2話 相談援助の破綻
授業が全く頭に入らない。
黒板の文字は読み取れるのに、意味だけが綺麗に滑り落ちていく。
放課後が近づくにつれ、胸の奥で妙な鼓動がひとつ、またひとつと増えていった。
「今日……湊に会う」
たったそれだけで、こんなにも乱れるなんて思わなかった。
横を見ると白咲は、ノートを捲るたび指がわずかに震えていた。
その震えは“謝りたいのに言葉が出ない人間”のものに見えた。
後ろの席では轟木が、落ち着かず机を小さく揺らしている。
湊の名前が出る度に、彼女は机の端をぎゅっと握って視線を逸らしていた。
プライドが焦げつくように軋む音が聞こえる気がした。
休み時間に顔を出した青海は、誰かに褒められたい子どもみたいに、スマホを何度も確認しては唇を噛んでいる。
湊の反応一つで世界が決まってしまう、そんな顔だった。
三人とも違う理由で苦しんでいるのに、足りなかった言葉を取り返したいという点だけは同じだった。
そして──
(……俺も、か)
胸の奥の古い傷が、今日に限ってやけに疼いた。
“あの日、俺は湊の何を聞かなかった?”
考えたくない問いが喉元に浮かんでは沈む。
「……何、言われるんだろうな」
薄っすらと空を歩く雲は、晴天のくせに分厚い。
チャイムが鳴った瞬間、心臓が跳ねた。
*
夕焼けの校舎裏は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
告白スポットとして有名らしい場所。
ここに俺が立っていいのか、少し落ち着かない。
向き合いたい気持ちと逃げたい気持ちが、同じ強さでせめぎ合っていた。
「──直人」
風に乗って届く声は、懐かしいのにどこか張り付いていた。
湊は相変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。仕草も、声の調子も、昔と何も変わらない。
ただ、目だけが違う。本来ならまっすぐ俺を見る瞳が、何かを測るように揺れていた。
「来てくれてありがとう」
「……ああ」
二つに分かれた髪が、互いに寄り添うことなく平行線のまま風に流れる。
その様子がなぜか、焦燥感を掻き立てた。
「久しぶりだね、こうして直人と話すのは」
「中、高、と挨拶ぐらいはしてたけどな」
「だね」
沈黙。
言葉を探すほど、喉が固くなる。
湊が何を切り出すのか、それを待っている自分がいた。
「直人さ、最近僕のことで何か聞いてない?」
その言い方はまるで"知っている前提"のようで。
「……別に。何も──」
「直人」
湊の眉が寄る。
短く名前を呼ばれた瞬間、胸が強く跳ねた。昔と同じ、嘘を見抜くときの声だ。
呼吸の浅さ。視線の揺れ。声の間。湊は昔から、人の感情の隙間を拾うのが異常に上手い。
隠し事はすぐにバレる。
「……白咲たちに、相談されたんだ」
観念して、全てを話した。
三人が感じている違和感。
別れ際に言われた言葉。
幼馴染である俺を頼っていること。
それでもあの日の罪だけは、どうしても口にできなかった。
湊は黙って聞き、途中で一度だけ、ふっと校舎の向こうを見た。
まるで見えない誰かを探すように。
「そんな気がしてたんだ」
声が低く落ちる。
「否定もしないし、肯定もしない。ただ一つだけ、お願いしたいことがある」
顔を上げた湊の表情は、どこか軋んでいて。
「あの子たちと、関わるのはやめてくれないかな」
静かなのに、重い言葉だった。
「……なんでだよ」
本当は即座に否定したかった。
じゃないと湊と向き合う口実が消えてしまう。
そんな俺の感情を読んだように、湊は苦しげに微笑んだ。
「巻き込みたくないんだ。直人だけは、絶対に」
「巻き込むって、何に」
「言えないよ。言ったら、全部終わる」
淡々としているのに、必死さが滲んでいた。
