第12話 裏切り者の父
人間領の空気は重く、大気中の魔素は砂を噛むように薄かった。
王都へ向かう長い道のりの途中、補給のために立ち寄った小さな国境の村で、私たちは冷たい現実の洗礼を受けた。
村の広場にある掲示板。そこに真新しい手配書が何枚も貼られていた。
荒い木版刷りで描かれたクラウスの似顔絵の下には、教会の公印とともに大仰な文言が書き連ねられている。
『元騎士団長クラウス・エルデン。悪魔の金貨と引き換えに、実の娘を夜境の怪物へ売り渡した大罪人。発見次第、ただちに教会へ引き渡すこと』
魔王城の目前で回収隊に刺され、崖下へ捨てられた男が、ここでは娘を売った裏切り者として仕立て上げられていた。
広場を行き交う村人たちの反応は様々だった。手配書を見てあからさまに唾を吐き捨てる者もいれば、恐怖に目を伏せて足早に通り過ぎる者もいる。だが、誰一人として「彼がそんなことをするはずがない」と庇う者はいない。教会の流布した物語は、すでにこの国で絶対の真実として機能している。自分たちの安全を脅かす存在として、村人たちは見ず知らずの裏切り者をただ憎悪していた。
深くフードを被ったクラウスは、手配書の前で一切の表情を崩さなかった。
「……行きましょう。ここに長居は無用です」
私は小さく声をかけ、彼とフィアを促して村の外れにある廃屋へと身を隠した。
傾いた屋根の隙間から、薄暗い光が差し込む廃屋の床。
クラウスは背負っていた荷物を下ろすと、黙々と中身を二つに分け始めた。
「王都の城門は、すでに手配書が回り警戒が厳重になっているはずだ。私がここで別行動を取り、派手に動いて教会の追跡を惹きつける。その隙に、ネレイア、あなたがフィアを連れて王都へ潜入してくれ」
彼は私やフィアに相談することなく、己を囮にするという結論だけを並べた。父親として、娘の生存確率を最大化するための、極めて冷徹で自己犠牲的な判断だった。
私が口を開くより早く、フィアの小さな肩がビクッと跳ねた。
その時、村の中心部から、正午を告げる教会の重い鐘の音が響き渡ってきた。
ごぉん、ごぉん、と。
風に乗って、拡声魔術で増幅された神官の定型祈祷の詠唱が微かに混じる。
フィアの顔から一瞬で血の気が引いた。彼女の瞳孔が開き、呼吸がひどく浅くなる。
教会の兵士たちが村にやってきて、自分を勇者として連れ去った日の鐘。父親が「お前だけは行かせない」と剣を抜き、無力に押さえつけられた記憶。彼女の中で、父親の喪失と選定の恐怖が、クラウスの「別行動を取る」という言葉によって完全にフラッシュバックしたのだ。
「フィア……?」
クラウスが手を伸ばした瞬間、フィアは弾かれたように身を翻し、廃屋の裏口から外へと走り去ってしまった。
「待て、フィア!」
クラウスが後を追い、私もすぐに立ち上がった。
「ネレイア、あなたの魔力でフィアの居場所を……!」
「できません」
私は彼の縋るような言葉を、冷酷な事実で切り捨てた。
「私の『契約視』は、当事者同士の条件と代償を繋ぐ糸を見るものであり、人の居場所を特定する追跡魔法ではありません。人間領での極端な魔力低下の現状では、広範囲の探知網を敷くことも不可能です」
クラウスはギリッと奥歯を噛み締め、剣の柄に手を当てた。
「……私が探す」
有能な魔王がすべてを解決する魔法など、ここにはない。私たちは、人間の親が迷子の子どもを探すのと同じように、物理的に村の外れを歩き回るしかなかった。
人気のない裏路地、放棄された荷車の陰、そして枯れ草の積まれた納屋。
私たちがフィアを見つけたのは、その納屋の奥、農具の間にできた埃っぽい狭い隙間だった。彼女は膝を抱え、小さく丸まって震えていた。
クラウスは泥で汚れた床に膝をつき、娘の目線に合わせて身を屈めた。
「フィア」
彼の呼びかけに、フィアは顔を上げた。その目には、恐怖ではなく、はっきりとした怒りが浮かんでいた。
