第23話 魔王は人間と踊る
教会が王宮で主催する大舞踏会。天井を覆い尽くす巨大なシャンデリアが放つ圧倒的な光と、楽団が奏でる優雅なワルツの旋律。色鮮やかなドレスと豪奢な礼服が交錯し、甘い香水の匂いがむせ返るように立ち込める広間へ、私とクラウスは地方貴族の夫婦として足を踏み入れた。
周囲の貴族たちが談笑に花を咲かせる中、私の手は薄い絹の手袋に包まれ、その下で微かに痙攣を繰り返していた。人間領における私の魔力は、すでに本来の一割にも満たない。夜境領の境界防壁を維持するため、毎夜なけなしの魔力を送り返し続けている代償だ。慢性的な疲労が身体の芯に深く根を下ろし、指先の震えという形で表面化しつつあった。
イレーネが渡した招待状で、私たちは国王療養区画、代理契約保管庫、防御中枢へ続く動線を実地で確かめる機会を得た。クラウスによる聖剣の実証が失敗した以上、持ち帰る情報まで空手にはできない。
私たちはシャンパングラスを片手に広間を優雅に歩きながら、視線だけを鋭く動かして王宮の構造と警備の穴を正確に脳裏へ刻み込んでいく。
「……西の回廊。国王療養区画へ続く重いオーク材の扉の前ですが」
エスコートするクラウスの腕に手を添えながら、私は羽扇の陰で小さく囁いた。
「ああ。あそこに立っているのは王室近衛兵ではない。教会の紋章を胸につけた神官兵だ。彼らが鍵の束を腰に提げている」
クラウスが周囲に気を配りながら、唇の動きを最小限にして答える。
事実の確認だ。長らく病に伏せているという国王アルベルト四世の療養区画は、完全に教会の管理下に置かれている。日々の薬の搬入から、誰が面会できるかという権限、果ては国政に関わる決裁文書の行き来に至るまで、すべてを教会が掌握している状態だ。これでは王家が実権を振るえるはずもない。代理契約保管庫への動線も同様に封鎖されている。
「一曲、踊ろう。壁際で立ち止まって見回してばかりでは、逆に不審を買う」
クラウスの提案に頷き、私たちは広間の中央へと進み出た。
ワルツの旋律に合わせて、彼が私の腰に手を回し、もう片方の手で私の右手を取る。
ステップを踏み出した瞬間だった。私の指先の痙攣が、重ねた手袋越しにクラウスへとはっきりと伝わった。
彼の眉が微かに動く。
「……手が、ひどく冷え切っている。それに、この震えは」
「問題ありません。魔王たる者が、王宮の空気に酔ったわけではありませんから」
私は魔王という肩書を盾にして自らの弱さを覆い隠し、その指摘を任務上の些細な不調として躱そうとした。私がいかに弱っていようと、今は潜入目的を完遂し、ヴァルターから防御制度の隠された前提を引き出すことが最優先事項だからだ。
だが、クラウスは私の言葉を許容しなかった。
「あなたが魔王かどうかは聞いていない。ネレイア、あなたが限界を隠して無理をしていると言っているんだ」
彼は私の不調を『魔王の役割』の問題ではなく、『ネレイアという個人の状態』として真っ直ぐに見ていた。
踊りの輪の中で周囲に悟られないよう、彼は私の手を握り直した。歩幅を一段狭め、右へ出る拍をわずかに遅らせる。私がよろめきかければ、腰へ添えた手に力が加わった。
彼自身も腹の傷が治り切っていない。一度深く踏み込んだ時、その眉間に短い皺が寄った。それでも無理に曲へ合わせず、近くの柱へ寄れる軌道を選んでいる。
その心地よい誘導に身を預けそうになった時、不意に私たちの歩調を遮るように、一人の男が滑り込んできた。
「これは美しい。お見事な足捌きです、エルデン卿。そして……夜の闇を纏ったような、見知らぬ御夫人」
