第13話 偽装夫婦と一枚の寝台
人間領の空気は、ひどく薄く、そして重かった。
本来の魔力の一割にも満たない状態での行動は、泥水の中で息をするような絶え間ない息苦しさがある。肺を満たす魔素の質が根本から異なり、一歩を踏み出すごとに見えない枷を引きずっているような感覚がつきまとった。しかし、表立って不調を見せるわけにはいかない。
王都へ続く街道沿いの宿場町。夕闇が石畳を紫に染め始め、冷たい風が吹き抜ける頃、私たちは目立たない裏通りの一軒の宿屋に入った。
「ようこそ。ご夫婦と、姪御さんの三人ですね。お部屋は二階の奥になります」
帳場の主人は、宿帳にペンを走らせながら疑う様子もなく部屋の真鍮の鍵を差し出した。
王都潜入のための偽装として、私とクラウスは領地を持たない地方貴族の夫婦、フィアはその姪という設定を組んでいる。フィアは私たちの後ろで大きな手荷物を抱え、長旅に疲れた無口な子どもという役回りを完璧にこなしていた。彼女の空間把握能力の高さは、周囲の視線や宿の構造を瞬時に見抜き、こういう場面で余計な言葉を発しないという正しい行動に繋がっている。
案内された部屋に入り、クラウスが内側から鍵を下ろす。彼はそのまま扉のすぐ脇に荷物を置き、手を伸ばせばいつでも剣の柄が握れる位置を無言で確保した。
室内は質素だが清潔だった。壁のランプに火を灯すと、オレンジ色の光が部屋全体を照らし出す。
しかし、問題が一つある。
窓際の中央に、大人二人が横になれるほどの大きな寝台が一つだけ置かれていた。
「フィア、あなたの場所はここです」
クラウスは寝台のことには一切触れず、部屋の隅、窓からの死角になり扉からも遠い最も安全な位置に予備の寝具を重ね、フィア用の簡易寝床を作った。
「うん、ありがとう、おじさま」
フィアは設定通りの呼称を崩さず、小さく頷いた。彼女は本当に疲れていたのだろう。寝床に潜り込み、冷気を遮るように毛布をあごまで引き上げると、数分もしないうちに規則正しい寝息を立て始めた。彼女にとってこの状況は、生き延びるための偽装であり、大人の事情など気にする余裕はない。
室内に、大人二人が残される。
クラウスは寝台の足元にあった畳まれた毛布を手に取ると、迷うことなく冷たい木の床へと向かった。
「私はここで休む。あなたは寝台を使ってくれ」
「待ちなさい」
私は声をかけ、床に敷かれようとしていた毛布の端を静かに押さえた。
「明日は西門へ向かいます。護衛役であるあなたが、底冷えのする床で身体を強張らせてどうするのですか。疲労の蓄積は、いざという時の反応速度を致命的に遅らせます」
「しかし……」
「寝台は十分に広いはずです。これは私への気遣いではなく、明日の任務と全員の生存確率を上げるための合理的な判断です。違いますか」
クラウスは床と、中央の寝台を交互に見やり、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。あなたの言う通りだ」
室内の灯りを落とし、暗闇の中、私たちは一枚の寝台の左右の端に横たわった。
寝台の中央には、大人一人が十分に入れるほどの空間が空いている。
私は仰向けのまま、胸元の衣服の下に隠した小さな境界石に触れた。夜境領と繋がるその黒い石を通して、私は毎夜、自分の中にある最低限の魔力を故郷の境界防壁へと送り返している。魔力を完全に絶てば、あの巨大な壁の機能が落ち、人間領へ灰獣の侵入を許してしまうからだ。
その代償として、私は人間領にいる間、深い睡眠をとることができない。
静寂の中、フィアの柔らかな寝息だけが等間隔に聞こえる。
隣に横たわるクラウスは、身じろぎ一つしなかった。彼もまた、私と同じように起きている。相手の休息を妨げまいとするあまり、互いに不自然なほど身体を硬直させていた。毛布の擦れる音さえ、この狭い空間では響きすぎる。
「……いつも、そうなのか」
ふいに、暗闇の中から低く抑えられた声がした。
