5話 それぞれの傷、それぞれの嘘
階段を駆け上がり、二年生フロアの廊下へ踏み込んだ瞬間──
朝の光を跳ね返したワックスの床が、白く光り目を眩ませた。
窓の隙間から入り込んだ風がシャツを揺らす。冷たくも熱くもない、生ぬるい空気だった。
「……お願いです、湊くん」
青海の声は掠れていた。今にも途切れそうなのに、それでも必死に前へ伸ばそうとしている。
だが湊の顔にはいつもの柔らかな影が一欠片もなかった。
目の奥が静かすぎて、触れたら割れてしまいそうなくらい冷たい。
「もう言ったよね。二度も言わせないでほしい」
音量は小さいのに、胸の奥だけが鈍く軋む。怒鳴り声でも、冷笑でもない。ただ“拒絶だけがある声”。
俺は止めようと思った。
だが声を出そうとした瞬間、喉がひゅっと締まってしまう。
周囲の生徒たちは距離を置いて見ている。
この一角だけ空気の重さが違うのを、みんなが察していた。
「おいおい、マジでやめよーや。ここで揉めてもしゃーないやろ」
湊の背中から、ひょいと茶髪の少年が顔を出す。
杉山颯太。湊の今の親友だ。
軽いノリでやんちゃな男に見えるが、その目は状況を冷静に測っていた。
「颯太、来なくていい。……君には関係ないから」
湊は短く切り捨てた。
分厚い壁を立てて距離を作るように。
「って言われてもな、人の目もあるやろ。お前のイメージ悪なるぞ?」
「別に構わない」
「俺が構うんや。……また無理しとる顔してんで」
杉山が肩に手を置こうとした、その瞬間。湊は反射的に払った。
拒んだというより、“触れられるのを怖がった”ような動きだった。
廊下が、ひと呼吸だけ静まる。
「もういい? 僕も暇じゃないんだ」
その刺々しい一言に、青海の肩が沈む。
涙が縁に溜まりかけ、それでもなんとか踏みとどまっている。
(二人……このままだと本気で決裂する)
気づけば、体が勝手に前へ出ていた。
「……湊、その言い方は違うだろ」
言ってすぐ、喉が小さく震えた。
だが引き下がるわけにはいかなかった。
隣で轟木も歩み出る。
「だよな。お前らしくねぇよ」
湊は俺と轟木を順に見た。
その瞳の底で、ほんの一瞬だけ迷いが揺れた。
「僕はもうこの子たちと関わらないでほしいって、言ったんだけどね」
「俺も最初はそのつもりだったよ。気が変わったんだ」
俺の決意を秘めた瞳を見て、湊は言い淀む。
ひっそりと心が軋む音がした気がした。
「お前の、湊の本心が知りたい」
廊下が音を失う。
空気が薄くなったみたいに、息の音だけが大きく響く。
湊が、ゆっくりと息を吸った。
その小さな音だけで、ここ一帯の温度がスッと下がったように感じた。
「……ごめん。もう、直人たちと話すことは、何もない」
静かで、でも無理を押し込めた声だった。
「どうしてですか。私、理由が知りたいだけです……!」
青海が縋るように問いかける。
涙はまだ落ちない。落とさないよう戦っている。
「やっぱり……去年の夏のこと、ですか?」
その一言で、湊の表情が凍った。
目の奥にひびのような影が走る。
空気が変わった。温度ではなく、“重さ”で。
(去年の夏……?)
