目新しい場所
あれから。
モアネはまごつく自分を勇気づけて、母に精一杯の気持ちをこめて抱き着いた。「いつもありがとう」と口にするのがあんなにドキドキするなんて初めて知った。
驚いたのは、カタリナがその場で泣きだしたことだ。それを見たマシアンもつられて目を潤ませて、モアネも伝染したみたいに泣いてしまった。
メルディオに報告しようとしたときに思い出し泣きをしたくらい、心に残った出来事となった。
「……いい天気」
国の地方山間部、それも街外れ。民家もまばらの長閑な風景に紛れて存在する薬屋の、二階の屋根裏部屋。
その部屋の窓から眺める景色が三度目の雪解けを迎えて、今年も柔らかな木芽が芽吹く時期となった。
(ここに来て、三年目かあ)
モアネには三年前なんてすごく昔のように思える。それくらいここでの生活に馴染んでいると自負していた。
「……よし」
後頭部を両手でなぞる。伸びた髪がさらさらと手のひらに当たった。続けて指先を首に伸ばす。小さい時と比べて幾分か縮んだこぶの感触が返ってくる。
(良くなってる、よね)
母であるカタリナがモアネの髪を切らずにいるのだ。滅多に会えない医者からも、快方へと向かっているとお墨付きをもらった。
あの苦い薬を飲む頻度も減った。どうやらここ数年で新薬が普及し始めたらしく、それがモアネの体にもよく合ったのだ。
ぐ、と両腕を上げて伸びをする。それから、新調してもらったお手製のワンピースの皺を手先で伸ばして払う。
一呼吸してから気合を入れて、モアネは廊下に出る。そうして、二階から一階へ、台所と新しく設けた作業場を通り過ぎ、玄関へ。
そうして思いっきり玄関のドアを開いて、外に出た。
青々とした空に薄い白雲がたなびいている。日差しに目を細めて、モアネは真っ直ぐ家の裏側へと向かった。
生薬となる植物が山ほどあると聞いて育ってきたのだ。薬について興味を持つモアネにとって、真っ先に向かいたい場所だった。
近くで家族も見ているのは、この際仕方がない。モアネは自分用にと渡された木の籠を持って足を踏みこんだ。
(草の匂いがつーんとする。あっ、隠れてる虫がいる、鳥も。うわあ、すごく賑やか)
話に聞くよりも、ずっと胸をときめかせる光景にモアネはふうと息を吐いた。
外は心を躍らせる物事にあふれているとメルディオを通して知った時から、行ってみたいと思っていたのだ。
(そうだ。今日のお土産をメルディオにあげよう)
出会ってから、数日を置かずにメルディオとは会って話している。もちろん、今日この日にモアネが初めて外出することも伝えた。すると、期待はしないけど土産があるといいと言うのだ。
(体が弱いからどうせ無理だろって思ってるんだ。そんなことないって教えて上げなきゃ)
モアネは張り切って目の前に広がる草むらに入りこんで丁寧に摘み取り始めた。
そうしてそのまま。
カタリナが慌てて止めるまで、モアネは無心で草摘みに勤しんだ。
*
「……――それでね、すっごかったの!」
数時間後。
モアネは木の籠いっぱいにいれた草花をメルディオに披露していた。
初めての散策の成果を一番に報告しようと、モアネは部屋でしばらく休むと称して魔法の秘密基地にやってきたのだった。
メルディオはモアネが意気揚々と見せた篭を覗きこんで、目を瞬かせた。
「で、これが土産?」
「あんまり遠くに行けなかったから、近くでいいものっていったらそれでね……あっでも蜜が美味しいんだ。できるだけ摘んできた」
「ふーん」
興奮気味に話すモアネに対して、メルディオは神妙な顔つきで一片の花を摘まんだ。薄桃色のベールを被ったみたいな細長い筒のような花が、ゆらりと宙に揺れる。
「ねえメルディオも知ってた? 山間の草って踏むと青臭くてね、生き物もいっぱいでね。石の下にいっぱいいたの」
「知ってる。お、美味い」
話の途中で、メルディオが花を口に入れる。花の奥に溜まる蜜は、清涼な味わいが特徴的な甘露なのだ。好き嫌いの多いメルディオの好みに適ったらしい。
