6話 外側の景色
青海と轟木をどうにか落ち着かせ、それぞれ帰した――はずだった。
なのに、その後の一日は妙に短くて、やけに重い。
胸の奥にずっと沈殿しているのは、言葉にならない違和感だ。
轟木の負い目。青海の知りたい真実。杉山が察している何か。
──そのどれにも、俺だけが触れられていない。
置き去りにされている気分だった。
「……俺が今まで、湊から目を背けてきたから、か」
ぽつりとこぼれた言葉は、自嘲でもあり、焦りでもあった。
気付けば放課後。
西日が廊下を長く染め、影が揺れながら足元を引っ張っている。
その影の端を踏みながら、俺は思う。
「湊。もう、知らないままじゃいられない」
去年の夏。そして白咲。あの拒絶の理由も。
"知らないほうが優しさ"だなんて、そんな余裕はもうなくなっていた。
*
雑用を任されて、職員室に白咲はいると聞いたのだが、そこに彼女の姿はなかった。
担任によれば、もう教室へ戻ったらしい。
「すれ違った?」
嫌な胸騒ぎが引っかかる。
下駄箱で待ってみるか、そう考えた時だった。
廊下の奥から、押し殺したような声が聞こえた。
「……だから言ってんだろ。あれを掘り返さなきゃ、あたしたちは変われねぇって」
轟木だ。
続くのは、淡々とした切れ味を持つ声。
「決めるのはあなたじゃないわ、轟木さん」
白咲──。
心臓が跳ねた。
反射的に階段の影へ身を寄せる。
二人が向かい合っていた。人気のない夕方の廊下で。
いつもの柔らかな白咲の笑みは消えている。
逆に氷のような瞳が轟木を射抜いていた。
「お前が一番よくわかってんだろ!? あの日、黒羽の側にいたのは白咲じゃねぇか!」
「……ええ。彼女として、彼を理解してるつもりだったわ」
白咲は短く言い放ち、視線を伏せる。
轟木は更に一歩詰め寄った。
「つもりって、なんだよ。久瀬に話さなかったのもそれが理由か? 相談援助を頼んだ上で」
「口裏を合わせるのは、あなたも賛同してたじゃない。久瀬くんを巻き込まないって」
「それは……そうだけどよ。でももう隠し続けられる状態じゃねぇ」
言葉の温度が上がる。しかし、言っている意味の全部はわからない。
ただ一つだけ確かだ。
俺は、知らされていない。
遠くで言い争う声が響いているはずなのに、耳鳴りがして聞き取りづらい。
自分だけ、透明になったみたいだった。
手を伸ばしても届かない輪の中で、また俺だけが置き去りになっている。
胸がざわつく。やるせなさがまた重く沈んだ。
「久瀬を巻き込んだ理由、わかってんだろ? 黒羽を……"あの日のまま"にしたくなかったからじゃねぇのかよ」
「でも……久瀬くんは、この件に巻き込みたくないの」
白咲は耳元で自分に言い聞かせるように呟いた。どっちつかずの矛盾した論理を。
その眼差しは、迷いに沈んでいる。
俺の知らない何かが二人の間にある。
去年の夏の出来事に、俺の知らない決定的な理由がある。
このままじゃ、俺はずっと外側のままだ。
「お前がその気なら、黒羽はずっと壊れたままだぞ」
白咲の目が揺れた。否定できない、痛むような色。
「壊れたんじゃ……ない。あの日、壊したのは……」
言いかけ、唇を噛んで黙る。
轟木が低い声で続けた。拳を力強く握って。
「お願いだ。白咲に、全部を投げさせてくれ。臆病者で……ごめん」
轟木らしくない、弱気な発言。
自己罰が積み重なっている。
「黒羽を傷つけたくないんだ。あたしがこの件に介入すると、きっとまたあいつは……」
「あの日のことは"誰も正解じゃなかった"。だからこそ、簡単に触れてはいけないと思うの」
「それじゃあほんとに……あたしたちは、目を背けたままじゃねぇか」
「……そうね」
白咲は窓の外を見つめる。
遠く、淡い記憶をなぞるような、酷く憂いた顔で。
胸がざわりと音を立てる。
なんだよ、それは。
結局、逃げ続けるのか? 二人とも、未練があるから俺を頼ったんじゃなかったのかよ。
とんでもない疎外感に、口の中が鉄の味で満たされていく。説明のつかない怒りがこみ上げてくる。
「二人だけで勝手に決めるなよ!」
