第30話 魔王が守った人間
フィアが連れ去られた翌朝。
王都の中央広場は、西から東へ緩く下っている。
西端から入った私には、中央の処刑台と、その向こうで広場へ合流する東の脇道までが見渡せた。
処刑台にはフィアがいた。両腕を鉄鎖で後ろへ回され、跪かされている。壇上を囲む群衆の頭上では、教会の拡声魔術が同じ警告を繰り返していた。
魔王が第七代勇者を誘拐した。王都へ攻め込もうとしている。勇者を救え。
群衆から投げられた小瓶が、処刑台の脚に当たって砕けた。フィアは肩を跳ねさせたが、俯かなかった。壇上から出口の位置を数えるように視線を巡らせ、やがて私を見つけた。その顔に安堵は浮かばない。私の後ろに、逃げ道がないと分かったからだ。
救出を謳う白旗が広場の四方に掲げられている。だが、その旗を渡した綱と兵の列が、出口を狭めていた。法衣を着た者たちは群衆の外、石造りの回廊の下へ退いている。
空が赤く染まった。
広場の上で、雲の底が内側から焼ける。やがて、巨大な炎の塊が輪郭を持ちはじめた。
私は『契約視』を開いた。
見えたのは命令者の顔でも、企ての全容でもない。広場の聖灯柱から空へ逆流していく、幾筋もの白い糸だけだった。糸に刻まれた紋様は、地下聖灯炉の系統図で見たものと同じだ。
糸を発生源まで辿ろうとすると、隣接する配電塔のところで幾重にも枝分かれし、視界から消えた。酷使した目の奥に針を刺されたような痛みが走る。誰が命じ、どこで起動したのかまでは読めない。
一方、炎の外縁には夜境領の軍印に似せた黒い紋様が浮かんでいた。遠目には、魔王軍の術としか見えないだろう。
少なくとも、あれは夜境領から放たれた炎ではない。
その事実を伝える時間はなかった。群衆は赤い空を見上げ、互いを押し始めている。狭められた出口で、最初の悲鳴が上がった。
「ネレイア!」
群衆の波を押し戻しながら、クラウスが叫んだ。腹の傷を庇う余裕もなく、顔から血の気が引いている。それでも彼の目は処刑台ではなく、今にも踏み潰されそうな子どもへ向いていた。
東の脇道に、人影が飛び出した。
アベルだった。片腕でルクを抱え、もう一方の手で追手を牽制しながら、広場へ続く坂を上がってくる。背後の擁壁には亀裂が走り、その上で兵が留め金へ槌を振り下ろしていた。
ルクの小さな手が、アベルの制服の襟を掴んでいる。アベルの剣は半ばから折れ、左脚を引きずっていた。声が届く距離ではない。
私からも、クラウスからも見えた。
炎が落ちるまで、あとわずか。
アベルのいる坂まで障壁を伸ばせば、広場の天井が薄くなる。広場を覆えば、東の脇道には届かない。
私の中には、もう両方を選べるだけの魔力が残っていなかった。
細い障壁なら、東の二人を囲える。
その間に、広場へ炎が落ちる。
広場を覆えば、アベルの頭上で槌がもう一度振り下ろされる。
どちらを選んでも、見なかったことにはできない。
アベルが顔を上げた。
距離がありすぎて、表情までは分からない。だが、彼は一度だけ広場の空を見て、それから腕の中のルクを見た。
私は両腕を掲げた。
漆黒の障壁が、広場を覆う。
教会兵も、私を罵っていた者も、逃げ遅れた者も、その内側へ入れた。最後の縁を閉じた瞬間、東の坂に立つ二人の姿が障壁の外へ切れた。
聖炎が落ちた。
衝突の轟音で、広場の石窓が一斉に砕けた。障壁の表面を白い炎が走り、亀裂から漏れた熱が髪と衣服を焦がす。衝撃に押し倒され、石畳へ頭を打つ者がいた。折り重なった群衆の下で、誰かが助けを求めている。
炊き出しの大鍋が横倒しになった。湯気の消えたスープが、砕けた皿や血の間を薄く流れていく。
私は障壁を下ろさなかった。
一枚の壁にはできない。裂けかけた箇所へ魔力を寄せれば、反対側が薄くなる。右、北、処刑台の上。悲鳴の上がった場所から順に継ぎ足した。
クラウスは倒れた子どもへ自分の外套を被せ、崩れた荷車の陰へ引きずっていく。フィアは壇上で身体を丸め、鎖に繋がれたまま、隣に倒れた若い神官兵へ覆いかぶさっていた。
両腕の感覚が消え、喉の奥に鉄の味が広がっても、炎が途切れるまで耐えた。
やがて赤い光が薄れた。
広場には、重い火傷を負った者も、踏まれて骨を折った者もいた。呼びかけに応じない者を、エルナの手伝いをしていた者たちが必死に運び出している。それでも、炎に呑まれた者はいなかった。
私のすぐ前で、先ほどまで魔王を殺せと叫んでいた男が座り込んでいた。焦げた袖を押さえ、私と、消えかけた障壁を交互に見ている。礼を言う者はいなかった。歓声もなかった。ただ、生き残った者の荒い息だけが重なった。
石の崩れる音がした。
東の坂だった。
アベルがルクを抱え上げ、擁壁脇の小さな通用口へ放り込む。ルクの身体が向こう側の石畳に転がった。
ルクはすぐに起き上がり、扉の向こうから小さな手を伸ばした。
アベルも続こうとした。
その肩へ、追手の槍が突き刺さった。
彼は膝をつき、それでも通用口の鉄扉を蹴って閉めた。次の瞬間、外された留め金が跳ね、擁壁が崩れた。
土煙が坂を隠した。
遅れて、硬いものが割れる音が広場まで届いた。
土煙の手前へ、ひびの入った教会の護衛章が滑り出してくる。
私は動けなかった。
広場へ向けた両手を、東へ伸ばし直すことすらできなかった。
「ルク……?」
処刑台の上で、フィアが身を起こした。
通用口の内側から、ルクが這い出してくる。片方の靴を失い、泣きながら、閉じた鉄扉を叩いていた。
フィアの唇が震えた。
「アベルさんは」
誰も答えなかった。
フィアは鎖を鳴らし、下を向いた。何度も息を吸おうとして、そのたびに喉が塞がった。
「わたしが、戻ったから……」
その先は声にならなかった。
障壁がほどけた。
膝から力が抜け、私は石畳へ倒れた。肺が焼けるように痛い。指先は、もう自分のものではないようだった。
回廊の下から、靴音が近づいてきた。
人々が倒れ、呻き、互いの名を呼ぶ広場を、大神官ヴァルターが数人の護衛とともに歩いてくる。彼の白い法衣には、煤一つ付いていなかった。
「見事だ、魔王」
彼は私のそばで足を止めた。
「数千を救うために、一人を捨てた。お前も結局、数を選ぶ」
彼は東の坂へ目を向けもしなかった。
「名を知る一人でさえ、必要とあれば切り捨てた。お前が我々と違うと言うなら、その違いはどこにある」
反論しようとした。息しか出なかった。
アベルを見捨てたのは私だ。その事実を、ヴァルターの口にしたからという理由で否定することはできない。
「違いがあるとすれば、お前には、その選択を秩序へ変える力がないことだ」
ヴァルターが白銀の刃を抜いた。
切っ先が、まず私へ向く。その後ろでは、フィアが鎖を引きずりながら立ち上がろうとしていた。
私の腕は動かなかった。
刃が振り上げられた。




