第24話 百人の部屋の地図
王宮での舞踏会を抜け出した私たちは、休む間もなく王都の外縁区画へと向かっていた。
大神官ヴァルターとの対話により、彼が王都の秩序と防御のために制度を擁護していること、そして国王療養区画が完全に教会の管理下に置かれていることが確認された。制度の根源を断つにはまだ時間がかかる。だが今はそれよりも、教会が各村から集め、一時的な安全拠点――実際には拘束施設である古い修道院に収容している子どもたちの救出が急務だった。
事前の外周調査によれば、その施設内には十六人の勇者候補が囚われている。
修道院の冷たい外壁の陰。フィアが湿った地面の土に、自分の細い指でスッと線を引いた。
「ここが裏口。入ってすぐの通路を抜けると、階段があるの」
彼女はかつて教会に一時拘束されていた際に記憶した施設の構造を、指の動きで地図へ起こしていく。
しかし、彼女の指先は微かに震えていた。壁に這わされた真鍮の管から、教会の定型的な祈祷を唱えるくぐもった音声が、絶え間なく施設の外へと漏れ聞こえてきているのだ。それは彼女が恐怖とともに教え込まれた選定時の音であり、その響きが彼女の呼吸を浅く乱していた。
私たちは裏口の錠をクラウスの技術で外し、息を潜めて内部へ潜入した。
フィアの地図通りに進み、指定された階段を下る。だが、その先にあったのは目的の収容室ではなく、冷たくそびえ立つ行き止まりの石壁だった。
「……あれ?」
フィアが息を呑み、血の気を引かせた顔で後ずさった。
「ごめんなさい……あの祈りの音が、前の牢屋と同じで、頭がぐちゃぐちゃになって……わたし、階段の左右を、逆に描いちゃった……っ」
彼女は自分の記憶間違いに気づき、パニックを起こしかけた。
「気にするな。反対の階段へ回るだけだ」
クラウスは舌打ち一つせず、短い言葉で娘を落ち着かせた。私も彼女に責任を負わせるような言葉はかけない。地図に一箇所の誤記があった。その誤りを事実として修正し、正しい東側の階段へ向かうだけだ。
正規のルートに戻り、収容室が近づいた通路の角。
私は『契約視』の魔力を薄く目に集め、前方を塞ぐように張られた一本の魔力糸を捉えた。
「監視の網があります。ですが、ひどく薄い。ここが監視の本線のようです」
私は人間領での魔力低下による疲労から、その糸の構造を深く疑うことなく、魔力で静かに焼き切った。
――その瞬間。
けたたましい物理的な警報の鐘が、修道院全体に鳴り響いた。
私が監視の本線だと思って切断したものは、切られること自体をトリガーとして別系統の警報を発動させる『囮の契約糸』だったのだ。魔王という肩書を持つ私の慢心と、極端な魔力低下による知覚の乱れが、致命的な誤認を生んだ。
「しまった……!」
「急ぐぞ、時間がない!」
私の失態を責めることなく、クラウスが収容室の重い木扉を蹴り開けた。
広い部屋の中には、等間隔に子ども用の小さな寝台が十六台並べられていた。
だが、部屋にいたのは十人だけだった。
突然の警報と私たちの侵入に、十人の子どもたちは怯えきり、寝台の毛布を被って部屋の隅へと固まった。
「逃げましょう! あなたたちを助けに来ました!」
私が声をかけるが、子どもたちは首を激しく横に振る。
「だめだ……逃げたら、お母さんやお父さんが、教会の罰を受けるって言われた……!」
「ぼくたちがここにいないと、村が焼かれちゃうんだ……!」
彼らは私たち救出者を全く信用していない。教会の副契約という見えない鎖が、彼らの心に「家族への罰」という絶対的な恐怖を植え付けているからだ。
クラウスが剣を鞘に納め、床に片膝をついて彼らと目線を合わせた。
「家族が絶対に安全だとは、今の私には証明できない」
クラウスは剣から手を離したまま告げた。
「だが、ここに残れば今夜のうちに地下へ移される。東の出口までは開けてある。私たちを信じなくていい。まず出口を見て、それから自分で決めろ」
子どもたちはすぐには動かなかった。やがて一人が毛布を落とし、隣の子の袖を掴んで立ち上がった。
その時、部屋の奥にあるもう一つの鉄格子の向こう側で、軍靴の足音と怒号が響いた。
鉄格子の向こうの別経路を、残る六人の子どもたちが、神官兵たちに乱暴に引きずられていくのが見えた。彼らの腕には、魔法的な拘束が施された移送用の重い腕輪がはめられている。警報が鳴った直後、教会側は即座に十六人を分散させ、一部を別ルートで移送し始めたのだ。
「あの子たちも……!」
フィアが鉄格子に駆け寄ろうとしたが、クラウスがその肩を強く掴んで引き止めた。
「だめだ! あちらの経路を追えば、神官兵の増援と鉢合わせになる。そうなれば、今ここにいる十人の退路まで失うことになる!」
時間切れになれば、十六人全員を失う。
クラウスは血を吐くような思いで、今救える十人の命を優先し、鉄格子の向こうへ消えていく六人を切り捨てる冷酷な撤退を選択した。
「お父さん、でも……わたしのせいだ! わたしが地図を間違えなければ、あの子たちも間に合ったのに……っ」
自分の誤りが具体的な損失と犠牲を生んだ事実に、フィアは顔を蒼白にして崩れ落ちそうになった。
私の誤認と彼女の誤記によって、六人は再び私たちの手の届かない経路へ移された。
だが、フィアはただ泣き崩れることを選ばなかった。
彼女は床に両手をつき、必死に涙を堪えながら、周囲の空間と自分たちの足元を鋭く観察し始めた。
「……熱い」
彼女が、石の床をなぞりながら呟いた。
「この床……礼拝室の下から、すごく強い不自然な熱が上がってきてる。それに、あの子たちが連れて行かれた運搬路の床、奥へ向かってすごい下り傾斜になってた……」
彼女は自らの失敗に潰されず、礼拝室下の地下から上がる熱源と、六人が消えた運搬路の傾斜という新たな情報を、自分の脳内の地図へ正確に記録し直したのだ。
「その傾斜を覚えておいてください。今は走ります」
私たちは十人の子どもたちを連れ、修道院の裏口から夜の王都へと脱出した。
数時間後。教会の追手を振り切り、王都の地下水路跡に設けた安全拠点に辿り着いた私たちは、泥のように眠りについた子どもたちを見守っていた。
私は、暗がりの中で、子どもたちの鎖骨の下に刻まれた勇者刻印をじっと見つめた。
彼らの刻印は、かすかに赤黒い光を帯びて明滅している。そのリズムに違和感を覚え、私は頭上にある地上の鉄格子から、王都の街を照らす魔力灯の光の瞬きを見上げた。
「……クラウス」
私は傍らで剣の手入れをしていたクラウスに、低い声で呼びかけた。
「この子たちの刻印と、王都の魔力灯が、同じ間隔で揺れているように見えます」
クラウスが手を止め、私と同じように頭上の光と子どもたちの胸元を交互に見比べた。
肉眼だけで断定はできない。私はエルナを呼び、脈拍と灯りの時刻を別々に記録するよう頼んだ。
フィアが見つけた地下の熱源も、同じ表へ加える必要があった。




