第10話 五十年分の準備
六人の歴代勇者全員が、人間領への越境と百人選定の阻止に賛同した。
しかし、彼らの間に生まれたのは強固な信頼というよりも、共通の敵と過去の痛みを前にした危うい連帯だった。私が危険の規模と期限を隠し、彼らの判断を誘導しようとしたことへの不信は、まだ食堂の空気に薄くこびりついている。
そして何より、この場には私に最も重い問いを投げかける権利を持つ人間がいた。
「ネレイア殿。あなたが彼らを保護し、教会を調べてきたことは分かった」
医療区画で休息を命じられていたクラウスが、エルナに移動椅子を押されて食堂へ入ってきた。腹の包帯は第7話の出血で巻き直されている。彼は長机の端から、私と六人の勇者たちを鋭い目で見据えた。
「だが、理解できない。六人全員の死が偽られ、刻印に同じ異常があると知りながら、なぜ五十年間も制度を止められなかった。なぜ、私の娘が七人目として死地に送られる今日まで待ったんだ」
クラウスの声には、娘を救われたことへの感謝と、何も知らされずに今日まで犠牲を強いられてきた親としての激しい怒りが同居していた。
私は彼から目を逸らさなかった。
「……こちらへ」
私は立ち上がり、食堂の奥にある重い木扉を開いて、彼らを私室の隣にある保管庫へと導いた。
冷暗なその部屋には、年代順に番号が振られた無数の資料箱が、壁一面に積み上げられている。
「私の慎重さを『五十年分の準備』と呼べれば、どれほど美しかったでしょうね」
私は一番古い『第一代』の箱を引き出し、蓋を開けた。
「ですが現実は、後手と失敗の積み重ねです。最初の勇者であるエルナが送られてきた時、私はこれを教会全体の方針ではなく、一部の狂信的な神官の暴走だと誤認しました。だからこそ、教会の闇を暴くよりも、まず目の前で傷ついた彼女の治療と保護を最優先にしたのです」
箱の中から、当時の古いカルテと、血のついた包帯を取り出す。
「その後、バルトやシルヴィアが送られてくるに及び、ようやく組織的な関与を疑い始めました。私たちは少しずつ人間領を調べ始めました。……選定名簿、移送経路、教会予算、刻印の変化。それらは一度に判明したわけではありません。五十年をかけて、別々の場所で、別々の断片として見つかったのです」
私は次々と箱を開け、中身を机の上に広げていった。
そこにあるのは、輝かしい調査の成果ではない。
熱で無惨に焼け焦げ、使い物にならなくなった失敗作の魔力遮断具。
リーゼが内部から外部の監査機関へ送ろうとし、握り潰されて宛先不明で送り返された告発状。
そして、ヨアヒムが文書院から持ち出した犠牲者名簿。そこには、名前すら書かれず『空欄』のまま処理された子どもたちの枠が、何十も並んでいた。
「断片が繋がるまでの間にも、勇者候補たちは失われ続けました。私たちは証拠の保全を優先し、救出が遅れたこともあります。不完全な証拠で告発に踏み切り、証人が教会に脅されて証言を撤回したこともありました。……私は、これ以上彼ら六人を危険に晒すことを恐れ、確実な勝機が揃うまで公開を止めるという、安全を優先する判断を下したのです」
私の告白に、クラウスは奥歯を強く噛み締めた。
「その安全な判断の裏で、何人の子どもが消えた」
「正確な人数さえ、まだ分かりません。言い訳はしません」
私は空欄の名簿に触れ、静かに答えた。
「ノエルの時代には、王都の灯りと刻印の痛みが同じ時期に強まる例を見つけました。ですが、偶然ではないと証明できていません。そして今回、フィアの新型刻印に仕込まれた『副契約』と、教会が焦って進める『百人選定』の命令書が現れた。別々だった手掛かりが、初めて同じ期限を指したのです」
クラウスは私の目を真っ直ぐに睨み返した。
「……あなたの話は分かった。だが、私はあなたに全面的に納得したわけじゃない。失われた子どもたちへの責任は、決して消えない」
「その通りです。私が重ねてきた過ちと判断の遅れは、事態が終息した後、必ず歴史の記録として公に残します。私の自己弁護で、この事実を閉じるつもりはありません」
私がそう言い切ると、クラウスはわずかに目元を緩め、小さく息を吐いた。完全に許したわけではないが、私の欺瞞のない態度を、一つの区切りとして受け止めたようだった。
「過去について、今ここで話せるのは以上です。人間領へ越境する手順に入りましょう」
私は振り返り、部屋の隅で静かに控えていた夜の精霊、ラウラを呼んだ。
「ラウラ。私が人間領へ赴いている間、夜境領の境界防壁の維持と、統治の代行をあなたに託します」
私は首元から外した黒い境界石の鍵を、彼女の手のひらに乗せた。
ラウラは鍵を握りしめ、普段の温和な表情を消して私を鋭く見つめた。
「お引き受けします、ネレイア様。ですが、境界代行を担うからには、夜の民を守る責任者として条件を課させていただきます」
彼女は広げられた夜境の境界図を指差した。
「人間領への越境中、あなたの魔力は激減し、防壁の強度は最低限まで落ちます。灰獣の活動が活発化する三十日後――すなわち教会の『大祭』の日までに必ず帰還してください。それ以上は、私の命に代えても防壁を維持できません」
「承知しました。三十日以内に、必ず決着をつけます」
「もう一つ、問題があります」
ヨアヒムが、古い羊皮紙の断片を机の上に広げた。
「六十三年前に結ばれた、人間王家と夜境領の『薄暮盟約』の原本の写しです。この盟約により、魔王が明確な敵意を持って無断で人間領へ侵攻した場合、盟約は破棄され、灰獣の侵入を許す防御の空白が生じます」
クラウスが眉をひそめた。
「では、どうやって国境を越える。武力で突破すれば、王都を救う前にこの世界そのものが灰獣に飲み込まれるぞ」
「抜け道があります」
私はヨアヒムが示した盟約断片の一文を指差した。
「『人間側の正当な代表者が、自発的な意思をもって夜境の主を招く場合、これを侵略とみなさない』」
その言葉の意味を理解し、クラウスの顔色が変わった。
「まさか……」
「そうです。王家が機能を失い、教会が腐敗している現在、人間側における薄暮盟約の正当な共同管理者は、聖剣に選ばれた『現役の勇者』のみです」
私は、医療区画で眠る少女のいる方向を見た。
「私が人間領へ足を踏み入れるためには、第七代勇者であるフィア本人が、自分の意思で私を人間領へ招き入れる必要があります」
保護されるだけの子どもから、魔王を招き入れる扉の鍵へ。
五十年の準備と失敗の果てに、最後の、そして最も重い決断が、十一歳の彼女の小さな手に委ねられようとしていた。




