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2話 相談援助の破綻



授業が全く頭に入らない。


黒板の文字は読み取れるのに、意味だけが綺麗に滑り落ちていく。

 

放課後が近づくにつれ、胸の奥で妙な鼓動がひとつ、またひとつと増えていった。


「今日……湊に会う」

 

たったそれだけで、こんなにも乱れるなんて思わなかった。

 

横を見ると白咲は、ノートを捲るたび指がわずかに震えていた。

その震えは“謝りたいのに言葉が出ない人間”のものに見えた。


後ろの席では轟木が、落ち着かず机を小さく揺らしている。

湊の名前が出る度に、彼女は机の端をぎゅっと握って視線を逸らしていた。

プライドが焦げつくように軋む音が聞こえる気がした。


休み時間に顔を出した青海は、誰かに褒められたい子どもみたいに、スマホを何度も確認しては唇を噛んでいる。

湊の反応一つで世界が決まってしまう、そんな顔だった。


三人とも違う理由で苦しんでいるのに、足りなかった言葉を取り返したいという点だけは同じだった。


そして──


(……俺も、か)


胸の奥の古い傷が、今日に限ってやけに疼いた。


“あの日、俺は湊の何を聞かなかった?”


考えたくない問いが喉元に浮かんでは沈む。


「……何、言われるんだろうな」


薄っすらと空を歩く雲は、晴天のくせに分厚い。

 

チャイムが鳴った瞬間、心臓が跳ねた。





夕焼けの校舎裏は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。

 

告白スポットとして有名らしい場所。

ここに俺が立っていいのか、少し落ち着かない。


向き合いたい気持ちと逃げたい気持ちが、同じ強さでせめぎ合っていた。


「──直人」


風に乗って届く声は、懐かしいのにどこか張り付いていた。


湊は相変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。仕草も、声の調子も、昔と何も変わらない。


ただ、目だけが違う。本来ならまっすぐ俺を見る瞳が、何かを測るように揺れていた。


「来てくれてありがとう」


「……ああ」

 

二つに分かれた髪が、互いに寄り添うことなく平行線のまま風に流れる。

 

その様子がなぜか、焦燥感を掻き立てた。


「久しぶりだね、こうして直人と話すのは」


「中、高、と挨拶ぐらいはしてたけどな」


「だね」


沈黙。

言葉を探すほど、喉が固くなる。


湊が何を切り出すのか、それを待っている自分がいた。


「直人さ、最近僕のことで何か聞いてない?」

 

その言い方はまるで"知っている前提"のようで。


「……別に。何も──」


「直人」

 

湊の眉が寄る。


短く名前を呼ばれた瞬間、胸が強く跳ねた。昔と同じ、嘘を見抜くときの声だ。


呼吸の浅さ。視線の揺れ。声の間。湊は昔から、人の感情の隙間を拾うのが異常に上手い。


隠し事はすぐにバレる。


「……白咲たちに、相談されたんだ」

 

観念して、全てを話した。

 

三人が感じている違和感。

別れ際に言われた言葉。

幼馴染である俺を頼っていること。


それでもあの日の罪だけは、どうしても口にできなかった。


湊は黙って聞き、途中で一度だけ、ふっと校舎の向こうを見た。

まるで見えない誰かを探すように。


「そんな気がしてたんだ」

 

声が低く落ちる。


「否定もしないし、肯定もしない。ただ一つだけ、お願いしたいことがある」

 

顔を上げた湊の表情は、どこか軋んでいて。


「あの子たちと、関わるのはやめてくれないかな」

 

