第1話 「また子どもですか?」女魔王は聖剣よりスープを差し出した
夜境の果て、魔王城の最奥にある玉座の間。重厚な黒曜石の扉が、軋みもせずにゆっくりと開いた。
本来なら侵入者を拒むはずの堅牢な石造りの広間に、金属が不規則に床を擦る甲高い音が響き渡る。
現れたのは、ひどく小柄な影だった。
「……魔王、覚悟しなさい。わたしが、あなたを倒します」
声は高く、ひび割れ、ひどく震えていた。
侵入者は、十一歳になるかならないかの人間の少女だった。彼女の身体には全く合っていない、引きずるほどに長くて大きな純白の外套を羽織っている。
そして彼女の両腕は、自身の背丈ほどもある長剣を必死に持ち上げ、真っ直ぐに私へと向けていた。
白陽王国が勇者の証として管理する――聖剣。
本来なら大人の騎士が両手で扱う質量のそれを、少女は震える腕で水平に保とうとしている。だが、刃先は細かく揺れ、彼女の浅い呼吸に合わせて上下していた。これほどの重さを、どうやってここまで引きずってきたのか。
私は玉座に座ったまま、彼女を静かに観察した。
外套の下の衣服は土と草の汁で汚れ、ところどころが破けている。頬はこけ、唇はひどく乾燥してひび割れていた。瞳だけが、異常なほどの熱を帯びて私を睨みつけている。
「あなたを倒さないと……お父さんが、許してもらえない。だから……」
一歩、彼女が前に出た。その瞬間、足元がわずかにぐらつく。
魔王城に辿り着くまでの道程は、大人の軍隊であっても過酷なものだ。この小さな足で、どれほどの距離を歩かされてきたのか。
私は口を開いた。
「最後に温かい食事を取ったのは、いつですか」
「……え?」
少女は目を瞬かせた。威嚇の言葉でも、命乞いでもない私の問いに、彼女の思考が一瞬だけ止まる。
「覚えていませんか」
「……出発する前。三日前……たぶん」
少女は乾いた唇を舐めた。その視線が、ほんの一瞬だけ私の横にある水差しへ流れる。
「では、武器を構えるのは食事の後にしませんか。今のあなたは、剣を振るより先に倒れます」
私が指先を軽く動かすと、玉座の間の冷たい石床の上に、ぽつりと小さなテーブルと木製の椅子が現れた。
テーブルの上には、深めの皿になみなみと注がれた琥珀色のスープと、柔らかく焼きたての丸パンが置かれている。スープからはふわりと白い湯気が立ち上り、肉と根菜を煮込んだ濃厚な香りが広間の冷気を押し退けた。
少女の喉が、無意識に大きく鳴った。
しかし、彼女は剣を下ろさない。震える足を必死に踏ん張り、スープと私を交互に睨みつける。
「……罠だ。わたしが油断したところを、食べる気でしょう」
「食べません。私は人間の肉を好みませんし、あなたから奪うべきものもありません」
「嘘だ! 教会の人が言っていた。魔王は恐ろしい怪物で、子どもを騙して殺すって……だから、わたしは騙されない……!」
叫び声は悲鳴に近かった。彼女は、差し出された親切をそのまま受け取ることを恐れている。疑わずに手を伸ばすことを、許されてこなかったのだろう。
私は急がなかった。立ち上がりもせず、ただ静かに彼女の次の行動を待つ。
温かい食事の香りは、抗いがたい力で彼女の生存本能を叩いているはずだ。
沈黙が下りた。
少女は剣を構え続けようとした。だが、彼女の体はとうに限界を超えていた。
三日間の飢餓。不眠。そして自分よりはるかに大きな恐怖。
「あっ……」
彼女の小さな手から、ついに力が抜け落ちた。
金属の柄が指先から滑り、重い聖剣が石の床へと落下していく。
私は玉座から一歩も動かず、視線だけで床の上の魔力を編み上げた。
ガァン、という硬質な破砕音が響くはずだった空間で、聖剣はまるで見えないクッションに受け止められたかのように、音もなく空中で停止した。
少女が息を呑む。
私は聖剣を傷つけないよう慎重に魔力で包み込み、そのままゆっくりとテーブルの横へ移動させた。椅子のすぐ手の届く位置、刃先が彼女を向かない安全な角度で、静かに床へ寝かせる。
「剣はそこに置いておきます。いつでも手に取って構いません」
私は言った。