多分これは好きだろうと思って摘んできて正解だった。モアネはうきうきした心地のまま、床に広げている図鑑を指した。
この図鑑は、これまでにメルディオが持ってきた本の一つだ。よくモアネが使うので、開いて置いているのが常だった。
「喉のお薬になるんだって。メルディオ、前、声出してガラガラって言ってたじゃない。どう? よくなった?」
「そんな風邪でもないし、わかんね。楽になった気はするけどさ」
「じゃあ次は別のかな……はあ、ここで見た草が本当にいっぱいあるなんて、行ってみてよかったあ」
「そんなよかったのか」
「うん!」
メルディオの質問に、モアネは相好崩してうなずいた。表情が緩むのを止められない。
対するメルディオは不満そうに眉を寄せた。床に胡坐をかいたまま腕を組む。
「俺もそっち遊びに行けたらなあ」
そのぼやきに、モアネは「あー」と声を上げた。
出会ってしばらくして、メルディオはこの部屋のあちこちを探検と称して探っていたのだ。どういうときにこの屋根裏部屋は開くのか。相手の部屋に行けるのか。モアネが止めるのを聞かずにあれこれ試した。
「またぶつかって怪我しちゃうよ」
「あれ、結構痛かったんだよな」
悪態を小さく呟いて、メルディオは頭を掻いた。過去の失敗を思い出したように、モアネが入ってきたドアへと顔を向けている。
過去、メルディオはモアネにドアを開けさせてそこに飛びこもうとした。
結果、盛大に見えない壁にぶつかり、弾き飛ばされてごろごろと床を転がって目を回した。メルディオの苦い記憶になっているらしく、それを指摘するとムスっとする。
(まあ、今なら笑い話だよね)
もう十歳だ。同い年だというメルディオも多少は落ち着いた素振りをすることが多い。
癇癪まじりに腕を動かすこともないし、足を踏み鳴らすことも減った。
(話を変えてあげよう)
こんなにいいことがあったのだ。メルディオにも機嫌良くいて欲しいと思えた。
モアネは、にこやかに話しかけた。
「それでメルディオ、魔法はどうだった?」
その言葉に、メルディオはたちまち目をキラキラとさせた。
そしてすっくと立ち上がると、自信満々の顔でモアネに向かって言った。
「おっ、聞きたいか? 実は、媒介具をもらったんだ」
メルディオがズボンのポケットから金属で編んだ腕輪を取り出した。まだ小さいメルディオの腕にも問題なく嵌められるように、装着部には紐で調整できるようになっている。
ちか、と光に反射する金属を見せびらかして、メルディオは腕輪をつけたかと思うと、詠唱を始めた。
「≪腕輪よ、光を集め、輝け≫」
たどたどしい詠唱文句が終わる。すると、メルディオがつけていた腕輪は見事に輝いた。あたりの光を吸い取って集めたみたいな眩しい光に、モアネは思わず目を覆った。
「わっ」
「≪腕輪よ、光を落とせ≫」
次にメルディオが詠唱を終えると、光は急速にすぼまって腕輪はもとに戻った。急に光るものだから、モアネの視界はちかちかと騒がしい。けれど、メルディオが行った魔法はモアネの好奇心をくすぐるのに十分だった。
「どうだ、カジミール先生に教わったんだ」
「えーっすごい! いいなあ」
「いいだろ」
メルディオが近くで見ていいとばかりに腕を差し出したので、モアネは遠慮なく眺めさせてもらった。
(きれいな媒介具、私も欲しいなあ。いいのは高いっていうけど、メルディオのはどうなんだろう)
そもそも魔法は、誰もが持つ魔力を法則に従って行使する技術だ。媒介具がなければ正確で精密な魔法発動は難しくなる。
特殊な文字を扱い、構築し、事象を起こす。
ただ、その理屈を聞いても今のモアネにはよくわからない。おそらくメルディオもだろう。
だというのに、こうして魔法行使ができるのは良い教師がいるからに違いない。
(となると……)
モアネは次に言うメルディオの言葉が、なんとなくわかった。
「魔法の構築式の本、今度持ってくるからモアネもやろうぜ」
予想的中だ。