答えを求めたくて、影から飛び出しかけた瞬間。
俺の想いに呼応するように、二人の間へ割って入る人影が見えた。
「……どうしてですか」
青海だった。
今の俺と同じ顔。同じ瞳。同じ声色。
二人に異を唱える真っ直ぐな線で、今もなお赤い目尻のまま叫んだ。
「どうして二人とも、湊くんのこと……隠す側に回るんですか!」
「あなたには関係ないわ」
「あります! 大ありです!」
青海の足は震えているが、不思議と強い。
「私、湊くんの"今"を見てきました。でも先輩たちは"あの夏の後悔"だけを見てる!」
「分かってねぇな。できるならとっくに助けてる!」
「できないんじゃなくて、怖いんでしょう!? 湊くんを、また……失うのが!」
轟木が言葉を詰まらせる。
白咲は何か言いかけて、目を伏せた。
夕日の影が揺れ、三人の輪郭だけが濃くなる。
感情はぶつかっているのに、何一つ形になっていない。誰も核心を言わず、ただ苦しそうに立ち尽くすだけ。
目の前で起きているのに、俺には何もできない。声を張り上げることも、間に入ることもだ。
三人の影だけが濃くなっていくのを、ただ眺めるしかなかった。
「白咲先輩……湊くんを傷つけたのは、あなたなんですか?」
青海の問いに、空気が凍る。
白咲は唇を噛み、答えられずにいた。
「青海、やめろって」
「やめないです。その時、付き合っていたのは白咲先輩なんですよね」
「そうだけどよ……なんで」
「私は、湊くんを救いたいんです」
青海は引き下がらない。
去年の夏から変わった、そんな湊を愛したのは青海だ。二人よりも今の湊の全てを見てきた。
その中で気付けなかった自分への後悔もある。
青海が向き合っているのは、罪悪感や未練だけじゃない。
湊本人なんだ。
「なんで黙るんですか!?」
「もう止めろって。白咲だって――」
「いいの、轟木さん」
小さくかぶりを振り、白咲が静かに言う。
「私は……あの時、間違ったのよ」
白咲が背を向ける。
寂しげに髪を流し、その後ろ姿は痛いほど弱々しかった。
「待ってください――白咲先輩!」
青海の声が響く。その必死さに、轟木も言葉を失う。
俺はその場に取り残されたまま、息をするのも苦しくなる。
胸がつかえて、声を出そうとすると喉が痛んだ。
どうして俺だけが外側なんだ。
どうして、誰も俺に言ってくれなかったんだ。
いや……また知らないままじゃいられない。
立ち止まってていいはずがない。
追いかけようとして。しかし、その行く手を阻むかのように。
階段の上から、足音が一つ。
ゆっくりと降りてくる気配がした。
影が伸び、俺の足元に落ちた。
「よう、久瀬直人」
頭上から振ってきた声に、振り返る。
「杉山……?」
バイクのヘルメットを肩に担ぎ、階段の上に立っていたのは杉山颯太だった。
ほとんど話したことはない。今朝が本当に久しぶりの会話で。
湊の今の親友と、過去の親友という関わりで繋がっているだけだ。
「お前、行く気やろ。三人のとこ」
「悪いが今、お前と話してる暇は」
「わかっちょるよ。あいつら、今にも壊れそうやしな」
軽い口調。だが口元だけだ。
視線は俺を真っ直ぐ刺してくる。
「去年の夏のこと、やろ」
足が止まった。嫌でも耳が傾く。
「話が早いのは助かるで?」
「止めようとしても無駄だ。俺は行く」
「止めるんちゃう。話がしたいだけや、お前とな」
杉山はヘルメットを指先でとんとん、と叩いた。
軽い動作のくせに、彼の意図が透けて見えるようだった。
「湊のことで、お互い知らんことも多いやろ」
視線がぶつかる。
杉山の目が、逃げ場を塞ぐように俺を捉えた。
「面貸せや、久瀬」
俺は首を縦に振った。
言葉にしなくとも、お互いの意思が通じ合う。
「なぁ久瀬。お前……湊が何を怖がっとるんか、もう気づきかけとるんちゃうか?」
「……さあな。知りたいとは思ってる」
自分でも驚くほど、声が乾いていた。
俺は何を知らない? あの日、何があった?
杉山の問いかけは、まるでその答えの入口のようだった。
それぞれの思惑に、俺は片足を踏み出した気がした。
ずぶずぶの、泥濘の中へ。




