第29話 七人目を返せ
公開裁判から二日後。フィアの生存が公衆の面前に知れ渡ったことは、教会という巨大な組織に「裏切り者と魔王が潜む巣を討伐する」という明確な攻撃の大義名分を与えてしまった。
王都の地下水路跡に設けた私たちの安全拠点に、容赦のない襲撃の足音が迫っていた。
私は手元にある、焼き切れた魔力糸の残骸――『囮契約の切れ端』を見つめていた。敵の侵入を許したのは、単なる内通者や偶然の漏洩ではない。前日、私がこの拠点へ通じる監視網を調べた時、教会の囮契約を監視の本線だと誤認し、解除した。あの時できた穴から、こちらの出入りを辿られた可能性が高い。
拠点内は、救出したばかりの勇者候補の子どもたち、協力者、そして先の混乱で傷を負った者たちでごった返していた。
壁際では、第六代勇者であるノエルが忌々しげに剣の柄を握っている。彼は先の混乱の中で選定官ベネディクトを殺さず、自ら武器を引いたが、その復讐心が消えたわけではなかった。私の非殺傷という方針を受け入れたわけではなく、私たちの間には依然として冷たい亀裂が残ったままだ。
「敵は複数経路から来ている! 全員、フィアの指示に従って地下道を抜けろ!」
クラウスの声が響く。彼は父親として、娘であるフィアをこの危険な避難誘導の最前線から外したかったに違いない。しかし、この複雑な地下施設の避難経路を完全に把握し、どこが通れてどこが崩落の危険があるかを判断できるのは、彼女の作成した『避難地図』と彼女自身の観察力だけだった。
フィアはバルトが作ってくれた子ども用防具を身につけ、震える手で避難地図を大人たちへ配っていた。
「年下の小さい子たちと、怪我をしている人はこっちの東の通路へ……! そこなら段差がないから、走れなくても通れるよ」
彼女は抽象的な大義のためではなく、誰が走れないかという現場の具体的な判断で、必死に勇気を示していた。
だが、その時だった。
地下水路の反響を利用し、教会側が拡声した耳障りな『祈祷音』と、重々しい『鐘の音』が拠点全体に響き渡った。
魔術ではない。候補者が選定時の恐怖を思い出す音程と文句を選び、意図的に繰り返しているのだ。
「あっ……ぁ……」
その定型祈祷を聞いた瞬間、フィアの身体が硬直した。彼女の呼吸が浅くなり、瞳孔が開く。かつて村から引き離され、死地へ送られた記憶が容赦なく彼女の脳髄を打ち据える。
「フィア!」
私が叫ぶよりも早く、彼女はパニックを起こし、手から避難地図を取り落とした。そして、逃げ惑う人々の波に逆らうように後ずさり、壁際にあった食料用の『貯蔵庫の狭い棚』の奥へと転がり込むように身を隠してしまった。
地図を持つ誘導役を失い、避難の列は一気に混乱に陥った。
「落ち着け! 列を崩すな!」
その混乱を物理的に繋ぎ止めたのは、クラウスと、もう一人の若い兵士だった。
教会の回収隊から離反し、裁判で命令拒否の事実を証言したアベルだ。彼は軍へ戻る場所を失い、今は自ら候補者たちの護衛へ加わっていた。
しかし、彼が命令を拒んだからといって、子どもたちの目に彼が突然善人として映るわけではない。彼が着ているのは依然として教会の兵士の制服であり、子どもたちにとって彼は、つい先日まで自分たちを縛り上げていた恐怖の対象そのものだ。
「こっちだ、急いで!」
アベルが手を伸ばすが、子どもたちは彼を恐れて悲鳴を上げ、後ずさってしまう。
アベルは傷ついた顔を見せたが、すぐに自分の立場を理解し、伸ばした手を引っ込めた。彼は子どもたちを無理に誘導したり、直接触れたりすることを諦めた。その代わり、彼は迫り来る白い外套の襲撃兵たちに向かって剣を抜き、子どもたちが逃げるための『扉と退路』だけを背中で守るという冷徹な行動に徹し始めた。
私は魔力で岩壁を崩し、敵の進軍を遅らせようとしていたが、魔力低下のせいで思うように防壁が構築できない。私の判断ミスが、この絶望的な状況を招いていた。
その最中、貯蔵庫の棚の中で頭を抱えていたフィアの耳に、か細い泣き声が届いた。
