第35話 王都を止める卒業生
地下水路跡の安全拠点。長机の上に広げられたのは、巨大だが空白だらけの王都図だった。
七人の勇者称号返上と、イレーネ王女による代理契約の暫定停止は公的に成立した。しかし、王都の地下には依然として聖灯炉が稼働し、教会の資産、祈祷の鐘、公文書、地下導管、そして候補者の収容施設といった巨大な制度の網の目が張り巡らされている。
私は、その空白の多い王都図を前に、かつて自分の網膜に焼き付いていた『契約の糸』の断片を、黒いインクで一つずつ書き込んでいった。
「……ここが、大神殿から伸びる主回線の分岐点。そしてここが、魔力供給の結節点だったはずです」
しかし、私の引く線は何度も途切れ、不自然に迂回していた。契約視の大半を失った私の目には、今の王都の契約網はほとんど見えていない。過去の記憶を頼りにした私の情報には、致命的な抜けと誤りが多すぎた。
「ネレイア様、そこは昨日すでに教会の工兵が封鎖しました。そのルートは使えません」
シルヴィアが、冷徹な声で私の引いた線を指で消した。
私はペンを置き、静かに頷いた。
「……ええ。私の記憶は、今の王都の現実を反映していません。全体の答えを私一人で示すことは、もう不可能です」
かつてのように、私が魔力ですべてを見通し、彼らに指示を下す段階は終わった。私は全体を俯瞰する統治者から、不完全な断片を持ち寄る会議の一参加者へと降りたのだ。
「わたし……もう一度、描き直すから」
机の端で、フィアが震える手で羊皮紙に『施設地図』の線を引いては、何度も消しゴムで削り落としていた。
彼女は、修道院で地図の左右を誤記して六人の移送を許した。拠点襲撃ではルクのために戻った結果、自分が捕らえられ、その先でアベルが死んだ。別々の出来事が、彼女の中では一つの恐怖へ固まりつつあった。間違えれば、また人が死ぬ。その思いが、何度も地図を描き直させている。
「フィア。線の正確さより、今は情報が必要です。その不完全な地図を、こちらへ」
第四代ヨアヒムが、フィアの手から地図をそっと引き抜いた。彼は自分の鞄から、文書院から持ち出した『配給番号』の記録束を取り出した。
「僕が持っているのは、出所不明の写しばかりです。……記録官として、本来ならこのような真正性の疑わしい文書を基に作戦を立てたくはない」
ヨアヒムが唇を噛むと、シルヴィアがすかさず横から口を挟んだ。
「完璧な証明を待っている間に、大祭の期限が来るわ。不確かな写しでも、実務の数字と突き合わせれば事実に変わる」
シルヴィアは、自身の商会が管理していた『荷札』と『導管台帳』を机の上に叩きつけるように置いた。
「フィアの描いた施設図に、ヨアヒムの配給番号の数字を重ねるのよ」
彼らが三つの不完全な情報を王都図の上で重ね合わせた時、バラバラだった点が線として繋がり始めた。
「……なるほど。配給される麦の量と、この施設の容積。そこから逆算すれば、施設ごとの正確な候補者数と、物資の流れが見えてきます」
ヨアヒムの目に、記録官としての鋭い光が戻った。
「なら、地下の導管を遮断するタイミングは、この時刻表が使えるわ」
第五代リーゼが、懐から古びた手帳を取り出した。それは、教会が王都全域に鳴らす『祈祷の鐘の時刻表』だった。
「鐘の音は、単なる祈りの合図じゃない。地下の導管の開閉と、魔力圧の調整の合図として使われているのよ」
リーゼがその知識を口にした瞬間、彼女の顔に微かな苦痛の影が走った。教会の内部システムをこれほど正確に知っているということは、彼女自身がどれほど長く、その非道な仕組みの側に身を置き、沈黙して生き延びてきたかという共犯の証でもあるからだ。
「その時刻表を知った時期と、誰から渡されたかも書いてください」
私が告げると、リーゼは一瞬だけ目を伏せた。やがて余白へ出典を書き込み、シルヴィアの荷札の輸送時間と照らし合わせ始めた。