「ですが今は、まず座りなさい。スープが冷めてしまいます」
少女は自分の両手を見つめ、それから床に置かれた聖剣を、最後にテーブルの上のスープを見た。
迷い、怯え、それでも最後には、ゆっくりとテーブルへと近づいていく。
大きすぎる外套の裾を引きずりながら、彼女は椅子によじ登るようにして座った。
大人の背丈に合わせて作られた椅子は、子どもには少し高すぎた。彼女の足は床に届かず、空中で所在なげに揺れている。
木のスプーンを握る手は、まだ小刻みに震えていた。
彼女は警戒するように私を一度見上げ、それから、意を決したようにスープをすくって口へ運んだ。
一口。
そして、二口。
温かな液体が喉を通った瞬間、彼女の身体からふっと余計な力が抜けるのが見えた。
彼女は無言のまま、次々とスープを口に運び始めた。スプーンを使うのももどかしくなったのか、両手で皿を持ち上げ、直接口をつけて飲み干していく。パンをちぎる手つきは乱暴で、ただひたすらに腹を満たすことだけを求めていた。
その途中だった。
ぽつり、と。
木製のテーブルに、丸い水滴が落ちた。
少女は皿から顔を上げず、ただ黙々とスープを飲みながら、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
声は出さなかった。ただ、頬を伝う透明な滴が、スープの皿やパンの上に落ちていく。
恐怖から解放された安堵なのか。
空腹が満たされたことへの生理的な反応なのか。
それとも、魔王を倒さなければという使命を果たせず、食事の誘惑に負けてしまった自分への罪悪感なのか。置いてきた父親への申し訳なさなのか。
彼女が何のために泣いているのか、私は問わなかった。泣き止ませるための慰めの言葉も掛けない。乾いた布巾を水の入った杯の横へ滑らせ、ただ、彼女が一人で食事を終えるのを静かに見守り続けた。
皿の底が見え、最後の一欠片のパンが彼女の口に収まった。
少女は布巾ではなく外套の袖で乱暴に目元と口の周りを拭い、ほう、と小さく息を吐いた。
その細い肩から、先程までの痛々しいほどの張り詰めが消えている。
「……ごちそうさまでした」
かすれた声で、彼女は言った。敵であるはずの私に対する、ひどく丁寧な礼だった。
「お粗末様でした。落ち着きましたか?」
「……はい」
少女は椅子の横に置かれた聖剣に視線を落とし、それから、また私を見た。
「あの。わたしは、これからどうなるんですか。殺されるんですか、それとも、牢屋に入れられるんですか」
「どちらもしません。ここはあなたの牢獄ではありません」
私がそう答えようとした、その時だった。
――ぞわりと。
夜境の空気が、微かな異物感を伝えてきた。
私は言葉を止め、広間の奥、外界へと繋がる高い窓へと視線を向けた。
魔王城の境界結界が、人間の血の匂いを捉えたのだ。
それも、ごく新しい血だ。城の防壁のすぐ外側。険しい絶壁の下の谷底から、濃厚な鉄の匂いが風に乗って立ち上ってくる。
「魔王、さま……?」
私の視線の動きに気づき、少女が不安げに声を上げた。
教会の部隊がここまで侵入した形跡はない。だとすれば、この血は誰のものか。
先程の彼女の言葉が脳裏を過る。
『あなたを倒さないと……お父さんが、許してもらえない』
教会が、十一歳の子どもを何の監視もなくここまでよこすとは考えにくい。
「……あなたの名前は」
「フィア、です」
「フィア。あなたと共にこの城へ向かっていた人間が、ほかにいませんでしたか」
私の問いに、フィアの顔色が一瞬にして蒼白になった。
「お父さん……! お父さんが、下まで一緒だったの。でも、教会の兵隊の人たちが、お父さんはここまでだって言って……」
フィアの震える手からスプーンが滑り落ち、カラリと乾いた音を立てた。
血の匂いは、次第に弱くなっている。崖から落とされたか、致命傷に近い一撃を受けたのだろう。
「待っていなさい」
私は玉座を立ち上がった。
子どもへ突きつけられた非情な選択を、ここで終わらせるために。
絶壁の下に捨てられた、彼女の父親を拾い上げるために。




