第17話 送れなかった手紙
王都の入り組んだ裏路地を抜け、放置された古い地下貯蔵庫の重い鉄扉を内側から閉める。
外の光を完全に遮断したその空間に辿り着いた瞬間、私は壁に手をついて小さく、だが深く息を吐いた。人間領における私の魔力は平常の一割未満だ。それは単に強力な魔術が使えないというだけでなく、大気中の魔素濃度の違いによる恒常的な息苦しさと、極度の身体的疲労をもたらす。
衝立の向こうでは、先に休ませたフィアが眠っている。時折、毛布の中で確かめるように身じろぎする音がした。クラウスはそちらへ一度目をやってから、声を落とした。
「……あの木箱に座ってくれ。入り口の警戒と封鎖は私がやる」
クラウスが、私の肘を下からそっと支えながら言った。王都へ潜入する道中、検問や教会の巡回兵の目を躱す際、彼は常に私の半歩前を歩き、敵の視線や人混みから私を庇い続けてくれた。彼自身の剣の腕と広い背中を盾にしつつも、決して私を無理に引っ張ったり、私の判断を奪って独断で動いたりすることはなかった。私の足が止まれば彼も止まり、呼吸が乱れればさりげなく身を挺して壁の死角へ誘導する。
弱い存在をただの荷物として扱うのではなく、対等な者の不調を補うための、極めて正確な護衛だった。
「感謝します、クラウス。ですが、休んでいる暇はありません」
私は彼の手から静かに離れ、部屋の中央にある古い作業机へ向かった。
机の端には、道中で買った豆のスープが置かれていた。表面には薄い膜が張り、もう湯気はない。
その横に、魔王城から秘密裏に運び込ませた木箱がいくつか並んでいる。成人の選定記録を失った今、箱の中身を本人確認の資料に使えるか確かめる必要があった。
クラウスは備え付けのランプの火を細く絞り、机の上の木箱を見つめた。
「ネレイア」
「以前から、ずっと疑問に思っていたことがある。歴代の勇者たちは生きていた。シルヴィア殿やヨアヒム殿のように、人間領へ戻って活動できる者もいる。……ならばなぜ、彼らは家族の元へ帰らなかったのだ。なぜ、長年にわたって死んだことにしておく必要があった。帰りたくなかったわけでは、ないだろう」
手元にある木箱の一つを引き寄せ、蓋を開ける。
中は年代別、人物別に細かく仕切ってある。私は一番古い仕切り――『第一代・エルナ』と記された束から、変色した羊皮紙を一枚抜き出した。
封もされず、宛名だけが書かれた手紙。
羊皮紙は上等なものではない。端は不揃いで、折り目も何度かつけ直されている。宛名だけは、子どもが手本を見ながら書いたように、一文字ずつ間が空いていた。
「読んでみてください」
クラウスは受け取った羊皮紙に目を落とす。
「……『お母さんへ。わたしは生きて』……」
そこで筆跡は大きく斜めへ逸れ、紙の端まで裂いていた。
「筆跡が、ひどく乱れている。羽ペンを紙に押し付けたまま、無理やり斜めへ引き剥がされたような……それに、この赤黒い染みは」
「血です」
「五十年前、十歳だったエルナが書きました。ここから先へ進めようとした時、刻印が彼女と故郷の母親へ反応した」
「母親は」
「その時は助かりました。三日間、原因の分からない胸痛で寝込んだという記録が残っています。エルナが続きを諦めると、症状は治まった」
クラウスの親指が、紙の端で止まった。
「本人は、それを知っているのか」
「後で伝えました。彼女は二度と、この続きを書こうとはしませんでした」
クラウスは裂け目へ触れないよう、紙の両端を持ち直した。
私は六代目の仕切りから、粗悪な紙を取り出した。何度も握り潰され、そのたびに広げ直された紙片だった。
「これはノエルのものです」
残っているのは、『母さん』の三文字だけだった。
最初の二文字は強く太い。三文字目は途中から薄くなり、最後の払いは紙の皺へ埋もれている。右下の角だけが焦げていた。燃やしかけて、消した跡だ。
「彼はこれを私へ渡すまで、三日持ち歩きました」
「何と言って渡した」
「別に。机へ置いて、出ていきました」
クラウスはノエルの紙片を受け取り、その深いシワの跡を太い指でそっとなぞった。
「……彼らが帰れなかったのは、帰れば家族を確実に殺すことになるからか。今の、フィアの副契約と同じように」
「危険にさらします。近づくことも、生きていると伝えることもできなかった。解除を何度も試しましたが、まだ切れていません」
クラウスは何も言わなかった。
彼は箱の側面を見つめた。そこには年代ごとの細かなラベルが、すべて同じ私の筆跡で貼られている。
「ネレイア。あなたはこれを……」
「彼らが書こうとして、書けなかった手紙を。五十年間、ずっとこうして保管していたのか」
「誰の言葉だったか、分からなくならないように」
それ以上は答えられなかった。
クラウスは仕切りの札を見た。名前の下には、書かれた日と、刻印が反応した箇所、故郷で確認できた異変だけを記してある。
「証拠として残したのか」
「最初は」
「今は?」
私は答えず、エルナの手紙の向きを直した。
クラウスは二通を元の仕切りへ戻し、蓋を閉めた。それから冷えたスープの器を取り、隅の火鉢へ向かう。
やがて小さな湯気が戻った器が、私の前へ置かれた。
「熱い。急いで飲まなくていい」
私が器を受け取る時、指先が一度だけ触れた。クラウスはすぐに手を離した。
豆は少し煮崩れ、底には固まった塩が残っていた。温め直しただけで味が良くなるわけではない。それでも、冷えたままよりは飲み込めた。
部屋の空気が、微かに揺らいだ。
窓の隙間から滑り込んできた一匹の黒い使い魔の鳥が、私の肩に舞い降りて鋭い鳴き声を上げる。
私は鳥から記憶を受け取り、器を机へ戻した。
「ネレイア?」
クラウスもまた、一瞬で元騎士団長の鋭い顔つきに戻り、剣の柄に手をかけた。
「ヨアヒムからです。五十年前の使用記録に、年齢欄を削った跡を見つけた。三日後の夜、原本が特別保管庫から移されます」
「その前に見ろ、ということか」
「ええ。その夜だけ、彼が裏階段を開けるそうです」
クラウスは閉じた木箱と、湯気の戻った器を順に見た。
「では、それまで捕まるわけにはいかないな」
私は冷めないうちにスープを一口飲んだ。




