はじまりは失敗から
じょきん。
呆気ない裁断音が響いていく。
「ねえ、モアネ。そんなにむくれないで。これはね、あなたのためなのよ」
そう言われて、大人しく古い木の椅子に座っていたモアネは、唇を噛みしめた。体温で生温くなった座面が余計に嫌な気分にさせる。
とにかく嫌だった。自分がせっかく伸ばした髪をばっさりと切られて、おまけに病気だからと首元から後頭部を刈り上げられて。
そうして、さらにモアネの我慢の限界を告げる声が響く。
「あっ」
明らかに何かを失敗したような、そんな母の動揺を耳が拾う。
モアネは、背後を勢いよく振り向いた。自分と同じ、未熟な木の実みたいな緑の目をした母が、気まずそうに笑みを浮かべている。
「ご、ごめんね」
取りなすような声は、モアネの神経を逆立てるだけだった。ぼろぼろと目から涙があふれてくる。止めようにも止められなくて、モアネは腕で目を擦ってしゃくりあげた。
「ねえ、泣かないで。お願いよ」
そんなことを言われても、無理なものは無理だ。母に悪気がないことはわかっていた。でも母にされたことは、今この場にいる幼いモアネにとってどうしても許せないことだったのだ。
腫れ物みたいに、優しく扱われるのが癪に障った。肩に触れる母の手を振り払う。
モアネは椅子から跳ね起きるように飛び出した。
「モアネ!」
「お母さんのバカ!」
それだけ絞り出すように言って、モアネは一心不乱に部屋を抜け出した。
とはいえ、モアネはこの家に来て日が浅い。もともと、都会の街で過ごしていたところを父の怪我をきっかけに田舎にやってきたばかりなのだ。母所縁の土地で手に入れた古い家屋は、まだ見慣れないものだらけだった。
(とにかく、お母さんがこないところ)
ひゅうひゅうと息を鳴らして、空をかくように夢中で腕を振って走る。
廊下を走って、台所で顔を覗かせた父も振り切って、目に入った階段を駆け上る。手も使って急いで登りきると、狭い通路に出た。
その先は行き止まりで、縦に長い突き出し窓がある。どうしようかと迷ったモアネは、そのままよたよたと階段から進んだ。
すると、向かって左側に木製のドアがあるのに気づいた。
金属の古びたドアノブに、ノッカーがある。家の中なのにまるで玄関に位置するドアみたいだ。
(変なの……でも、ここなら)
モアネは惹かれるようにそのドアノブに右手を伸ばして、部屋の中に滑りこんだ。
ぱたん、きい。
呆気なく開いたドアが、軋んだ音を立てて背後で閉じた。しかしそれと全く同じ音が前方から発せられた。
鼻を啜って、モアネは目元をまた擦る。
「なんだよ、お前」
モアネのちょうど向かい側の壁。そこにドアがもう一つ。
そのドアから男の子が入ってきていた。頬は赤く腫れて、ひと目で殴られた痕だとわかる。しかも泣いている。それでもなお、青灰色の目はぎらぎらと光っていて、好戦的だった。
泣いていたことも忘れて、モアネはその男の子を見つめた。
だって、モアネが入ったこの部屋の向こうは外のはずだ。続きの部屋なんてない。いくらモアネが七歳と幼くても、それくらいはわかる。
「そっちこそ」
モアネが言うと、男の子は乱暴に自分の鼻を手で拭った。鼻血も出ていたのを気にしないでするなんて、モアネには考えられなかった。
(ひどい顔。でも、私だって)
モアネはすうすうする自分の後頭部に手を当てた。熱を持って腫れた首裏の上。指先に地肌が当たる。それが無性に悲しくて、また唇を噛んだ。
「ここは俺が見つけた場所だぞ! 出てけよ!」
「私の家だもん。そっちこそ、出てってよ! 私が見つけたの!」
男の子の文句に、思わずモアネは言い返した。
「お母さんから隠れなきゃいけないんだから! だから、出てって!」
「いやだ! 俺こそ父さんから隠れてんだ! そっちが出てけ!」