でもいいのだろうか。モアネには媒介具なんてものを持っていない。両親にねだろうにも、怪しまれるのが関の山だ。
「嬉しいけど、私、媒介具持ってないよ」
「貸してやる」
「えっ、いいの」
「モアネが使うならいい」
メルディオはあっさりと答えて、腕輪を触る。紐のあたりを指先で弄りながら、続けた。
「それに一人でやっても頭に入んねーもん。人に教えたほうが早く覚えるって先生が言ってた」
「メルディオ、ありがとう」
「まあ、モアネが土産くれたし……俺が勉強するついでだかんな」
モアネのためだけじゃないと言い張って、メルディオはつんと顎を反らした。
そのままメルディオは腕輪を外してポケットに押し込んだ。
「メルディオ、大事に扱わないと」
「兄さんみたいなこと言うなよ。わかってるって。それより、なあモアネ、これも見ろ」
「なあに」
モアネがメルディオに注目すると、メルディオは座った状態から床に両手をつけて逆立ちになった。続けて足を回して勢いをつけ、跳んで、くるりと体を一回転してぴたりと止めた。
着地には軽やかな足音が、とん、と響くばかり。見事な身体操作技術だった。モアネにはとても真似できそうにない。
どうだとばかりに得意げな顔をするメルディオに、モアネは心から拍手をした。
「うわあ、すごい、すごい! メルディオ、もう一回やって!」
「しょーがねえなあ」
また同じ動作を繰り返す。曲芸じみた動作は見ていて飽きない。モアネがまた拍手するのを聞いてから、メルディオは腕を組んで言った。
「やっぱりできてるよな? 無駄な音出すなって怒られるんだよ」
「私には十分出来てたと思うけど……傭兵って厳しいんだね」
「蟻が歩く音くらいにしろって言うんだぜ」
そんなこと可能なのだろうか。野生の動物でも難しそうだ。
「メルディオのところは大変だね」
「別に、そこまで大変じゃねーし」
ハッとしたようにメルディオが答える。意地っ張りは小さな頃から変わらない。
「怪我したら、治すの手伝うね」
「……おう」
そうしてまた床に座り直すと、メルディオはごろりと横になった。
「メルディオ、また図鑑見てていい?」
「本当そればっかだな。そんなに気に入ったなら持って帰ればいいのに」
「そんなわけいかないよ。メルディオのお母さんの本だもん。借りて持って帰って台無しになったら大変だよ。メルディオも図鑑は好きって言ってたじゃない」
「……いいけど。俺、寝るから」
言うが早いか、メルディオは目を瞑ってしまった。これもここ最近よくある行動だった。
モアネが読書している間にメルディオは仮眠を取るのだ。曰く、静かだから良いらしい。
「時間になったら起こすからね」
「わかってるって。おやすみ」
メルディオはモアネの声掛けに寝返りを打って生返事をした。そしてしばらくすると、すうすうと寝息を立てて夢の中へと旅立っていった。
それを横目に、いつもの習慣通りに薬草の図鑑を眺めていたが、どうにもメルディオの眠気が移ったみたいだ。
ふあ、とせり上がる欠伸を口から出さないように手で押さえる。代わりにまた、静かな呼吸音を耳が拾う。
(お外に出て疲れたのかも)
まだ本を読みたい気持ちはあるのに、瞼が重たい。ページをめくろうとして、ふらと指先が紙面を叩く。
もうだめだ。眠くてしょうがない。
モアネもメルディオに向かい合って横になる。するとその拍子にメルディオの腕輪が落ちているのに気づいた。指先でメルディオを突つく。
「……なに、もう時間?」
「メルディオ、腕輪」
「んー? あとでいい」
でも、と言いかけて欠伸をしそうになる。
「眠いなら、モアネも寝ればいいじゃん……まだ時間平気だろ」
とろんとした声で、モアネの指先を握っておろす。そのままメルディオはすぐにまた寝入ってしまった。
腕輪を置きっぱなしも忘れてしまうかもしれない。モアネは自分のスカートポケットにいれる。それで安心したこともあって、目を閉じればすぐに眠りに落ちてしまったのだった。




