第2話 崖の下に捨てられていたのは、勇者の父でした
夜境の冷気の中に、ひどく生々しい鉄の匂いが混じっていた。
魔王城の境界結界が捉えたその匂いの源へ、私は一直線に絶壁を降下した。
険しい岩肌に叩きつけられ、無惨に引き裂かれた草木。その先の岩棚に、一人の人間の男が倒れていた。
王国の騎士が身につける厚い外套は、もはや元の色が分からないほど赤黒く染まっている。腹部には鋭利な刃物で深々と抉られた痕があり、そこからとめどなく命が流れ出していた。崖の上からの落下による骨折と打撲も深刻で、左腕は不自然な方向に曲がっている。
周囲に教会の兵士たちの気配はない。標的が確実に死に至る深手を負い、この絶壁を落ちていったのを確認して、早々に退いたのだろう。
私は男の首筋に指を当てた。脈は微弱で、肌はひどく冷え切っている。
玉座の間からここへ来るまでに、フィアが途切れ途切れに教えてくれた。男の名はクラウス。彼女の父親だ。
「……死なせるわけにはいきませんね」
私一人で彼を魔王城へ運び上げることは容易い。だが、この状態の人間を私個人の魔力だけで完全に救命することは不可能だった。私の力はあくまで魔族のものであり、人間の複雑な内臓器官や失われた血液そのものを瞬時に作り出すことはできない。
私は彼を魔力で慎重に包み込み、城の医療区画へと急いだ。
「エルナ! 急患です」
医療区画の重い扉を魔力で蹴り開け、私は声を上げた。
待機していた六十歳の医師、エルナは、血まみれのクラウスを見るなり即座に処置台を指した。
「担架へ。ネレイア様、術灯と保温具への魔力供給をお願いします」
エルナの声に焦りはない。彼女は使い込まれた医療鋏を手に取り、クラウスの血に濡れた騎士外套と衣服を躊躇なく切り開いていく。
私は指定された魔導設備に手を触れ、己の魔力を細く、正確に流し込んだ。
「フィア、そこにいてください」
私の背後で、息を呑む音がした。玉座の間から私の後を追ってきたフィアだ。
彼女の小さな両手には、先程父親の身体にすがりついた時の赤い血がべっとりと付着している。
「お父さん……お父さん……っ」
フィアの瞳孔は開き、激しい混乱に陥っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……わたしが、わたしが魔王を倒さなかったから……教会の人が言った通り、お父さんが罰を……わたしのせいで……!」
彼女はその場にへたり込み、同じ謝罪を何度も繰り返した。
今は誤解を一つずつ解いている時間がない。私は自分の焦りを押し込み、エルナの判断に従った。
「ネレイア様、腹の奥の太い血管から出血しています。止血鉗子を」
「渡します」
私はエルナの要求に即座に応え、金属の器具を手渡す。
「フィア。手伝えますか」
私は振り返らずに、冷たい石の床で震える少女へ声を投げた。
「そこにある清潔な布を、エルナの横へ運んでください。終わったら、お父さんの額を拭いてあげて」
「え……あ、はい……っ!」
フィアは弾かれたように立ち上がり、指示された通りに布を抱え、小刻みに震える手でクラウスの額を押さえた。謝る代わりに、目の前の仕事へ両手を使い始めた。
エルナはフィアの存在を気に留める様子もなく、淡々と、しかし凄まじい精度で縫合を進めていく。彼女は「助かる」という安易な保証を一切口にしない。ただ目の前の損傷を塞ぎ、命を現世に縛り付ける処置の優先順位を絶対に崩さなかった。
血の匂いと金属音が支配する緊迫した数時間が過ぎた。
エルナが最後の手当てを終え、ほうと細い息を吐いた時、クラウスの浅かった呼吸が、ようやく深く規則的なものへと変わった。
「……終わりました。最悪の峠は越えましたが、予断は許しません」
エルナが血にまみれた手袋を外す。
その直後だった。
クラウスのまぶたが微かに動き、ゆっくりと開かれた。
焦点の合わない瞳が天井を彷徨い、やがて、自分のすぐ傍らで涙ぐみながらガーゼを握りしめている小さな娘の姿を捉えた。
「……フィア……?」