「何がでしょう」
「あなたの呼吸だ。浅く、途切れがちだ。魔王という種族は、本来眠りを必要としない強靭な存在なのかと思っていたが……そうではないのだな」
クラウスは私の方を見ていない。天井を向いたまま、ぽつりとこぼすように言った。
「人間領で魔力が弱まること。毎夜、防壁を維持するために力を送り返していること。そして、常に周囲を警戒していること。……それが、あなたの眠れない理由か」
それは問いではなく、彼なりの観察から導き出した事実の確認だった。
「……護衛対象の不調は、明日の任務の支障になりますか?」
あえて冷淡に返した言葉に、クラウスは微かに首を横に振った気配がした。
「いや」
シーツの擦れる微かな音がした。
「私がもっと早く気づくべきだった。あなたは、自分の弱みを決して口にしないからな。ずっと、一人でその均衡を保ってきたのだろう」
彼の言葉には、単なる協力者や護衛対象への懸念を超えた、一人の人間に対する静かな痛みが混じっていた。
私は視線を少しだけ横に向けた。
暗闇に慣れた目で見たクラウスの体勢は、完全な仰向けではない。扉と窓、そして私の両方を視界に収め、いざという時には上体を起こして剣を抜けるよう、わずかに膝を曲げた不自然な姿勢をとっていた。
そして同時に、寝返りを打っても絶対に私へ触れない距離を、明確な意思を持って保ち続けている。
私を敵の刃から守るためでありながら、私の領域を決して侵さない。その配慮の形が、不思議と冷え切った身体の奥に小さな熱を灯した。
彼は私を「魔王」という役割や、単なる「娘の恩人」としてだけ見ているのではない。
「……明日も歩きます。少しでも、目を閉じていなさい」
「あなたこそ」
それきり、会話は途切れた。関係に名前をつけるような言葉は、どちらの口からも出なかった。
結局、互いの呼吸の規則正しさを確認し合うような時間が続き、私は境界石の微かな明滅を見つめたまま、浅い微睡みの中で夜明けを迎えた。
翌朝。
宿の精算を済ませ、表の通りへ出た私たちは、そこで足を止めた。
朝霧の残る路上に、一台の大きな荷車が停まっている。数人の教会の紋章を付けた役人が、周囲の家々から持ち出したらしい荷物を無造作に荷車へ放り込んでいた。路地裏からは、すすり泣くような女性の声が微かに聞こえる。
「なんだ、あれは」
クラウスが周囲を警戒しながら低く呟く。
「勇者税の現物徴収だ。現金がなければ、家財を持っていくのさ」
通りを急ぎ足で歩いていた行商人が、私たちに聞こえる程度の声で苦々しげに吐き捨てて通り過ぎた。
荷車に積まれているのは、決して換金性の高い贅沢品ではない。鉄の鍋、冬用の厚手の毛布、使い込まれた農具。厳しい冬を越え、生きるために不可欠な生活用品ばかりだ。
王都の防衛や聖剣の管理、そして勇者の選定という名目で、教会は各村に法外な税を課している。払えなければ、こうして生活の基盤ごと奪い去っていくのだ。
ガラン、と音を立てて、役人がまた一つ麻袋を放り投げた。
袋の結び目が緩んでいたのか、中からポロリとこぼれ落ちたものがある。
それは、泥に汚れた小さな革靴だった。
大人の手のひらにも満たない、子どもの靴。つま先には丁寧に当て革がされ、何度も修理して大切に履き継がれてきたことがわかる。
役人は落ちた靴を拾うこともなく、馬に鞭を入れて荷車を牽き、通りを去っていった。
私は、足元でその光景をじっと見つめているフィアの小さな肩を見た。彼女の視線は、遠ざかる荷車と、泥に残された靴の跡を正確に測るように追っている。
子どもの命を対価にして世界を救うと言いながら、その実、残された子どもたちの明日の生活すらも平然と踏みにじる。それが、彼らの守ろうとしている正義の正体だった。
「……行きましょう、クラウス、フィア」
道の泥にまみれた小さな靴から目を逸らし、私は王都へ続く道へと歩き出した。私たちは、この理不尽な制度の根源を止めるために、ここへ来たのだから。