青海はたじろぎながらも、精一杯言葉を繋ぐ。
「……部活で、あの日、湊くんに──」
核心に触れた後、反応したのは湊ではない。
轟木だった。
肩がびくっと震え、息が詰まる。
普段の強さが、一瞬で剥がれ落ちた。
「青海……それ以上は」
消え入りそうな声。怯えが混じっている。
胸の中で、嫌な鼓動がざわりと波打った。
湊が、今度は押し殺すように息を吸った。
「全部、僕が悪いんだ。あの日のことは……掘り返さないでほしい。僕だけが覚えていればいい」
自分を責めながら、誰かを守るような言い方だった。
「湊……?」
掴まなければ、また遠ざかる。そんな気配がした。
けれど、湊はそっと背を向けた。
「もういいよね。これ以上は……無理だから」
「湊! 待てよ!」
思わず手を伸ばすが、
「今はそっとしといたってくれ」
杉山の低い声が制した。
悔しさと心配と無力さを全部抱えたような、痛いほど真剣な目。
「でも、ここで湊と話さなきゃ!」
「友達なんやったら、ちょっとは引いたれや」
ぐっと言い返そうとした言葉が、声にならず消える。
湊と杉山は教室に戻っていった。
最後に杉山がこちらに向けた視線は、どこまでも申し訳なさそうだった。
残された廊下には、言えなかった気持ちだけが熱を帯びて漂う。
青海の足から力が抜け、そのまま腰を落としそうになる。俺と轟木は支えるように彼女を踊り場へ連れていった。
影になった場所で、青海は限界を越えたように泣いた。
「なんでなんですかね……。どうして、あんな態度で……」
轟木は唇を噛み、怒りとも悔しさとも違うやるせない表情で俯く。
俺は追いたいのに動けなかった足を責めた。
湊のあの表情が焼きついている。
“怖さ”と“拒絶”と……言葉にできない別の何か。
「……っち、あいつ。また全部一人で抱え込みやがって」
轟木は低く吐き捨てるが、なぜかその声ははっきりと怯えている。
(湊……"僕が悪い"って……)
嫌な予感がざらりと広がっていく。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「……去年の夏、一体何があったんだ」
問いかけに、轟木は目を逸らす。
下唇を噛み、痛みに耐えるみたいに。
「……深くは知らねぇ。ただ……黒羽の中で、何かが壊れたんだ」
「壊れた?」
「あいつ、本心がわかんねぇんだよ。付き合ってる時も……ずっとそうだった」
「本心がわからない、か」
人一倍、他人を思いやれる湊が、自分の本音だけを隠すなんて。そんな矛盾。
「隠したいんですよ……きっと。でも、去年のことは断片しか知れない……それが悔しいです」
青海が泣き腫らした声で言う。
涙で崩れたメイクの線に、必死の想いが溢れていた。
青海は“知らないがゆえの不安”
轟木は“知っているがゆえの恐怖”
杉山は“勘づいている孤独”
三人の温度差が、この瞬間にようやく形を持った。
だから言った。
「……なら、確かめよう。湊の"あの日を"、俺たちで」
未来に進むために。
湊も、青海も、轟木も、この場にいない白咲も……そして俺自身も。
「……あたしは、嫌だ」
轟木だけが首を振った。
逃げたい気持ちと、向き合わなきゃいけない現実の狭間で揺れる声。
青海はその揺れを敏感に感じ取る。
「……轟木先輩にも、非があるからですか?」
「…………」
轟木は言葉を飲み込み、沈黙で答えた。
俺はそんな彼女の肩に、そっと手を置く。
「轟木が関わってるなら、それでもいい。過去は変えられないが……向き合うことはできるはずだろ」
俺と同じように、轟木だって怖い。
『非がある』そう言われる何かから、目を背けたい気持ちは俺も痛いほど身に染みている。
「……無理だ、あたしは。でも、力にはなりたい」
現実は怖い。それでも、前に進む道を手放したくない。そんな葛藤だった。
だからこそ、轟木は俺に託すように言った。
「……白咲なら、知ってるかもしれねぇ」
「白咲?」
「そん時に付き合ってたのは、あいつだから」
その名前が落ちた瞬間、踊り場に差し込む早朝の光だけが静かに反射した。
誰も、その光を見ようとしなかった。
──核心への扉が、ようやく見えてきた。




