4話 踏み出すための一歩
朝の校舎は、夜の名残をまだ手放していなかった。
湿り気の残った空気の中、階段に響く自分の靴音だけがやけに澄んで聞こえる。
昨日まで胸の奥に沈んでいた重たい塊は……完全には消えていない。それでも確かに、揺らぎ方が違った。
白咲に言われた一言が、まだ熱を持って残っている。
『逃げないで』
それだけで、こんなにも景色が変わるものなのか。
自嘲めいた息をこぼしながら踊り場へ足を向けた、その時。
「……久瀬?」
視線を上げると、手すりにもたれた轟木と目が合った。
驚いたように目を丸くしている。
まるで「ここで会うなんて聞いてないぞ」と言いたげだ。
三段上から覗き込む視線が、少しむず痒い。
本当なら軽口でも叩いて距離をぼかすところだが──最初に言うと決めていた言葉があった。
「昨日は、ごめん」
唐突すぎたのだろう。
轟木の肩がびくんと跳ねる。
「な、なんだよ急に」
「俺……湊と向き合うことにした。逃げるのはもう、やめたいんだ」
無意識に握った拳が、汗で少し滑った。
それでも、力は抜けなかった。
「……何かあったのか?」
「言われたんだよ。『逃げたままだと、一生このままだ』ってな」
自嘲でもなく、誰かを責めるでもない。
ただ、自分の中の鈍い部分を見つけてしまっただけだった。
「これで終わるのは嫌だったんだよ。親友だったんだしな」
言葉にした瞬間、胸のどこかが軽くなる。
白咲の名前は伏せたが、轟木は察したのか視線がそっと落ちた。
「……だから、一緒に未練を晴らしたい。轟木にもあるんだろ? 湊のことで“踏み切れない何か”が」
轟木は一瞬息を呑んだ。
前髪の隙間から見えた瞳の揺れが、そのまま返事になっていた。
「……お前って、ほんとずるい言い方するな」
照れでも怒りでもなく、まるで心の真ん中を突かれたみたいな声だった。
だが次の瞬間、彼女は鼻を鳴らして顔を上げる。
「あたしが最初に頼ったんだしな。……お前に頼られるのも、悪くねぇよ」
ゆっくりと階段を降り、俺の胸元の高さまで来た彼女は、ふっと笑った。
「いいぜ。未練、まとめて片付けようじゃん」
「そう言ってくれると助かる」
言葉にしなくても、空気は軽くなる。
同時に吹き出して、階段に笑い声が木霊した。
「てかさ、首しんどそうだぞ。見上げすぎてな」
「おまっ!? 一番気にしてること言うなよバカ!」
「髪も染め直さないのか? プリンになってる」
「大会が近いんだよ! どうせ黒に戻すし!」
「じゃあなんで金髪に……」
言いかけた途端、背筋に冷たいものが走った。
下の階から複数の足音が響く。
聞き慣れたリズム、昔はいつも隣を歩いていた、あいつの話し声。
湊だ。
轟木の肩がぴくりと揺れる。
まずい。
「っ……!」
考えるより先に体が動いた。
轟木の手首を掴んで、踊り場の影に引き寄せる。
壁に軽く背中を押しつけるようにして隠れる形になった。
距離が一気に詰まり──息が触れそうなほどの近さ。
「ちょ、近っ……!?」
轟木の抗議は、上ってくる足音にかき消される。
手すり越しに湊の姿が通り過ぎる。硬い靴音。制服の布が擦れる微かな音。どれも、いつもより鋭く耳に刺さった。
轟木の肩が小さく震えるたび、熱が伝わる。俺も思わず息を止めていた。
湊の気配が遠ざかり、完全に消えたところで。
「っぷは!? ば、ばかっ……! 近いんだっての!」
どん、と胸を押され距離が戻る。
轟木の顔は怒っているはずなのに、頬がほんのり赤い。
「悪かったって。でも仕方ないだろ」
湊には距離を置いてほしいと言われてるんだ。
この現場を見られるのは良くない。
「お前が窓から飛び降りればよかったんだろ!?」
「ここ四階だぞ? 骨折じゃ済まないって」
「じゃあ死ね!」
「情緒おかしくなりすぎだって轟木」
息も上がってるし。
ぴょんぴょん跳ねて必死に弁解を求めてくる姿勢は、恥ずかしさが勝ってる証拠だ。
轟木って見た目男っぽいのに一番、乙女なんだよな。
「ほんとにお前は……」
語気が弱々しく、轟木の顔が曇る。
「正直、助かった。何喋ったらいいのかわかんなかったし」
最後の言葉は小さかった。
気丈な態度の奥に、ちゃんと怖さがある。
「轟木って、ケンカ別れなんだよな」
「……ああ。別れるって言ったのも、あたしからだし。それも衝動で、後先考えねぇで」
強いのに脆い。
そのアンバランスさが、彼女の繊細さを浮かび上がらせる。
「湊が言う『轟木の本音』ってなんなんだろうな」
「それがわかったら苦労しねぇよ。いや……わかりたくねぇのかも、な」
「わかりたくない?」
「そう。本音を知ったら、全部……終わっちまう気がするんだよ」
胸がずきりと痛んだ。
轟木の言葉はまるで自分の傷口を見せてくるみたいで。
俺が湊に抱えているものと、酷く似ていた。
「なぁ轟木」
言いかけたその時だった。
階上から鋭い声が落ちてきた。
「もう僕に関わらないでくれ。うんざりなんだよ」
何やら騒がしい声。
穏やかとは言えない感情のぶつかり合いで。
……湊?
普段の柔らかさなんて欠片もない。
怒りと焦りがむき出しの声だ。
同時に、別の高い声が聞こえる。
これもまた、聞き覚えのある声。
まさか。
「湊くんと、もう一度ちゃんと話したいんです! このままじゃ私……」
距離は遠いのに、必死に縋り付く子鹿のような脆さ。
轟木が焦ったように目を見開いた。
「青海だ」
轟木と俺は瞬時に顔を見合わせた。
湊が怒るなんて滅多にない。
それだけ温厚で優しいやつなんだ。
その湊がここまで声を荒げている。
跳ね飛ばすようでいて、緊張感が入り乱れている。何かを隠すような……。
胸の奥がざわりと波立った。
湊の声がさらに鋭くなる。
「いい加減にしてくれよ! もう僕と君は……赤の他人なんだからさ」
応じる声は低く、冷たく、青海を威圧するようだった。
轟木が小さく息を呑んで、俺を見る。
その瞳には明らかな不安と、覚悟が宿っていた。
「……行こう」
俺も同じ気持ちだった。
青海を止めなきゃいけない。湊を放っておくわけにもいかない。
階段を上る足音が廊下に響く。熱い夏の空気が胸にまとわりつく。
鼓動が速くなり、汗が背中を伝う。
階上からは、まだ声が聞こえる。緊張が肌を刺す。
──逃げない。
そう心の中で呟き、俺は最後の段を踏みしめた。




