秘密基地
ぽつんと殺風景な部屋の中に、モアネだけが取り残されてしまった。
あれからしばらく座ったままで待っていたけれど、壁は壁のままだったし急にメルディオがどこからともなく現れることもなかった。
「けほっ」
発作的な咳が喉から否応なく吐き出されて、モアネはしぶしぶ立ち上がった。
嫌だけれど苦い薬を飲まないといけない。この薬を続けて飲んだら、いつかよくなると言われているから。
(メルディオみたいに、元気になれるかな)
あんなに怪我をしたのに活発に動いていたメルディオを思い出して、モアネは自分が入ってきたドアを見返した。
入ってきた時と変わらない玄関ドアが壁にはめこまれている。恐る恐るドアノブを回して廊下へ顔を覗かせる。
階下から母の声が響いていた。
「モアネ? モアネ、どこにいるの。お薬を飲まないと……! お母さんのことを怒ってもいいから、出ておいで」
「カタリナ、落ち着いて。モアネ、どこだい」
気落ちした母のカタリナに、モアネの父マシアンが慰めをかけている。
(おりなきゃ……)
背後でドアが音を立てて閉まる。それにびっくりしてモアネは振り返った。
それからなんとなく、モアネは左手でもう一度ドアノブを開いてみた。きい、と開いたドアは、モアネが先ほどまでいた空間と違った。
「えっ」
襤褸きれとなったカーテンから差し込まれた光が、浮かぶ埃を反射する。変色して傷がついた床板は、モアネが一歩中へと踏み出すと軋んだ音を立てた。どう見ても、さっきと同じ部屋ではない。
「え、ええっ? あ。けほっ、げほげほっ」
また咳が出た。階下からカタリナがモアネの咳の音を聞きつけたのか声がかかる。
「モアネ? 上に居るの?」
メルディオと会って気分が変わったのもある。それに不思議な出来事が本当に現実だったか確認したかったのだ。
モアネは自分がすっかり怒っていたことなんて忘れて、大人しく階下に降りて行った。
「お母さん」
「モアネ、ああ、いいの、いいの。お母さんが失敗してごめんね」
「……うん、私もごめんなさい」
謝罪の勢いに飲まれて、つい、モアネもそう返していた。
カタリナがぎゅうとモアネを抱きしめてくる。温かくて、少しだけ野草の匂いがする。それは嫌いじゃなかった。自分からも抱きしめ返して、モアネは小さくたずねた。
「あのね、上に変わったお部屋があったよ」
「上って屋根裏部屋のことかい。見晴らしがいいし、モアネの部屋にいいかもしれない。あとで僕が整えておこうか」
明るい調子でマシアンが言う。
(そういうことじゃないのに……あっ、でも、秘密基地だったから、内緒にしないといけないのかな)
モアネは黙ってうなずいた。マシアンはぎこちなく右腕を動かすと穏やかに笑った。
「ようし、リハビリにもいい運動になる。父さんに任せときなさい」
「お父さん、怪我って痛い?」
「もう平気さ」
まるでメルディオみたいなことを言う。モアネは目をぱちくりとさせて、父の顔を見上げた。
都会での仕事でマシアンは大怪我をした。危険な生き物に肩から太ももまでざっくりとやられたから、ここの田舎にきたのだ。首元の裏から見える爪痕は嫌でも目を引いてしまう。
(男の人は、我慢強いのかな……痛いのって平気なのかな。私も、頑張らないといけないのかな)
あんなに痛そうだったのに。
モアネはメルディオと父のかつての姿を浮かべて、眉根を寄せた。マシアンは優しく付け足すように言った。
「お薬を飲んだら、一緒に上の部屋をよく見てみようか。良い部屋にしよう」
「うん」
マシアンに頭を撫でられて、モアネは喜んで頷いた。
「お薬の前に手を洗いましょう。うがいもよ」
カタリナが肩に手を当てて台所へとモアネを促す。
一緒に手を洗ったところで、カタリナは素っ頓狂な声を上げた。
「あらっ、その手どうしたの」
「手?」
モアネは自分の右手に鍵穴のマークができているのに気づいた。
黒い色が手の甲にべったりと張り付いている。
「わかんない」
「洗っても取れない……嫌だわ、何か魔法道具でも触ったのかしら。古い家だもの、片づけがきちんとしていなかったのかも……」
「お母さん、これ、悪いの?」
「いいえ、大丈夫。きっと大丈夫よ。またお医者様がきたときに診てもらいましょうね」
「はあい」
