置が配置されており、私たちが魔法や矢を放てば、間違いなく子どもたちが真っ先に傷つく配置になっている。
「武器を下ろせ! 魔王の軍勢め!」
王国軍の兵士たちが槍を構える。彼らは一枚岩ではない。教会の言葉を狂信している兵士、イレーネ王女の動向に迷っている兵士、そして何より、自分たちの家族を『勇者』という名の人質に取られている地方出身の兵士たちが混在していた。
私たちは、子どもを盾にする彼らを一括して「敵」とは呼ばなかった。
「よく見ろ! これがあなたたちの守るべき正義か!」
クラウスは剣を抜き放つ代わりに、懐から教会の『回収隊命令書』の束を掴み出し、床へ叩きつけた。シルヴィアが、候補者たちが繋がれていた重い鉄の拘束具を兵士たちの足元へ放り投げる。さらに、クラウスの背後からは、軍籍を捨てた一部の兵士たちが、自分たちが受けた口封じの命令を口々に叫んだ。
「この拘束具を見ろ! 救出するはずの候補者へ、教会が嵌めたものだ!」
その声と証拠の数々に、王国軍の兵士たちの間に明らかな動揺が走った。
「……俺の妹も、教会の選定に連れて行かれた。まさか……」
一部の王国兵が、力なく槍を下ろす。しかし、教会直属の狂信的な兵士たちは、動揺する王国兵を突き飛ばして斬りかかってきた。
「迷うな! 異端者を討て!」
戦闘は避けられなかった。バルトやノエルが前へ出て、非殺傷の制圧を試みる。しかし、混乱した密集陣形の中での手加減は至難の業であり、血飛沫が舞い、双方に骨折や重傷を負う負傷者が続出していく。
泥沼の制圧戦が続く中、後方から駆け込んできた伝令の若兵が、王国の旗を高く掲げて叫んだ。
「国王陛下より、全軍へ通達! 直ちに教会への協力を停止せよ!」
その声は、地下の喧騒を切り裂いた。
イレーネ王女が率いる別班が、教会の厳重な監視下にあった国王療養区画の解放に成功したのだ。国王の病は自然なものだった。しかし、投薬量を教会側だけで決めた記録、面会を遮断した名簿、教会を経由しなければ届かなかった決裁文書が押収された。治療と病状を口実に、十二年間、国王へ届く人間と情報が選別されていた。
十二年間、病という名目で教会の管理下に置かれていた国王アルベルト四世。
彼は自身の幽閉が解かれ、王都の地下で起きている惨劇の全容を知った時、自身の病気だけを言い訳にして責任を逃れることはしなかった。
『我が王家が教会の行いを検証せず、権限を委任し続けた過ちである』
王家としての責任を明確に認めた上で、国王自らの名で正式な調査と、契約文書の全面開示を命じたのだ。
イレーネ王女の言葉だけでは全軍を寝返らせることはできなかったが、この王命と法的な権限の提示は、迷っていた王国軍の兵士たちにとって決定的な法と安全の保証となった。彼らは次々と教会兵から距離を取り、剣を鞘に納め始める。
王国軍は教会の命令に従う者と王家に従う者に完全に割れたままだったが、戦闘の規模は急速に縮小していった。
軍の混乱を背に、私たちは残る候補者たちを救出するため、大神殿のさらに深部を目指した。
入り組んだ石造りの迷宮。その途中で、先頭を歩いていたフィアがぴたりと足を止めた。
彼女の目の前には、右へと曲がる通路と、左へと続く階段がある。
「……待って」
フィアの顔が蒼白になった。修道院で左右を誤り、六人の移送を許した時と同じ分岐だった。さらに、ルクを助けに戻った先で自分が捕らえられ、アベルが死んだ記憶まで重なったのだろう。彼女の呼吸が浅くなった。
彼女は自分の記憶に自信を持てず、震える手で自分が描いた『地下地図』を握りしめた。
だが、彼女はただ立ちすくんで助けを待つことはしなかった。彼女は根拠のない自信や度胸で前へ進むのではなく、自らの身体で『再測量』を始めたのだ。
彼女は水筒から数滴の水を床に垂らした。水滴は、一見平坦に見える『傾いた床』を、ゆっくりと左の壁の方へと流れていく。
「……床が、不自然に傾いてる」
さらに彼女は、火を消した松明の煙の動きをじっと観察した。
「右の通路からも、左の階段からも、風は来てない。……微かな気流は、この『壁の裏側』から漏れてきてる」
彼女は恐怖に震える手をもう片方の手で押さえつけながら、羽ペンを握った。そして、以前自分が描いた地図の誤りを事実として受け入れ、右でも左でもない、行き止まりの壁の向こう側へと、力強い『修正線』を引いた。
「こっち。この壁の奥に、何か巨大な空間がある」
クラウスとバルトが前に出た。
バルトが壁の継ぎ目を見極め、クラウスが長剣の柄で叩き込む。二撃目で腹の傷が開き、彼は片膝をついた。代わったバルトと工兵たちが崩落防止の支柱を入れ、分厚い偽装壁を崩していく。
土煙が晴れた奥に広がっていたのは、冷たく乾いた巨大な空洞だった。
そしてその中央に、周囲の空気ごと凍りつかせるような威圧感を放つ、巨大な黒曜石の石碑がそびえ立っていた。
「……これだ」
第四代ヨアヒムが、震える声で呟いた。
「六十三年前、人間王家と夜境領の間で交わされ、教会によって歴史から隠蔽された真実。……『薄暮盟約碑』です」
私たちは石碑の前に立った。
表面を埋める古い文字の大半は、その場では読み解けなかった。
だが、見出しに近い一画だけは、氏名と年齢を示す書式だとヨアヒムが判別した。
純粋な子どもだけが選ばれるという、教会の五十年の教義。
しかし、そこにあったのは、少年の名でも、無垢な少女の名でもなかった。
碑の表面に明確に刻まれていたのは、『アーデルハイト』という名の成人女性の氏名。
そして、はっきりと『四十二歳』と記された年齢だった。
紙片に残っていた『四十』の先が、初めてつながった。
ただし、彼女がどのような立場で聖剣を使い、なぜその記録が消されたのかは、碑文の残りを読まなければ分からない。




