3話 静かな拒絶
翌朝。
教室へ続く廊下は、やけに長く感じた。
昨日の帰り道で白咲に告げた言葉。
『距離を置く。それが湊のためだ』
自分で言ったくせに、半分は嘘だと気づいている。 でもその嘘だけが自分を保たせている。
扉を開くと、白咲が振り返った。眉がほんのわずかに揺れ、探るような迷いを落とす。
「……おはよう」
昨日とは違う、弱く覇気のない声。不自然なくらいだ。
「……ああ」
返した声はとても固く、酷く遠い。
白咲は何か言いかけて、数センチだけ身を寄せたが。それでも躊躇して、元の姿勢に戻った。
その“諦めるような一瞬”が、突き刺さった。
*
一時間目、二時間目と過ぎるにつれ、周囲に流れる空気が徐々に変わっていく。
「なあ久瀬、昨日のことなんだけどよ」
休み時間、廊下で轟木に呼び止められた。
いつも強気な彼女が、気まずそうに視線を泳がせている。
「……悪い。今、誰かと話す気分じゃないんだ」
言ってすぐに、自分の声に自分が驚いた。冷たくて、拒絶だけでできている。
轟木が一瞬、固まる。
その眉が怒りと戸惑いの間で震える。
「え、いや……でもよ」
「頼む」
その二文字が、刃物のように相手を切った。
轟木は歯を食いしばって。
「はぁ? ……お前さ」
怒りに任せて離れるかと思った瞬間、
轟木は胸ぐらを掴む勢いで俺を見上げた。
「……ほんとは、今日、お前に聞きたいことあったんだよ。あの時、黒羽のこと……あたし知らないことが多すぎてさ。でも」
強い視線が俺を射抜く。
「逃げてんのは……お前の方だろ!」
胸の奥に、抉るような痛み。
だが俺は何も返せなかった。
轟木は苛立ちを隠さず言い捨てる。
「意気地なしが! お前を頼ったあたしがバカだったよ!」
怒鳴る声の裏に、小さな悔しさが滲んでいた。
振り返った頃には、彼女の背中はもう角を曲がり消えていた。
小柄なのに、いつもよりずっと遠く見えた。
*
昼休み。
食堂で青海と鉢合わせる。
周りには毛色の似たギャルが数人。
友達と笑っていた彼女は、俺を見るなりピタリと表情を止めて近づいてくる。
「暗い顔してますね先輩。そんな顔してると、幸せが逃げちゃいますよ〜」
「元々こんな顔なんだよ」
「飴でも食べます? 今日の私のラッキーアイテム、お裾分けしてあげますよ」
青海は自分の舐めていた飴をぺろっと俺に向ける。
「せめて新品で頼むわ」
「まさかこれを渡されると思ったんですか? わー、いやらしい」
いつもの調子だ。
わざと軽い雰囲気を作っているのが、逆に痛い。
「で、どれにするんです? きつね? わかめ?」
青海は券売機の前で首を傾げる。
小さく笑って――それでも、何度も俺の顔を探っている。
「……先輩は、私たちが迷惑ですか?」
ほんの少し、濁る声。
空虚にも、券売機の音が鳴り響く。
「そんなんじゃない」
「だったら改め直してください。私は、先輩と一緒に向き合いたいです」
「俺とお前は、抱えてるものの種類が違うだろ」
「でも"行きたい場所"はきっと同じです」
食い下る青海。
まつ毛はわずかに震え、握りしめた手の甲が白くなっていく。
違う。本当は違うんだ。
湊のためと言いながら、自責に縛られてるのは理解してるのに。
「俺はもう、関わる資格がないんだよ」
口にすると同時に、喉の奥が冷たくなった。
青海の顔がわかりやすく沈む。
「……それでも、逃げ続けるのはカッコ悪いですよ」
その言葉は真っ直ぐで、痛かった。
「私は、先輩とは違いますから。湊くんと──」
言いかけて、飲み込む。
その一瞬だけ、彼女の横顔から強がりが落ちた。
青海は友達の輪に戻っていく。
だが、昼の喧騒に溶けない孤独が背中に残っていた。
*
「これで、良かったんだよな……?」
木漏れ日のベンチで、頭を抱えた。
グラウンドから聞こえる笑い声が、煩わしいほど明るい。
悩んでも答えは出ない。自分の選択が正しいのかもわからない。
——誰でもいい。俺を叱ってくれ。向き合ってくれ。
じゃないと、俺は一生このままだ。
「久瀬くん」
祈るように俯いた視界に、影が差した。
白咲だった。
光の筋が髪を縁取っているのに、表情は晴れていない。
「話、いい?」
「言っただろ。俺はもう、お前らと」
「距離を置きたいのよね。それ対しては、もういいの」
白咲は言葉を遮り、歩み寄る。
足音は落ち着いているのに、瞳だけが鋭い。
「でもね、理由を聞いてない」
「理由なんて……」
「無理して答えなくてもいいの」
白咲がふっと目を伏せる。
その仕草が、いつもより少し弱かった。
「私も本音を、言えなかった身だから」
意外だった。