ルクという名の、まだ六歳にも満たない幼い候補者の少年だった。彼は混乱の中で避難の列から離れてしまい、通路の真ん中で転び、脱げた『小靴』を拾おうとして立ちすくんでいた。
白い外套の教会兵が、無慈悲にルクの腕を掴もうと迫る。
フィアは棚の暗がりからそれを見た。鐘の音への恐怖は消えていない。身体は震え、歯の根が合わないほど怯えている。彼女は恐怖を完全に克服したわけではなかった。それでも、かつて自分が同じように見捨てられそうになった過去の記憶が、彼女の足を動かした。
震えるまま、彼女はたった一つの行動を選んだ。
「だめっ!」
フィアは貯蔵庫から飛び出し、教会兵の腕に体当たりをした。不意を突かれた兵士の手がルクから外れる。フィアはルクの襟元を掴んで起こし、防壁を支えていたアベルの背後へ押し出した。
「頼む……あの子を!」
フィアが叫んだ直後。
教会兵の一人が隔断用のレバーへ飛びついた。避難路と私たちを隔てる分厚い石の『搬出口』が、轟音とともに落下し始めた。
「フィア!」
クラウスが絶叫し、落下する石の扉の隙間に手をねじ込もうとする。しかし、数人の敵兵がクラウスに襲いかかり、彼はその場に釘付けにされた。
ズゥン、という重い音を立てて、搬出口は完全に閉ざされた。
ルクたち大半の子どもと、クラウス、アベル、数人の元勇者は内側の安全圏へ逃れた。だが、子どもを押し出したフィア自身は、敵の群れが満ちる外側の区画に取り残されてしまったのだ。
逃げ場を失った私とフィアは、十数名の白い外套の教会兵に完全に包囲された。
彼らの隊長格と思われる男が、抜身の剣をフィアの細い首筋に突きつけた。フィアは恐怖で青ざめているが、声を上げることはなかった。
「動くな、魔王ネレイア」
男は冷酷な笑みを浮かべ、私へ向かって宣告した。
「この小娘の命が惜しければ、要求を呑め。お前の被っているその冠を捨て、夜境領の統治権と、我々に対する一切の抵抗の放棄を今ここで誓え」
それは、私の立場と領地の安全を、たった一人の子どもの命と天秤にかける、極めて卑劣な取引だった。
隊長格の手首には、上位命令へつながる契約糸が見えた。条件は、増援到着まで私を足止めすることと、フィアを生きたまま確保すること。少なくとも今すぐ彼女を斬る命令ではない。
私は表情を一切崩さず、彼らの要求に屈したかのように、ゆっくりと膝をついた。
「……分かりました。第七代勇者の命と引き換えに、あなた方の要求を受け入れましょう」
私は冠に手をかけ、わざと時間をかけて外す動作を見せた。私の言葉を信じた敵兵たちの警戒が、ほんの一瞬だけ緩む。今は、石の扉の向こうにいる者たちが動くための時間を稼ぐほかなかった。
私が冠を床に置こうとしたその瞬間、閉ざされた搬出口の隠し通気孔から、細い金属の筒が突き出された。
バルトが急造した魔力遮断器だ。そこから放たれた強烈な閃光と煙幕が、敵兵たちの視界を完全に奪った。
「ネレイア、今のうちに!」
煙の向こう側で、クラウスの声が響く。だが、煙の中で無秩序に剣が振り回され、フィアを拘束していた兵士が彼女を抱えたまま、拠点の後方にある別の地下道へと一目散に後退していく気配がした。
「フィアを逃がすな! 連れて行け!」
煙が晴れた時、私とクラウスの前に立ちはだかっていた敵兵は倒れていたが、フィアの姿はどこにもなかった。彼女は再び、教会の冷たい手の中へと捕らえられてしまったのだ。
「くそっ……!」
クラウスが血を吐くように呻いた。
搬出口の向こう側から、アベルの声がした。彼はルクを背負い、最後の避難組を東の補助路へ送っている途中だった。
「表へ出る道は、広場側の坂路しか残っていません。あの子を運んだ兵も同じ方向へ向かった。配置なら、まだ追えます」
「子どもたちを先に出せ。追跡は私たちが引き継ぐ」
クラウスの言葉に、アベルは一度だけフィアが消えた暗がりを見た。それからルクを背負い直し、避難組のしんがりへ戻った。
私たちは奪われたフィアを追い、アベルは子どもたちの退路を守る。どちらの経路も、王都中央広場へ近づく道だった。




