第28話 怒れる六代目勇者
群衆のざわめきが、法廷の石壁に反響して耳鳴りのように渦巻いていた。
死んだはずの七代目勇者フィア本人が現れ、教会が語った最期の物語には、否定できない亀裂が入った。
傍聴席からは怒号と悲鳴が入り混じり、教会側はすぐに「魔王の幻術の可能性を検証する」と叫んで審理を止めようとしている。事実が一つ変わっても、彼らの権限まで消えたわけではない。
倒れた長椅子、床に散らばった書類。その喧騒と混乱の隙間を縫うように、全く音を立てずに動く影があった。
十七歳の六代目勇者、ノエルだ。
彼の標的はただ一人。祭壇の脇で腰を抜かし、逃げ道を探している初老の男――勇者選定官ベネディクトだった。
成人の検査記録を破棄し、ノエルの選定にも実務側として関わった男。奪われた六年間の怒りを向けるには、ノエルにとって十分な標的だった。
ノエルの右手には、外套の下に隠し持っていた護身用の短い刃が握られていた。
彼の歩みにはためらいがなく、突発的な激情というよりは、純粋な「処理」に向かうような冷たく鋭い怒りが宿っていた。彼がベネディクトの喉元へ刃を振り上げるまで、周囲の誰もその動きに気づいていない。
私を除いて。
「――っ!」
私は床を蹴り、ノエルとベネディクトの間に身体を滑り込ませた。
刃を魔力で弾き飛ばす時間はない。人間領で一割未満に落ちた今の状態では、完璧な物理障壁を展開することもできなかった。
鈍い音がして、鋭い刃先が私の左腕を浅く裂いた。
布が破れ、赤い血が飛沫となって石の床に点々と散る。魔王城にいた頃には決して負うことのなかった、生々しい熱と痛みが走る。
「……なっ」
刃を通した確かな感触に、ノエルの動きが硬直した。
「ネレイアさま!」
数歩離れた場所から、フィアの悲鳴に近い声が上がった。
私が怪我をした事実を最も早く視認したのは彼女だった。フィアは恐怖に顔を引きつらせながらも、私とノエルの距離、そして血の落ちた位置を正確に見ている。身近な大人が互いに傷つけ合う光景は、彼女にとって最大の恐怖の一つだ。
しかし、私は左腕の傷を押さえることもなく、ノエルの持つ刃の射程内から一歩も動かずに彼を見据えた。
ノエルの顔が、驚愕から激しい怒りへと歪む。
「何してんだよ……! 退けよ、魔王さま!」
彼が私をその名で呼ぶのは、強い拒絶と距離を置く時だけだ。
「なぜ庇う! そいつが何をしたか、あんたも知ってるだろ! 俺たちを……あの子どもたちを、名簿の空欄みたいに線を引いて殺したのは、そいつだぞ!」
「知っています」
私は静かに答えた。彼の怒鳴り声に声を張って返すことはしない。
「なら退け! そいつは生かしておいちゃいけない人間だ!」
「彼を庇っているのではありません」
「だったら退けよ」
「退きません」
「許せって言うのか」
「言いません」
私の言葉を遮るように、背後で這いつくばったままのベネディクトが震える声で叫んだ。
「そ、そうだ……! 私個人の意志ではない!」
彼は倒れた机を盾にするように身を縮め、見苦しく弁明を始めた。
「神の意志を測る正当な手続きだ! 年齢の基準も、選定も、全ては上位の命令と神殿の規則に従ったまで……私はただ、組織の役割を分担して実務をこなしただけで、責任は……!」
「黙りなさい」
私が短く制止するより早く、ノエルの全身から立ち上る怒気が限界を超えて跳ね上がった。
責任を制度や手続に分散させ、自分はただの歯車だったと嘯く。その卑劣さが、人生を狂わされた側の痛みをどれほど逆撫でするか。ノエルの手の中で、刃の柄がギリッと音を立てて握り直された。
彼はもう、ベネディクトだけでなく、間に立つ私へも明確な敵意を向けていた。
「どけよ」
地を這うような低い声だった。
「そいつが、俺たちを人とも思ってないのが分かっただろ。どけ。俺はそいつを殺す」
「退きません」
私は出血の続く腕を下げたまま、無防備な立ち姿を崩さなかった。
「私を刺して進むか、ここで刃を下ろすか。あなたが自分で選びなさい」
突きつけられた選択肢。
法廷の喧騒が遠のいたかのような、張り詰めた空白の時間。
ノエルの刃の切っ先は小刻みに震え、私と、その後ろで縮こまる選定官との間を行き来した。
怒りが彼を突き動かそうとしている。しかし、刃の先にいるのは、魔王城で六年間の衣食住を共にし、彼を兵器として扱わなかった存在だ。
「ノエル……っ、だめ……!」
フィアの絞り出すような声が、静寂を震わせた。
ノエルは奥歯を強く噛み締めた。顎の筋肉がこわばり、呼吸が荒くなる。
やがて。
「……っ、ああくそっ!!」
咆哮とともに、ノエルは腕を振り下ろした。
しかしそれは、私の胸に向かってではなかった。
ガァン! という甲高い金属音が法廷に響き渡る。
ノエルが力任せに床に叩きつけた刃が、石畳を跳ねて数メートル先へと転がっていった。
彼は荒い息を吐きながら、私を強烈な目で睨みつけた。
それは、私の言葉を受け入れた和解の表情ではない。復讐を邪魔された憤りと、私を刺すことができなかった自分への苛立ち、そして行き場を失った憎悪が混じり合っていた。
「……これで満足かよ」
吐き捨てるように言い残し、ノエルは踵を返した。倒れていた椅子を乱暴に蹴り飛ばし、法廷の出口へと足早に遠ざかっていく。その背中には、硬く冷たい緊張が張り付いたままだった。
私は彼を引き止めなかった。刃を手放したことと、私を許すことは別だった。
「ネレイア……!」
群衆を掻き分けてクラウスが歩み寄ってくる。彼は私の腕の血を見て、表情を険しくした。
だが、痛みを気にかける余裕はなかった。
高窓を、黒い使い魔の鳥が嘴で激しく叩いた。脚に結ばれた赤い布は、安全拠点へ通じる監視線が破られた時だけ使う合図だった。
「クラウス」
私は鳥を拾い上げ、腕の血を拭うこともせずに言った。
「子どもたちの隠れ家が、見つかりました」