モアネの言葉に対して同じように男の子が怒鳴り返してくる。
「そっちは殴られたりしないんだろ。俺のほうがひどい目にあってる。ゆずれよ!」
「なっ……わ、私だって! この髪、ひどいでしょ!」
男の子が自分の顔を指させば、モアネは対抗するように自分の髪をつまんだ。けれど、男の子は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「たかが髪じゃん。痛くないのに」
モアネはそれを言われて、ぐうと言葉が詰まった。
確かに痛くはない。見た目は男の子ほどあからさまに怪我もしていない。けれど間違いなく嫌なことだった。
「でも、でも……っ、うう、うぇえ」
また涙があふれてきた。目元に手を当ててこらえようとしても駄目だった。
「おい、泣くほどじゃ……なあ、おいってば」
「うぇえええん!」
気勢がそがれた様子で男の子はうろたえた。
「おい、お前」
「お前じゃないもん! モアネ!」
「わかったって。モアネ、泣くなよ」
「おがあざんと同じこと、言わないで! ひっ、ひっ、ひぐ、うう」
濁った声で言い返す。逼迫した嗚咽のせいで、さらには咳き込みまで入ってしまった。息が苦しい。モアネは立っていられずにうずくまってしまった。
「お前、大丈夫かよ」
いつの間にか、男の子が近くに寄ってきていた。
背中に温かな感触があたる。モアネが顔を上げると、男の子の手が回っていた。そのまま神妙な様子をして、不器用な手つきで撫でてくる。
「体悪いのか。悪かったって。泣くな、あー、そうじゃなくて」
「げほ、げほっ」
「俺、メルディオ」
突然の自己紹介に、モアネは発作の咳を堪えてメルディオを見返した。
「この部屋、モアネも使っていいから」
「なに、それ」
「俺も使うけど、そっちも使っていいってこと」
なんでそれをメルディオが決めるのだろう。今決めたとばかりに言い切ったメルディオは、モアネの背中を撫でて続けた。
「俺たちの秘密基地にしようぜ」
「秘密基地? ここが?」
「誰にも言うなよ」
「……うん」
秘密基地という言葉は、モアネの心をくすぐった。なんだか、楽しそう。そんな気持ちにさせる提案に、モアネは躊躇いがちにうなずいた。
「じゃ、約束」
メルディオがモアネの前に右手を差し出した。
「うん」
モアネも同じように右手を出す。すると、メルディオは「あっ」と声を上げて出した手を引っこめた。素早く自分の服で乱雑に拭くと、改めてモアネの手を取った。
何度か握って上下に振られる。そうして、メルディオは笑った。頬が腫れているせいで引きつった笑いだったけれど、それでもご機嫌だとわかる。
(やっぱりひどい顔)
煤色の髪とあんまり日焼けしていない肌のせいで余計に目立つ怪我だ。
モアネはそれを間近に見ると、自分が髪型で泣いていたことに少しだけ申し訳なくなった。モアネがメルディオと同じ目にあったなら、きっともっと泣いてしまっていたに違いない。
「あのね、ごめんね」
「ん? 何が?」
「メルディオ、痛いよね」
モアネが言えば、メルディオは目を瞬かせてぶっきらぼうに強がってみせた。
「べつに、そこまでじゃないし」
「ふうん、そっか」
感心するモアネに、メルディオは「そうだよ」と顔を逸らして言い張った。
「やっぱり俺、戻る。またな」
「えっ、もう行くの?」
「兄ちゃんたちにバレたらもっとうるさいから。特訓サボると命がどうって騒ぐんだよ。いったん戻る」
そう言うが早いか、メルディオが立ち上がる。最初に入ってきたドアに小走りで向かうと、その直前で振り向いた。
「じゃあな、モアネ」
軽く手を振って、素早くドアをくぐってメルディオの姿は消えた。
不思議なことに、ドアも薄れて消えて壁と一体となっていた。
「えっ」
モアネはただ、何もなくなった壁を見て床に座りこんだ。




