第16話 子どもだけという嘘
王都へ向かう街道沿いの教会の地方支部。
私たちは今、その広大な敷地の裏手にある廃棄物置き場の物陰に身を潜めていた。
先程の礼拝堂での選定会場で、聖剣を光らせた大人の鍛冶師は、手続違反と器具不良という名目で拘束され、地下へと連行されていった。そして、彼の適性を示す『年齢欄』が書き込まれた検査票の紙片は、若い書記官の手によって引き裂かれ、排水溝の奥へと落ちていった。
人間領の薄い魔素の空気の中、私の『契約視』は極端に精度を落としている。城にいた時のように、結界を張って全員を無力化し、安全に両方を救い出すような真似は不可能だった。
「……二手に分かれている」
クラウスが、教会の建物の裏口から出てきた数人の神官兵の動きを観察し、低く囁いた。
「鍛冶師の男は、あの荷車で東の異端尋問所へ移送されるようだ。一方、先程の若い書記官は、破り捨てた紙片の入った塵箱を持って、西の焼却炉へ向かっている」
証拠と、人命。
二つの標的が、完全に別方向へと動き出していた。
「あの紙片は、教会の年齢制限という嘘を崩す決定的な公的記録です。燃やされる前に確保しなければ……」
私は焦りから、西の焼却炉へ向かおうと半歩踏み出した。しかし、その瞬間、極度の疲労と魔力不足で足元がぐらつき、冷たい石壁に肩を打ち付けた。
「ネレイア!」
クラウスが素早く私の腕を掴み、倒れ込むのを防ぐ。
「無理をするな。今のあなたの状態では、警備の網を掻き潜って両方を追うことはできない」
彼は私を支えながらも、その鋭い視線は東の移送路へ向けられていた。
「鍛冶師の移送には、武装した兵士が五人ついている。彼らが尋問所へ入れば、もう二度と助け出すことはできない。……選んでくれ、ネレイア。決定的な証拠の紙か、あの鍛冶師の命か」
彼は私が弱い状態にあることを事実として認め、だからこそ、判断の責任を私から奪わずに、明確な二つの選択肢を提示した。
私は奥歯を噛み締め、東の移送路を見据えた。
「……人命を優先します。あの鍛冶師を助け出してください、クラウス」
「分かった。フィア、お前はネレイアのそばから離れるな」
クラウスは短く頷き、剣の柄に手を当てて東の移送路へと足音を抑えて向かった。
私たちはクラウスの動きを見守りながら、西の焼却炉へと続く排水路の格子まで慎重に移動した。
クラウスが東で騒ぎを起こせば、西の警備もそちらへ気を取られるはずだ。その隙を突く。
「ネレイアさま、あそこ……」
フィアが、排水溝の奥の暗がりを指差した。
彼女の空間把握能力が記憶していた通り、鉄格子の隙間から数メートル先の泥の上に、引き裂かれた紙片の一部が張り付いているのが見えた。
だが、そのすぐ近くで、先程の若い書記官が塵箱の中身を焼却炉へと放り込み、火をつけていた。
私は最後の力を振り絞り、微弱な風の魔術を編み上げた。鉄格子の隙間から入り込んだ風が、泥の上の紙片をふわりと舞い上がらせ、フィアの小さな手の中へと滑り込ませた。
しかし、回収できたのは、破かれた検査票のほんの三分の一ほどだった。
「……これじゃあ」
フィアが、手の中の紙片を見て顔を曇らせる。
そこには、被検者の『番号』と、『四十四』という年齢欄の一部だけが焼け残っていた。肝心な聖剣の適性結果の項目は、すでに焼却炉の灰の中だ。これでは、何に対する記録なのかを証明できない。
その時、焼却作業を終えた若手書記官が、ふと振り返り、鉄格子の奥にいる私たちと目が合った。
彼は息を呑み、逃げ出そうとしたが、私は彼を逃がさなかった。
「待ちなさい」
私は鉄格子越しに、冷ややかな声で告げた。
「あなたが燃やした記録が何であったか、私は知っています。今すぐここで、教会の嘘のすべてを証言し、その紙片の残りを取り出しなさい。さもなくば、あなたの不正な手続加担を外部に告発します」
それは、脅迫に近い手段だった。
しかし、若い書記官は恐怖に震えながらも、首を横に振った。
「む、無理です……! そんなことをすれば、僕は職を失い、家族まで異端として処理されてしまう! ……でも、これだけは言っておきます」
彼は周囲を怯えたように見回し、格子に顔を近づけて声を潜めた。