大人しく従うモアネに、カタリナは小さく息を吐いた。それからモアネは手を引かれて苦い薬を口に含まされた。
舌の奥まで苦いものをたっぷり詰めこまれたような、そんな感覚。目をつぶってやり過ごしたモアネは、普段だったら泣きそうなのを堪えた。
「あら、今日は凄いじゃない。がんばったわね」
「……うん」
モアネの頭の中に、メルディオの「べつに、そこまでじゃないし」という言葉が過ぎったせいだ。自分だって我慢しようと思えばできる。それで、今度会ったならメルディオに自慢してやろうと思ったのだ。
「これなら咳石病だってすぐによくなるわ。良い子ね、モアネ」
そうならいいと心から思って、モアネは口の中にあふれた唾を飲みこんだ。まだ苦い心地がする。
けれど我慢したら、これほどカタリナが褒めてくれるのはくすぐったかった。モアネは、唇をむずむずとさせて返事をした。
夜になるころには、張り切ったマシアンによって襤褸切れのあった屋根裏部屋はすっかり整えられた。
とはいえ、塗装がどうとか家具がいるとか言っていたが、モアネには見違えたようになったと思えた。何より今の屋根裏部屋の奥にある出窓がひどく魅力的だったのだ。
カタリナがこしらえたクッションで飾られたそこには、ゆっくり腰掛けて休めそうな居心地の良さだった。
それには満足したけれど、モアネは引っ掛かりが残っていた。
(メルディオと秘密基地、どこにいったんだろう)
ベッドで横になる前に、モアネはまた部屋のドアをくぐって廊下に出た。
しんと静まった空間では、外の環境音がよく響く。まだ慣れない虫の声がうるさいくらいだ。
(右手、魔法道具)
もしかしたら。
そんな気持ちを抱いて、右手でドアノブを握って回す。
すると、昼に見たあの部屋がモアネの前にあった。そして、同じ人物も。
たまたま寝る時間が被ったのだろうか。同じようにドアノブに手をかけた、簡素な格好に着替えたメルディオが眠そうな目を擦っている。
「メルディオ!」
「はあ? モアネ!?」
思わずモアネが名前を呼ぶと、メルディオはあからさまに目を丸くした。
「おい、ここは俺の寝る部屋なんだぞ。なんでいるんだよ」
「えっ? 秘密基地じゃないの? だって、メルディオが言ったのに」
「秘密基地は違う部屋だろ。ここは、だって父さんが使っていいって……」
そこまで言うと、メルディオは辺りを見回して不思議そうにした。
「いや、俺の部屋じゃ、ない?」
「うん、私の部屋でもないよ。だってベッドもないもん。ねえ、右手のこれ、関係ないかな」
モアネが右手の鍵穴のマークを見せると、メルディオも自分の右手を掲げてみた。
「あ……魔法道具がなんとかって……父さんが言ってたやつ。そっか、これか! じゃあ、本当に秘密基地じゃん!」
わかりやすくメルディオは喜んでみせた。
モアネもすっかり嬉しくなって、うんうんと頷いた。
「右手で開ければ、ここに繋がる。じゃあ、暇で遊べる時ここに来いよ」
「わかった。ねえ、明日は?」
「朝飯食べてからにしよう。駄目だったら書置き残すのはどうだ」
「いいね。そうしよう」
明日の約束がすむと、メルディオが大あくびをした。秘密基地となった部屋からでも外の景色は変わらず見えるようで、暗い夜空が窓から見える。
モアネもメルディオにつられるようにあくびを噛む。メルディオが「じゃあ」と提案する。
「眠いし、明日にしようぜ。おやすみ」
「うん。メルディオ、おやすみなさい」
「ちゃんと寝ろよ」
なんだか親みたいなことを言う。モアネも両親の真似をして言い返した。
「早く寝ないと、良くならないからね」
そうして互いに手を振って、モアネは部屋を出た。
また今度は左手で同じドアノブを握って開く。マシアンが手を入れてくれたモアネの部屋がそこにある。
(本当に、秘密基地だ)
モアネは足取り軽く自分のベッドへと向かって、頭までシーツを被って丸まった。
熱が出たみたいなふわふわした心地がする。特別な何かを手に入れて、それも共有できる相手もできたなんて。
(こういうのを友達って言えるのかな。明日、メルディオに会ったら聞いてみよう)
ここに来て、はじめてわくわくして嬉しくなった。明日が楽しみで、胸が弾む。ころんと寝返りを打って、しっかり目を瞑る。
早く寝て、少しでも元気になってまた会おう。そんな気持ちでモアネは眠りに落ちた。




