第31話 大人が聖剣を抜く
視界が、不規則に明滅している。
背中から伝わる冷たい石畳の感触。焦げた匂い。私の肺は、息の仕方を忘れてしまったかのように、浅く痙攣を繰り返していた。
広場全体を覆う障壁へ、残っていた魔力を注ぎ切った。体内の魔力経路は何を命じても応じない。指先一つ、瞬き一つすら自力では動かせなかった。意識が薄い膜を隔てたように遠のく中、知覚できる断片だけが流れ込んでくる。
「……愚かな魔王よ」
頭上から降ってくる、大神官ヴァルターの冷酷な声。
白銀の刃が、無力な私を見下ろすように高く振り上げられる光。
そして別の方向からは、白い外套を纏った教会兵が一人、私の首筋へと切っ先を突きつけていた。その兵士が握っているのは、処刑台から奪い取られた大人用の長剣。フィアがここまで引きずってきた聖剣だ。
「やめてっ!」
悲鳴が響いた。処刑台の上。太い鉄鎖で両腕を拘束されたフィアが、手首の皮膚が破れて血を流すのも構わず、必死に拘束を振りほどこうと暴れている。
彼女は泣いていた。私へ向かって身を乗り出し、次いで、群衆の中を進んでくる父親を見た。
「お父さんまで、勇者にしないで……!」
(立てない)
私は心の中で命令を下すが、肉体は微塵も応じない。契約視の魔力も完全に沈黙し、当事者を結ぶ魔力の糸は一本も見えなかった。
「退けェッ!」
群衆の隙間を縫い、血に汚れた男が処刑台の前へと飛び込んできた。
クラウスだった。
広場での過酷な避難誘導の最中、崩落する瓦礫から市民を庇ったのだろう。彼の外套は無惨に引き裂かれ、腰にあったはずの長剣は失われていた。武器を持たない丸腰のまま、彼は私に聖剣を突きつける教会兵へと肉薄した。
彼は一度、布を掛けられたアベルのいる方角を見た。それから、処刑台のフィアと、刃の下にいる私を見た。
王女の前で適性を証明しようとした時、聖剣は沈黙した。今の彼は、証明台も、見物人も見ていなかった。
クラウスは、煤と自身の血で赤黒く汚れた手を迷わず伸ばし、教会兵の手からフィアの聖剣の柄を強引に奪い取った。
――カッ、と。
王都の厚い曇り空を切り裂くような、目も眩むほどの青白い光が広場を包み込んだ。
それはかつて魔王城の崖下で起きたような、不確かな微光ではない。聖剣が成人のクラウスへ完全に応じた光だった。
王女の前で握った時との違いは、目の前にある。だが、この一度だけで聖剣のすべてを説明することはできない。
「な……っ、大人が、聖剣を……!?」
ヴァルターが驚愕に目を見開き、一歩後退する。
クラウスは強く灯る聖剣を振り抜いた。それは敵を殺害するための致命の一撃ではなく、私とフィアに群がる兵士たちを不可視の力で弾き飛ばし、安全な防護の円陣と進路を確保するための力だった。
弾け飛んだ衝撃で、処刑台の拘束具の留め金が歪む。
フィアはただ待って助けられることを選ばなかった。彼女は自ら痛む腕を引き抜き、拘束具から離れる行動を選んで、私たちの元へ転がり込むように走ってきた。
「ネレイアさま……! お父さん……っ」
クラウスが片手でフィアの小さな身体を抱き留め、もう片方の手で光を放つ聖剣を構えながら、倒れた私を背中で庇うように立ち塞がった。
圧倒的な光景だった。
広場の周囲にいた市民や信徒たちの間から、「おお……」という感嘆のどよめきが漏れた。
「大人が聖剣を抜いたぞ……!」「新たな勇者だ……神は我々を見捨てていなかった!」
群衆の一部が、無責任な歓声を上げかけた。目の前の惨劇から目を背け、教会が用意する新たな英雄譚にすがりつこうとする、民衆の哀しい習性。
しかし、その歓声が広場全体に広がることはなかった。
足元の石畳には、ひっくり返った炊き出しの鍋から溢れたスープが、泥と血に混じって虚しく流れている。聖炎の余波や群衆のパニックで重い火傷や骨折を負い、うめき声を上げる無数の負傷者たち。
そして、広場の端。崩落した瓦礫の路地から運び出されてきた、一つの遺体。アベルの動かない身体の上に、粗末な布が静かに掛けられるのが見えた。
その凄惨な現実が、熱狂を冷水のように押し流す。ここは神聖な英雄誕生の舞台などではない。ただの地獄だ。誰も、心からの歓声を上げ続けることなどできなかった。
動揺した教会の高位神官の一人が、慌てて祭壇の脇から『称号授与用の白布』を持ち出してきた。
「お、おお、大いなる光の戦士よ! その血と泥に汚れた服を隠し、神の祝福たるこの純白の布を纏いなさい! あなたが新たな――」
教会の制度の枠組みにクラウスを即座に回収し、都合のいい大人の勇者として仕立て上げようとする浅ましい動き。
「ふざけるな」
クラウスは、差し出された白布を剣の峰で冷酷に叩き落とした。
「私は教会の道具でも、新たな英雄でもない。ただの父親だ」
彼はそう言い捨てると、強烈な光を放っていた聖剣の魔力を自らの意思で強制的に遮断し、その柄をフィアの手の中へと返した。
「お父さん……」
「フィア。お前の剣だ。私は称号など受け取らない」
成人適性は、数千の公衆の面前で覆しようのない事実となった。教会の『子どもしか選ばれない』という五十年の嘘は完全に砕け散った。
だが、そこに勝利の高揚はない。アベルの死という重い犠牲が、私たちから歓喜を完全に奪い去っていた。
クラウスの腕を借りて、私がようやく重い上体を起こした時だった。
「……これが、あんたの選んだ結果だ」
避難誘導を終えたノエルが、群衆を割って私の前に立った。
彼の視線の先には、遠く布を被せられたアベルの遺体がある。
「ベネディクトを殺さず、ヴァルターを暗殺しなかった。誰も殺さないというあんたの『正しさ』が、あいつを見殺しにしたんだ。……ネレイア、あんたの判断は、本当にあいつの命より重かったのかよ」
ノエルの怒りに満ちた問いは、私の胸を鋭く抉った。
非殺傷の方針が招いた、防げたかもしれない犠牲。
「……分かりません」
掠れた声しか出なかった。
「ヴァルターを先に殺していれば、アベルが生きたのか。私には証明できません。ただ、非殺傷を選び、広場を選んだのは私です。彼の死を、判断の正しさの証拠にはしません」
ノエルはそれ以上何も言わず、ただギリッと唇を噛み締めて背を向けた。
法廷も、広場も、完全に教会の統制を離れて混乱の極みにあった。
ヴァルターが部下に体勢の立て直しを命じようとした、その時。
息を切らせた伝令の神官兵が、ヴァルターの足元に転がり込んできた。
「だ、大神官猊下! 異常事態です! ここより北の、歴代勇者を祀る『慰霊広場』に……!」
伝令の兵士は、恐怖に顔を引きつらせて叫んだ。
「死んだはずの、歴代勇者六人が……生身で、慰霊像の前に姿を現しました!」