「白咲たちは、もう僕の問題に触れすぎてる。これ以上は……本当に危ない」
背中に冷たい汗が流れた。
“危ない”その言葉の重さがわからず、逆に恐怖だけが膨らんでいく。
「……湊、俺は」
「わかってるよ」
遮られた。
優しさでも慰めでもない。まるで『知りすぎてる』人間の声。
「直人が何を気にしてるのか。僕、全部わかってるから」
胸がつき刺さる。
“あの日の俺”を見透かされているみたいで。
「今日はこれでいい」
問い返す前に、湊はかぶりを振る。
「今は僕も直人も、整理がついていないみたいだ。でも近いうちに、ちゃんと話すから」
「待てよ、湊──」
問い返す前に、湊は背を向けた。
呼び止めても、振り返らない。手だけが小さく揺れた。
その背中は、今までで一番遠くに見えた。
残されたのは、強い虚無感だけ。
「あいつらと距離を置いてほしい、か」
俺の中に残ったのは、たった一言。
その一言だけが、頭の中で無限に反芻される。
夕焼けがゆっくり色を失い、夏特有の生臭い湿気が立ち込める。
何も言わない空が、とても残酷だった。
「……なんでだよ」
湊が困っているのなら助けたい。三人だって、俺を頼るほど悩んでいる。
どっちも放り出すなんて、本当はしたくない。
このままじゃ過去に向き合えない俺のままだ。
でも──
「俺のせい、なんだよな……?」
湊の『わかってるよ』が、まるで裁判の判決文みたいに胸に居座る。
俺はまだ、湊に何かを背負わせているのか。
それとも、三人と関わる俺の存在が湊を苦しめているのか。
「俺が離れれば、済む話なのか?」
呟いた瞬間、ぎゅっと萎むように息が辛くなった。
白咲も、轟木も、青海も――
三人が俺に相談したのは、"原因の一端が俺だから"なのかもしれない。
力になりたい気持ちと、傷つけたくない気持ちが、互いの首を絞め合う。
どちらを選んでも誰かが傷つくなら、最後に犠牲になるのは。
「……俺だよな」
体がぞわりと熱を帯びる。
後悔でも悲しみでもなく、もっと泥のような感情。
罪悪感が、ゆっくりと“罰”の形に変わっていく。離れたほうがいいのは、自分だと信じ込もうとする。
俺は結局、いつも保身に走るんだ。
「……どうせ俺なんて、こんなもんだ」
校門へ向かう途中、淡い光の影が長く伸び、俺と地面に一本の距離の線を落とした。
その線は跨ごうにも跨げない。
「久瀬くん」
「しら……さき?」
振り向くと白咲が立っていた。
校門の影の向こうで、心配を抑え込んだ顔をして。
「何を話したの。……浮かない顔してる」
「別に。そう見えるならそうなんだろ」
自嘲が勝手に漏れる。
「轟木と青海は?」
「二人とも部活。だから私が聞くって……」
白咲の声が微かに震えた。
「そうか。じゃあ伝えといてくれ。俺、降りるよ」
「……え?」
白咲の瞳が大きく揺れた。
「相談援助の話は、なかったことにしてくれ」
その瞬間、白咲の表情から血の気が引いた。
怒りでも悲しみでもない。
何かを思い出したような、そんな表情。
「久瀬くん……本当に何が──」
「お前たちとは距離を置く。それが一番、湊が傷つかない」
言葉にした瞬間、奥の何かがストンと沈んだ。
決意なんて大袈裟なものじゃない。
ただの後退。ただの逃避。
「待って!」
白咲が腕を掴む。指が食い込むほど強く、必死だった。
「そんなの……違うに決まってるじゃない……!」
喉の奥で小さく続いた言葉を、風がかき消した。
「……“また同じこと”になるって、黒羽くんが……」
白咲の声は途中で途切れた。彼女もまた、何かを知っているのかもしれない。
「悪いな」
掴んだ手がゆっくり離れた。
夕焼けが終わりかけ、夜の湿気が立ち込めてくる。
白咲の影だけが、俺の背中にしがみつくように揺れた。
その影を振り払うように歩き出す。
風だけが、無機質に頬を撫でていった。




