表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/43

第21話 第四勇者の牢

文書院地下深くの暗闇に、焦げた紙の匂いと、古い油の饐えたような悪臭が立ち込めていた。


 王都の中心部、王立文書院の地下監房区画。私たちは、文書院長グレゴールに拘束された第四代勇者ヨアヒムを救出するため、この迷宮のような地下道に潜入していた。


 ヨアヒムの異端尋問が始まるまで、もう猶予はない。


 しかし、事態は最悪の様相を呈していた。ヨアヒムが拘束されている地下監房と、グレゴールが先程押収した改変前の原本が保管されている一時押収庫は、同じこの地下区画にありながら、地上へ繋がる脱出路が完全に正反対の方向に分かれていたのだ。


 人の命と、五十年の歴史を覆す証拠。その両方を同時に持ち出すことは、今の私たちの戦力では不可能に近かった。


「ヨアヒム!」


 見張りの神官兵をクラウスが峰打ちで沈め、私は鉄格子の奥にいる彼を見つけた。


 彼は冷たい石の床に座り込んでいたが、目立った外傷はない。しかし、その十指の先には、先程まで古い記録と格闘していた名残である、黒いインクの染みが深く染み付いていた。


「ネレイア様……なぜ、ここへ。危険です」


 クラウスが衛兵から奪った鍵束で鉄格子の錠を開ける。重い金属音が響き、扉が開かれた。


「立ちなさい、ヨアヒム。脱出路は確保しました」


 私が手を差し出すと、彼は立ち上がりはしたものの、出口へ向かおうとはせず、鉄格子の外、押収庫の方角へと歩き出そうとした。


「待ってください。原本がまだあの部屋にあります」


 ヨアヒムの目は、自分の命の危機よりも、失われようとしている歴史の真実に完全に囚われていた。


「グレゴール院長は、あの原本を異端の偽造文書として、間もなく焼却するつもりです。五十年前の年齢改変の証拠が灰になれば、私たちが何年かけて集めた調査もすべて無意味になる。僕が残って箱を運び出します。あなたたちは先に……」


「馬鹿なことを言うな!」


 クラウスが、ヨアヒムの肩を強く掴んで引き止めた。


「お前一人の力で、重い原本箱を運び出しながら追手から逃げ切れるはずがないだろう! 命があってこその証言だ!」


「ですが、証拠がなければ誰も信じない! 事実を後世に残すことが、僕の……僕たち記録官の存在意義です!」


 ヨアヒムはクラウスの腕を振り解こうと必死に抵抗した。彼は、自分の安全よりも記録の保全を優先する、彼特有の悪癖に完全に支配されていた。


「ヨアヒム」


 私は、彼の前に立ち塞がり、その両肩を力強く掴んだ。


「あなたは過去にも、記録の保全を優先して、一人の子どもの救出要請を遅らせたと言いましたね」


 ヨアヒムの動きが、ピタリと止まった。


「……はい」


「その結果、あなたが守った証拠は、失われた子どもの命に代わる重さを持ったのですか」


 私の問いに、ヨアヒムは顔を歪め、言葉を詰まらせた。


 私は以前、大人の適格者を示す記録より、拘束された人々の命を優先した。だが、証拠を失うたびに、この巨大な制度を本当に止められるのかという恐怖は、私の内側でも膨らんでいた。それでも。


「記録は、人が生きていればこそ意味を持ちます。あなたが死んで残る紙の束より、あなたが生き延びて語る言葉の方を、私は選びます」


 その時。


 鼓膜を劈くような警報の鐘が、地下区画全体に鳴り響いた。


 同時に、廊下の奥、押収庫の方向から、ゴォォッという重低音とともに猛烈な熱風が吹き込んできた。


「……火が、入りました」


 ヨアヒムが、絶望に満ちた声で呟いた。


 グレゴール院長は、尋問を待つまでもなく、押収した原本の焼却処分を開始したのだ。廃棄用の油が回った焼却溝から、黒い煙が立ち上り始めている。


「もう迷っている時間はない。ネレイア、背後を頼む。ヨアヒム殿、歩け。私が支える!」


 クラウスは腹の傷を庇いながら、ヨアヒムの腕を自分の肩へ回した。ヨアヒムはなお押収庫を振り返ったが、二人で足をもつれさせながら隠し通路へ入った。


 私たちは猛煙を背に、文書院地下の隠し通路を進んだ。


 逃走する背後で、五十年の真実を記した湿気を吸った原本箱が、炎に舐められ、次々と灰に変わっていく不気味な音が響いていた。


「……っ、お待ちください!」


 私たちが地下道を抜け、裏路地へ出ようとしたその時、暗がりから一人の人影が飛び出してきた。


 クラウスが即座に剣を抜くが、私はそれを手で制した。


 現れたのは、先程の保管庫でグレゴールの後ろに控えていた、あの若手記録係の職員だった。


 彼は息を切らし、煤に汚れた顔で、革鞄の中から数枚の羊皮紙を取り出した。


「これ、を……」


 彼が差し出したのは、震える手で急いで書き写されたと思われる、年齢改変記録の『写し』と、それを誰が持ち出し、いつ破棄を命じたかを示す『閲覧簿』の記録だった。


「原本は燃えました。これは偽造だと言われれば、それまでです。……僕の名も、今は出せません」


 彼は何度も背後を確かめてから、鞄を私へ押しつけた。


「それでも、閲覧簿の時刻と照合してください。同じ箇所を見た職員は、ほかにもいます」


「分かりました」


 私が受け取ると、彼は返事を待たず、暗い路地へ消えた。


 安全な隠れ家に戻った後も、ヨアヒムはすぐには自分が救われたことに素直な感謝を述べることはできなかった。


 彼は椅子へ座らされた後も、インクの染み付いた両手を見つめ、燃えてしまった紙の束がある方角を、痛切な眼差しで振り返り続けていた。


 私は彼に、「私の選択が正しかった」と説教を垂れるような真似はしなかった。彼が失ったものの重さは、記録官である彼自身が一番よく知っている。


 その夜遅く。


 ヨアヒムが文書院で使っていた匿名の連絡箱に、差出人不明の一通の書状が入っていた。


 王家の正式な封蝋はない。ただ、簡素な羊皮紙に、極めて実務的な筆跡で短く記された、非公式な接触文。


『証拠と、代替の策を示せ。さもなくば、道は開かれない』


 それは、王位継承順位第一位、第一王女イレーネからの、私たちへ向けられた面会条件だった。


 ヨアヒムの命は救い、文書院内部に名もなき協力者を得た。しかし、改変前の原本の大部分は失われ、手元に残されたのは若手職員の写しと、焼け焦げた紙片のみ。


 これら不完全な証拠の真正性を、いかにして複数の人間の生きた証言で支え、王女を納得させるか。


 私たちは休む間もなく、次なる重い課題へと直面していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