完璧な優等生に見えていた白咲が、そんな弱点を口にするなんて。
「でも、あなたが昨日からずっと……誰にも会いたくない人の目をしてるから」
白咲は顔を上げ、もう一歩だけ近づく。
逃げ場を塞ぐように。
「怖いけど、それでも聞くわよ。黒羽くんと昔何があったの」
「なんで白咲に言わないといけないんだ」
「昨日の顔で、よく反発できるわね」
白咲の視線が細く絞られる。
「久瀬くん。あなた、逃げてる」
「そんなこと、とっくにわかって」
「私たちからじゃない。黒羽くんからでもない。いちばん逃げてるのは、自分自身よ」
耳障りな、透き通りつつも強い声。
的を射すぎていて、息が詰まる。
「放っといてくれ。俺と白咲たちは、特にそんな……本音を晒すような関係じゃないだろ」
「そうね。まだ知り合って間もないし」
白咲はあっさり認める。
「だったら、なんなんだよお前らは。別に仲良くなろうとか、助けたいからだとか、そんな綺麗な理由じゃないだろ? 何がお前たちを動かす。なぜ俺に寄り添おうしてくる!?」
俺なんて──
「放っておけるわけないでしょ!」
声が弾けた。白咲がこんな声を出すのは初めてだった。
唖然とする俺を無視して、言葉を続ける。
「相談したのは私たち。確かに、関わる理由はそれしかない」
「だったら俺のことは」
「でもね」
白咲は言葉を詰まらせ、袖をぎゅっと握る。
「黒羽くんのことになると、あなたがそこまで壊れそうになる理由……知らないままでいるのは、もっと嫌なの」
胸を抉られるような静寂。
逃げられる空気じゃなかった。
白咲は怒っているわけでも、泣きそうなわけでもない。
ただ“怖さを抱えたまま踏み込んでくる”その姿勢が、逆に強かった。
「……直人」
名前を呼ばれた。苗字ではなく"名前"で。
呼ばれただけなのに、不思議と肩の力が抜けていく。
「話して。苦しくない範囲でいいから。じゃないと、あなたは一生このままよ」
白咲の声は穏やかで、拒む余地がなかった。
瞼を閉じる。
胸の奥の、錆びた蓋が軋むような感覚。
「一生このまま、か」
逃げてばかりいた言葉が、どうしようもなく口の奥からせり上がってきた。
「湊に……あの日、俺は言ったんだ」
喉がひりつく。声を押し出すだけで苦しい。
「もう『無理して笑うな』って」
白咲の目が揺れた。
それが同情じゃなく、理解しようとする揺れに見えた。
「それだけ、じゃないんだよ」
言いながら思い出す。
卒業式。湊は最後まで“誰の邪魔にもなりたくない”みたいに、ずっと笑っていた。
昔からそうだった。誰かのために笑って、誰かに合わせて、自分の本音を隠す癖。
それを見抜けていたのは、俺だけだった。
「あいつ、前日に言ってたんだ。『最後くらい、ちゃんと笑って終わりたい』って。……俺は、それすら否定したんだよ」
白咲は唇を噛み、拳を胸元で握った。
責めていない。否定もしない。ただ、受け止めるためだけの沈黙。
「そしたら湊は……急に何も言わなくなってさ。集まる約束も全部断って……」
俯き、苦笑のような声が漏れる。
「俺のせいで、あいつは変わった。俺の一言が、何かを折ったんだ」
白咲はそっと息を吐いた。
少し震えていたのは、きっと俺の話に心を揺らしているからだ
「ありがとう、話してくれて」
白咲の声は小さいのに、確かな温度があった。
「ありがとうなんて、よく言えるな。白咲たちが別れた原因も、俺にあるかもしれないのに」
「どうかしら」
白咲は顔を上げ、まっすぐ言う。
「恋愛って、そんな単純じゃないわよ」
後ろめたさのない、前を向いた物言い。
白咲は俺と違ってちゃんと向き合おうとしてるのだ。
芯がある彼女の姿勢が、眩しかった。
「最後に、一つだけ言わせて」
目を逸らさず、白咲は俺の正面に歩み出る。
「あなたが悪かったかどうかを決めるのは──黒羽くんよ」
「……っ」
脈が大きく波打った。
「久瀬くんの罪は、あなたが勝手に背負ってるだけ。そのせいで遠ざけるのは……間違ってる」
白咲は息を吸い、静かに締めくくった。
「あなたは黒羽くんを傷つけたかもしれない。でも今、傷ついてるのは……『あなた自身』よ」
はっと目が覚めるようだった。
初めて誰かに核心を突かれた気がした。
「……すまない。少し時間がほしい」
「いいの。でも逃げないで。轟木さんも、青海さんも私だって、怖いけど――あなたを放っておきたくないから」
白咲はそう言って、静かに背を向けた。
去っていく姿は芯があって、それでいてどこか弱く、だからこそ嘘がないと思えた。
残された俺は、深く息を吐く。
逃げられない。誰も俺を見捨てない。
その事実が……どうしようもなく温かった。