「お父さんは、またいなくなるの?」
震える、しかし強く咎めるような幼い言葉。
「わたしを守るためだって言って、また、わたしを置いてどっかに行っちゃうの? 崖から落ちた時みたいに、もう帰ってこないの?」
クラウスは息を呑み、伸ばしかけた手を止めた。
彼は自分の外套の胸元に付けられた、古い銀の留め具に無意識に触れていた。それは五年前に死別した妻、マリアの形見だった。
クラウスの脳裏に、生前の妻の言葉がよぎったのだろう。彼がかつて、幼いフィアを危険から遠ざけるために頭ごなしに物事を決めた時、マリアは彼を窘めたはずだ。
『守ることと、あの子から決める機会を奪い取ることを、同じにしないで』と。
彼は自分が、娘を脅威から遠ざけることばかりに気を取られ、結果として「父親に見捨てられる」という最大の恐怖を娘に与えていることに気づいた。父親が決めることを保護だと信じてきた彼の、明確な敗北だった。
「……すまない」
クラウスは囮になるという自分の計画を完全に白紙に戻し、深く頭を下げた。
「私が間違っていた。お前を置いていくことまで、一人で決めていた。これからは、お前に話してから決める。すまなかった」
フィアはしばらく父親のつむじを見つめ、やがて、小さく鼻をすすってから、そっと彼の手を握った。
「……お父さんの、ばか」
父親の謝罪を受け入れ、彼女はようやくその狭い隙間から這い出してきた。
廃屋に戻り、私たちは改めて王都への潜入経路を検討し直した。
クラウスが広げたのは、彼が騎士団長時代に使っていた古い行軍地図だった。しかし、長年の使用と道中の泥で汚れ、一部は判読が難しくなっている。
「主要な街道と関所は、間違いなく私の手配書で固められている。山越えのルートも、教会の巡回兵が定期的に回っているはずだ」
クラウスが険しい顔で地図を指でなぞる。
「ここです」
不意に、フィアが地図の端を指差した。
彼女は、泥で汚れてほとんど線が消えかかっている一角を、自分の指の爪でなぞって汚れを削り落とした。
「昔の地図だから消えちゃってるけど……この川の曲がり角のところ、古い採石場へ続く脇道があるはずだよ。王都のおっきな壁の、西の門の近くまで出られる。教会の馬車も通らないから、途中の関所は避けられると思う」
それは、空間の構造と高低差を正確に把握する彼女の地図能力が導き出した、大人たちの死角だった。
「よく見つけたな、フィア」
クラウスは娘の発見を素直に称賛し、その脇道を王都潜入のルートとして確定させた。
「問題は、最後に西門を通る際の身分偽装です。元騎士団長と、死んだはずの第七代勇者。そして私。この三人で怪しまれずに門を抜ける理由が必要です」
私が問うと、クラウスは少し考え込んだ後、顔を上げた。
「……私とあなたが、地方貴族の夫婦だ。フィアは、病気で両親を亡くした姪という設定にする。身寄りのない姪を引き取り、王都の病院へ連れて行く途中だと説明すれば、このみすぼらしい荷物と、フィアの年齢の辻褄も合う」
クラウスは、私が魔王であるという事実をひとまず脇に置き、極めて実務的な偽装の提案をした。
「夫婦、ですか」
「不服かもしれないが、他に自然な関係がない。護衛と雇い主では、この貧相な装備に説明がつかない」
私は小さく頷いた。
「分かりました。では、私はあなたの妻として振る舞いましょう」
フィアも「おじさま、おばさま、だね」と、自分に割り当てられた役割を小さく反芻している。
私たちが一方的にフィアを守り、彼女がそれに怯えて従うだけの関係は、あの狭い納屋での会話を経て確かに変化した。怖さを含めて互いに相談し、役割を分担する関係へと一歩進んだのだ。
私たちは荷物をまとめ直し、夫婦と姪という偽装家族として、王都の手前にある宿場町へと歩みを進める準備を整えた。