元勇者たちは、誰一人として完璧な正解を持っていない。それぞれが抱える専門知識は偏り、過去の過失や恐怖というノイズが混じっている。
だが、意見の衝突と修正を繰り返す中で、彼らの不完全な情報が互いの欠点を補い合い、一つの強固な『作戦網』として再構築されていった。
違法な資産の凍結、祈祷の鐘の物理的な停止、証拠文書の確保、地下導管の遮断、候補者の避難誘導、そして医療部隊の配置。王都の機能を部分的に麻痺させるための同時実行網が、魔法ではなく、人間の実務的な計算によって完成したのだ。
「俺とノエルは、現場班として地下導管の物理遮断に出る」
第二代バルトが、自分が徹夜で組み上げた『魔力遮断器』の入った革袋を肩に担ぎ上げた。
「……おい、おっさん。俺の背後をうろちょろする気か」
ノエルが忌々しげに舌打ちをする。彼は未だに、大神官ヴァルターや選定官への復讐心をくすぶらせていた。
「勘違いするな。お前が暗殺に逸れないよう、俺が監視するんだ。お前も俺が余計な殺し合いをしないか見張れ」
バルトの提案は、互いを信頼し合う美しい連携とは程遠い。だが、自らの内にある殺意を恐れるからこそ、別々の場所で暴走するのではなく、相互確認という窮屈な枷を受け入れたのだ。
「……チッ。足引っ張んなよ」
ノエルは乱暴に遮断器の一つをひったくり、二人は連れ立って拠点を出て行った。
「私は、王都の西区画に『救護配置』を敷きます」
第一代エルナが、大量の包帯と薬品の箱をまとめながら立ち上がった。
「教会の兵士であれ、市民であれ、負傷した者はすべて受け入れます。……ただし、過去に私が魔王城で犯した過ち――患者の苦痛を薬で無理やり抑え込むような、支配的な治療は二度と繰り返しません」
彼女は自分に言い聞かせるように、手に持った医療記録の表紙を撫でた。
「意識があり、待てる状態なら、治療内容を説明して本人の返事を取ります。緊急処置は、理由と経過を必ず記録に残す。痛みを消したことだけで治ったとは扱いません」
一人、また一人と、元勇者たちがそれぞれの持ち場へと散っていく。
私は彼らの背中を見送りながら、彼らの選択に口を挟むことはなかった。
私がすることは、彼らが組み上げたこの作戦網をただ『承認』することだけだ。私が彼らに命令を与え、私の正義のために彼らを動かしているわけではない。彼らはそれぞれが自分の意思で、自分の過去と向き合うために、王都を止める戦いへと赴いていった。
「ネレイア」
最後まで拠点に残っていたクラウスが、私に声をかけた。彼の腰には、再び調達した無骨な長剣が帯びられている。
「イレーネ王女が手配した『国王救出班』が、先程、療養区画へ無事に侵入したと報告があった」
クラウスがもたらした情報は、王都の核心部からのものだった。
「だが、ヴァルターの姿がそこにはなかった。奴は、教会の直属部隊を動かし、王都中の収容施設から残る勇者候補者たちを、大神殿の地下へ一斉に集めているらしい」
大神殿の地下。それは、私たちがまだ全容を掴み切れていない、最も深い闇の底だ。
「……大祭を前に、候補者を一箇所に固めて、一気に炉の再起動をかけるつもりですね」
「ああ。時間はあまり残されていない」
私の能力ではなく、人間たちの情報突合と実務によって、王都の制度網は少しずつ止まり始めている。
しかし、戦いの火種はまだいくつも残されていた。
療養区画での国王の身柄確保。大神殿地下に集められた候補者たちの救出。そして、教会の嘘を完全に崩すための最後のピースである、『薄暮盟約の原本』の探索。
「クラウス。私たちは、大神殿地下へ向かいます」
「分かっている。あなたの目に何が見えなくなっても、私が足元を確かめる」
私はクラウスの差し出した手を取り、静かに立ち上がった。
決着の時は、すぐ目の前まで迫っていた。