「過去にも……何度か、成人が聖剣に微弱な反応を示した事例はあったんです。でも、それらはすべて『器具の不良』や『別分類の異常反応』として処理され、正規の記録からは消されてきました。……僕が知っているのは、それだけです!」
彼はそれだけを言い残し、逃げるようにその場から走り去ってしまった。
私は彼を追わなかった。これ以上彼を追い詰めれば、彼もまた教会の犠牲者になるだけだ。
手の中に残されたのは、不完全な焼け焦げた紙片と、怯えた書記官の証言という、公的な証明力にはほど遠いものだけだった。
「ネレイア、フィア! 急げ!」
東の通路から、クラウスの声が響いた。
彼は鍛冶師の大男と、一緒に拘束されていた数人の成人たちを引き連れて、こちらへ向かってきた。彼の剣には血はついていない。だが、外套の脇腹には新しい赤いにじみがあり、兵士たちを峰打ちで退けた代償が見て取れた。
「あんたら、あの時の……」
鍛冶師の男が、肩で息をしながら私とフィアを見て驚きの声を上げた。
「礼は後だ。追手が来る前に、この区画を抜ける」
クラウスの指揮のもと、私たちは教会の裏口から外の森へと逃げ込んだ。
だが、森の中へ踏み入った直後、私の『契約視』の視界が不気味に赤く明滅し始めた。
前方の二股に分かれた獣道の、右側の経路から、強烈な契約反応が立ち上っている。それは、逃亡者が踏み込めば拘束条件を発動する封鎖契約のように見えた。
「クラウス、右の道は危険です。教会の罠が……」
私が左の道を指差そうとした時、クラウスが私の腕を強く引いた。
「違う、ネレイア! 右だ!」
「ですが、魔力の反応が……」
「地面の足跡を見ろ! そして、風に乗ってくる微かな金属音を」
クラウスは私が幻視している魔力の光ではなく、物理的な痕跡を指し示した。
「左の道には、新しく踏み荒らされた軍靴の跡が多数ある。教会の追手は、あえて右に派手な契約の囮を置き、我々を左の伏兵の待つ本線へと誘導しようとしているんだ」
私はハッとして、自分の契約視の乱れを自覚した。魔力低下により、私の目は教会の仕掛けた単純な囮術式を、致命的な罠だと誤認させられていたのだ。
クラウスの判断に従い、私たちは右の獣道へと駆け込んだ。
深い森の奥まで逃げ延び、追手の気配が完全に途絶えたのを確認して、私たちはようやく足を止めた。
クラウスが差し出してくれた水筒の水を飲み、私は荒れた呼吸を整える。
「……すまねえ、あんたたち」
鍛冶師の男が、太い腕の拘束縄をクラウスに切り落とされながら、深く頭を下げた。
「俺が勝手な真似をしたせいで、あんたたちまで危険に巻き込んじまった。……でも、俺は自分が英雄になりたかったわけじゃない。あの小さな子どもたちを、あんな場所へ連れて行かせたくなかっただけなんだ」
彼は英雄願望ではなく、大人の責任として前に出ただけだった。だが、彼のその勇気ある行動は、結果として公的記録の破棄と、私たちの逃走という代償を生んだ。
「それより、あの子たちは。俺たちだけ先に逃げてよかったのか」
「今戻れば、誰も外へ出せない。別室までの動線は見た。次の救出に使う」
クラウスは脇腹を押さえたまま答えた。
「あんたの命が無事だったことが、今は一番の成果だ」
クラウスは鍛冶師の肩を叩き、慰めの言葉をかけた。
しかし、私は自分の手の中にある、焼け焦げた紙片を見つめて沈黙していた。
人命は救えた。だが、大人が聖剣を起動できるという決定的な公的記録は失われ、手元にあるのは不完全な数字の切れ端と、匿名の書記官の証言だけだ。
これでは、王国側を動かす証拠にはならない。
私は、魔王城から持ち出し、今はクラウスの荷物の中に隠されている『元勇者たちの未送付の手紙が入った箱』のことを思い浮かべていた。彼らが生きているという事実を、王国側に認めさせるためには、もはやあの箱の中身を、本人確認の資料として公の場に開くしかないのだろうか。
それは、彼らの最も隠しておきたい孤独を暴く行為に他ならない。
クラウスが、先程の選定会場で微光を放った聖剣を見て、自分の適性について何を思ったのか。彼は何も語らない。
私たちはただ、不完全な証拠と、解き明かすべき多くの課題を抱えたまま、王都への暗い森を歩き続けた。