掠れた、砂を噛むような声。
「お父さん……! よかった、よかったぁ……!」
フィアが彼の胸に顔を埋めようとして、エルナに「傷に響きますよ」と優しく引き剥がされる。
クラウスは安堵に顔を緩めた。だが次の瞬間、彼の視線が私を捉え、その瞳に強烈な敵意と警戒が走った。
「貴様……魔王、か……!」
彼は自分の傷の深さも忘れ、娘を私の視線から庇うように無理やり身を起こそうとした。
バツン、と。縫合したばかりの糸が引きつり、包帯に新しい血がにじむ。
「フィア、私の後ろへ……!」
「動かないでください!」
エルナが厳しい声でクラウスの肩を力強く押しとどめた。
「腹部の縫合が引き裂かれます。あなたが今動けば、五分で出血死する。娘さんを守りたいなら、今は大人しく寝台に背中を預けなさい」
クラウスはエルナの鋭い気迫と、自身の身体から発せられる絶望的な痛みに抗えず、再び寝台へと沈み込んだ。荒い息を吐きながらも、彼の目は私から決して離れない。
「……なぜ、私を生かした。娘の命を人質に、国と交渉でもするつもりか」
「交渉の余地などありませんよ、クラウス・エルデン卿」
私は静かに答えた。
「あなたと娘さんを王都から追いやった者たちは、あなたが生きていることなど望んでいないのですから」
私の言葉に、クラウスの顔が苦痛とは別の理由で歪んだ。
「お父さん。どうして、崖から落ちたの? 教会の人は、お父さんがわたしを魔王城へ送れば、許してあげるって……お父さんも村の人も、罰しないって言ってたのに」
フィアの問いに、クラウスは奥歯を強く噛み締めた。
「……同行していた教会の回収隊だ。あいつらは、お前を一人で城の門へ向かわせた後、私を取り囲んだ」
クラウスは、途切れ途切れの記憶を探りながら口を開いた。
「『護衛の役目は終わった。父親が生きて帰れば、余計な証言者になる』……そう言って、私の腹を刺し、崖下へ蹴り落としたんだ」
フィアの顔から、さっと血の気が引くのが見えた。
教会が彼女に与えたのは、全くの嘘だったのだ。自分が使命を果たせば父親が助かるという約束は初めから存在せず、父が娘を差し出したという教会の公向けの説明とも完全に食い違っている。
「お父さん……わたし……」
言葉を失うフィアの足元に、彼女が玉座の間からここまで引きずってきていた重い聖剣が転がっていた。
寝台の周りの動線や医療器具の搬入を塞いでいるそれに気づき、私は聖剣を部屋の隅へ動かそうと手を伸ばした。
私が剣の刀身を魔力で浮かび上がらせた時、ベッドの端から垂れ下がっていたクラウスの指先が、偶然、聖剣の柄に触れた。
――パチリ。
極度の静寂の中で、微かな音が鳴った。
クラウスの指が触れた柄から、ごく僅かな、しかし確かな微光が刀身に向かって走ったのだ。
ほんの一瞬。瞬きをする間に消えてしまうほどの弱い光。
私は動きを止め、クラウスの指と聖剣を交互に見つめた。
教会は、聖剣が純粋な子どもだけを選ぶと説いている。ならば、今の光は何だったのか。
私は何も断定せず、聖剣を部屋の隅へ立てかけた。クラウスの目も、消えた光の跡を追っていたが、彼は何も言わなかった。
クラウスは荒い呼吸を少しずつ整えながら、自分の傷口を的確に処置した初老の女性を見上げた。
「……見事な手際だ。ただの治癒魔術で無理やり塞ぐのではなく、人間の身体の構造を完全に熟知している。魔族の中に、これほど人体の扱いに長けた医師がいるとはな」
「私は魔族ではありませんよ、クラウス卿」
エルナは血のついた器具をトレイに片付けながら、静かに、そして穏やかに微笑んだ。
「私は五十年前、フィアと同じように教会から選ばれ、この城へ送られた、ただの十歳の子どもでした」
クラウスの目が、驚愕に見開かれた。
「……な、に……?」
「私は第一代勇者、エルナと申します。以後、お見知りおきを」
教会の記録ではとっくの昔に戦死したはずの存在が、生きた人間として、熟練の医師として目の前に立っている。
教会の嘘に入った最初の亀裂が、今、決定的な崩壊へと向かって音を立てていた。