豪奢な法衣を纏った六十七歳の大神官、ヴァルター・クレメンス。
彼の手元で、教会の最高権力を示す重厚な指輪がギラリと不吉な光を反射した。
クラウスの身体が一瞬だけ強張る。だが、ヴァルターは近衛兵を呼んで騒ぎ立てる様子もなく、穏やかで冷酷な笑みを浮かべて私を見た。地方貴族の妻を見る目ではない。彼は少なくとも、私の正体を疑っている。
「王都の夜はいかがかな、御夫人。我が白陽王国の秩序と繁栄は、聖なる光の加護と、強固な防御の礎の上に成り立っております」
ヴァルターは音楽に紛れる声量で、まるで天気の話でもするかのように語りかけてきた。
「少数の犠牲を伴おうとも、多数の平穏を守る。それが上に立つ者の背負うべき『合理』というものです。あなたほどの賢大な方ならば、この都の安寧を保つために必要な管理手段を、当然ご理解いただけるはずですが」
彼は勇者制度という子どもの命を搾取する仕組みを、王都の秩序と防御に不可欠な手段だと確信しており、私が彼と同じようにその合理性を理解するはずだと見込んでいた。
「秩序には、隠された前提があるはずです」
私は彼の探りに対し、静かに投げ返した。
「たとえば六十三年前、この都の防御は、聖灯炉ではなく……夜の領域との共同で為されていたのではありませんか」
薄暮盟約による共同防御が隠されている可能性。その確証を引き出すための問いだった。
ヴァルターの目が、指輪の石のように冷たく細められた。彼は明確な肯定も否定もせず、ただ小さく鼻を鳴らした。
「六十三年前の約定は、二つの領域が互いを信頼できるという前提に立った政治文書です。現在の防御を、それほど不安定な前提へ戻せと?」
「現在の制度は、子どもに契約を読ませず、拒否する機会も与えていません」
「国防の条件を、一人一人の感情へ委ねるわけにはいかない」
ヴァルターは微笑みを崩さなかった。
「保護者、領主、王家、教会。定められた代理者が同意し、五十年間この都の灯りを守ってきた。成人を徴発すれば家計と産業が止まり、拒否者との交渉にも時間がかかる。年齢別の選定と訓練は、総損失を抑えるための制度です」
「本人の意思を、損失の計算から外して?」
「あなたは制度の外で救った数人を見ている。私は、五十年間守られた国全体を見ている。代わりの防御を示せない者に、現在の仕組みを非難する資格があるのですか」
彼は、子どもを選ぶ本当の理由にも、共同防御の存在にも答えなかった。だが、古い盟約を実効性ではなく政治的な不安定さで退けた。その一点は持ち帰れる。
曲が終わりを告げ、ヴァルターは優雅に一礼して去っていった。
彼が離れた瞬間、私は小さく息を吐き、身体から力が抜けそうになった。
「……大丈夫か」
クラウスが素早く私の腰を支え、人目に付かないバルコニーの陰へと私を導く。
冷たい夜風が火照った頬を撫でた。手袋越しの彼の手から、確かな体温が伝わってくる。
「ええ。国王療養区画の現状と、大神官の思惑。潜入の成果としては十分です」
私は呼吸を整え、彼から離れようとした。
任務は終わった。偽装夫婦の演技を解き、いつもの護衛と協力者の関係に戻る時間だ。
クラウスもまた、それに気づき、私の右手をそっと手放そうとした。
だが。
彼の手が離れかけたその一瞬。
私は無意識のうちに、その大きな手を、手袋越しに一度だけ強く握り返していた。
クラウスが驚いたように目を見開く。
「ネレイア……」
彼が私の名を呼ぶ。
私は何も答えなかった。握り返した手を離すのが、わずかに遅れた。
私たちは王宮で得た情報を持ち、舞踏会の喧騒から離れた。




