第19話 勇者の母
王都の広場では、数日前に開かれた「第七代勇者フィア」の追悼祭の余韻がまだ色濃く残っていた。
教会の手によって、本人が一度も口にしていない立派な最期の物語が流布され、民衆は美しい自己犠牲の劇に涙を流している。当の本人であるフィアは、他の候補者たちを救う準備が整うまで自身の生存を明かさないと決断し、薄暗い地下の安全拠点で今日も息を潜めていた。
その王都の片隅、勇者遺族への恩給で暮らす世帯が集まる区画へ、私とヨアヒムは足を運んだ。
目的は一つ。六年前、十一歳で第六代勇者として選ばれた少年、ノエルの実家を訪ねることだ。
「王立文書院から参りました。遺族恩給の継続に関する、定例の記録確認です」
ヨアヒムが手慣れた様子で身分証を示すと、家主であるノエルの母、ミレーヌは私たちを家の中へと招き入れた。
「どうぞ、こちらが息子の部屋です。あの子が旅立った日のまま、何も変えておりません」
案内された二階の小さな子ども部屋に入った瞬間、時間の流れが六年前に完全に凍りついているのが分かった。
壁際に置かれた木製の寝台は、十一歳の子どもには丁度いいが、十七歳に成長し、魔王城で長剣を振るう今のノエルの背丈にはどう見ても短すぎる。椅子の背には古い上着が掛けられ、机の上は塵一つなく磨き上げられていた。床には、もう二度と成長することのない小さな靴が、つま先を揃えて置かれている。
「ノエルは勇敢な子でした。神の使命を受け入れ、大勢の大人たちに見送られて、笑顔で旅立ちました。あの子の尊い犠牲のおかげで、私たちの平和は守られているのです」
ミレーヌは、流れるように教会の公式物語を口にした。
その言葉の端々には、息子を失った悲しみよりも、自分に言い聞かせるような強迫観念が張り付いている。勇者の遺族として支払われる恩給は、彼女の生活を支える唯一の命綱だ。教会の作った「名誉ある死」という物語に同意し、それを演じ続けることでしか、彼女は生活と心の均衡を保つことができないのだ。
私の胸の奥で、ジリッと焼け付くような痛みが走った。
フィアの時と同じ、勇者刻印の『副契約』の反応だ。私が今ここで「あなたの息子は生きています」と告げれば、ミレーヌとノエルの双方へ負荷が走る。どこまで耐えられるかは分からない。確かめるために母子の命を賭けることはできなかった。
記録の確認という名目の書類仕事が終わり、私たちが部屋を辞そうとした時だった。
「あの……文書院の方」
ミレーヌの声が、ふいに公的な響きを失い、低く掠れた。
彼女の視線は、部屋の隅に置かれた小さな靴に落ちていた。
「あなた方は、過去の戦いの記録も多くご存知なのでしょう。……教えてください。あの子は……最期、怖がっていなかったでしょうか」
それは、恩給を受け取る「遺族」としてではなく、息子を死地に追いやった「母親」としての、ずっと抱え込んできた疑念だった。
「教会の司教様は、あの子が魔王の炎の前でも決して怯まず、神への祈りを口にして立派に散ったと教えてくださいました。でも……あの子は、まだ十一歳でした。本当は、泣いていたのではないかと……」
私は立ち止まり、すがるような彼女の目を見た。
生存の事実は明かせない。だが、教会の物語で塗り潰されたノエル個人の感情を、そのまま放置しておくことはできなかった。
「十一歳の子が、死ぬ時まで一度も怖がらなかった。私は、その記録の方を疑います」
ミレーヌの指が、椅子の背を強く掴んだ。
「では……やはり、あの子は泣いたのですか」
「泣いたとしても、恥ではありません」
「そんなことを聞きたいのではありません」
彼女は首を振った。先ほどまで滑らかだった呼吸が乱れている。それでも床へ崩れることはなく、椅子を支えに立ち続けた。
「あなたは、あの子を知らないでしょう。司教様は、立派だったと……あの子の死には意味があったと、そうおっしゃったのです」
私は反論しなかった。恩給も、六年間守ってきた部屋も、私の一言で代わりを用意できるものではない。
「もう、結構です。今日はお帰りください」
ミレーヌは小さな靴を見たまま、私たちへ背を向けた。
王都の地下水路跡に設けた安全拠点に戻ると、そこには温かなスープの匂いが充満していた。
薄暗い空間に置かれた長机を、歴代の勇者たちが囲んでいる。エルナが鍋をかき混ぜ、バルトが硬いパンを切り分け、シルヴィアとリーゼが器を並べる。クラウスが警戒を解いて剣を置き、フィアが年長者たちの手伝いをして立ち回っていた。
「遅かったな。飯、冷めるぞ」
壁際によりかかっていたノエルが、私とヨアヒムの顔を見てぶっきらぼうに言った。
彼は十七歳の青年の身体で、十一歳の時に着ていたものとは違う、自分のサイズに合った黒い外套を羽織っている。
私は席につき、配られた簡素なパンとスープを前にして、ミレーヌとの会話をノエルに伝えた。
嘘は吐かない。教会の美談を語ることで恩給を得ている現実も、そのまま保存された小さな部屋のことも、最後に彼女が恐怖について尋ねたことも、全て事実として置いた。
ノエルは木のスプーンを握ったまま、俯いて黙り込んだ。
「……俺は」
ノエルが、絞り出すように口を開いた。
「俺は、あんな小さなベッドじゃ、もう足がはみ出して眠れねえよ」
それは、失われた六年間という時間の残酷さを表す、誰にも否定できない事実だった。
ガタッ、と大きな音を立てて、ノエルは椅子から立ち上がった。
「……食欲失せた。先に寝る」
彼は皿に手をつけることなく、背を向けて自分の簡易寝所がある奥の区画へと歩き去ってしまった。誰も彼を呼び止めなかった。彼が今抱えている感情は、言葉一つで綺麗に解決するようなものではないと、この場にいる全員が知っているからだ。
母子は再会していない。何も決まっていない。
フィアが静かに立ち上がり、ノエルの席に残されたままの丸パンを手に取った。
彼女は手近にあった清潔な包み布を広げ、ノエルのパンを丁寧に包み込む。そして、足音を立てずに奥の区画へと向かい、ノエルが閉じこもった部屋の扉の前に、その包みをそっと置いた。
扉の向こうに声をかけることなく、フィアは戻ってきた。