静かなのに、重い言葉だった。


「……なんでだよ」


本当は即座に否定したかった。

じゃないと湊と向き合う口実が消えてしまう。


そんな俺の感情を読んだように、湊は苦しげに微笑んだ。


「巻き込みたくないんだ。直人だけは、絶対に」


「巻き込むって、何に」


「言えないよ。言ったら、全部終わる」


淡々としているのに、必死さが滲んでいた。


「白咲たちは、もう僕の問題に触れすぎてる。これ以上は……本当に危ない」


背中に冷たい汗が流れた。


“危ない”その言葉の重さがわからず、逆に恐怖だけが膨らんでいく。


「……湊、俺は」


「わかってるよ」


遮られた。

優しさでも慰めでもない。まるで『知りすぎてる』人間の声。


「直人が何を気にしてるのか。僕、全部わかってるから」

 

胸がつき刺さる。

“あの日の俺”を見透かされているみたいで。


「今日はこれでいい」

 

問い返す前に、湊はかぶりを振る。


「今は僕も直人も、整理がついていないみたいだ。でも近いうちに、ちゃんと話すから」


「待てよ、湊──」

 

問い返す前に、湊は背を向けた。

呼び止めても、振り返らない。手だけが小さく揺れた。


その背中は、今までで一番遠くに見えた。


残されたのは、強い虚無感だけ。


「あいつらと距離を置いてほしい、か」

 

俺の中に残ったのは、たった一言。

その一言だけが、頭の中で無限に反芻される。

 

夕焼けがゆっくり色を失い、夏特有の生臭い湿気が立ち込める。

何も言わない空が、とても残酷だった。


「……なんでだよ」

 

湊が困っているのなら助けたい。三人だって、俺を頼るほど悩んでいる。

どっちも放り出すなんて、本当はしたくない。


このままじゃ過去に向き合えない俺のままだ。


でも──


「俺のせい、なんだよな……?」

 

湊の『わかってるよ』が、まるで裁判の判決文みたいに胸に居座る。

 

俺はまだ、湊に何かを背負わせているのか。

それとも、三人と関わる俺の存在が湊を苦しめているのか。


「俺が離れれば、済む話なのか?」

 

呟いた瞬間、ぎゅっと萎むように息が辛くなった。

 

白咲も、轟木も、青海も――

三人が俺に相談したのは、"原因の一端が俺だから"なのかもしれない。

 

力になりたい気持ちと、傷つけたくない気持ちが、互いの首を絞め合う。

 

どちらを選んでも誰かが傷つくなら、最後に犠牲になるのは。


「……俺だよな」

 

体がぞわりと熱を帯びる。

後悔でも悲しみでもなく、もっと泥のような感情。


罪悪感が、ゆっくりと“罰”の形に変わっていく。離れたほうがいいのは、自分だと信じ込もうとする。


俺は結局、いつも保身に走るんだ。


「……どうせ俺なんて、こんなもんだ」


校門へ向かう途中、淡い光の影が長く伸び、俺と地面に一本の距離の線を落とした。


その線は跨ごうにも跨げない。


「久瀬くん」


「しら……さき?」

 

振り向くと白咲が立っていた。

校門の影の向こうで、心配を抑え込んだ顔をして。

 

「何を話したの。……浮かない顔してる」


「別に。そう見えるならそうなんだろ」

 

自嘲が勝手に漏れる。


「轟木と青海は?」


「二人とも部活。だから私が聞くって……」


白咲の声が微かに震えた。


「そうか。じゃあ伝えといてくれ。俺、降りるよ」


「……え?」


白咲の瞳が大きく揺れた。


「相談援助の話は、なかったことにしてくれ」

 

その瞬間、白咲の表情から血の気が引いた。

怒りでも悲しみでもない。

何かを思い出したような、そんな表情。


「久瀬くん……本当に何が──」


「お前たちとは距離を置く。それが一番、湊が傷つかない」


言葉にした瞬間、奥の何かがストンと沈んだ。

決意なんて大袈裟なものじゃない。

ただの後退。ただの逃避。


「待って!」


白咲が腕を掴む。指が食い込むほど強く、必死だった。


「そんなの……違うに決まってるじゃない……!」


喉の奥で小さく続いた言葉を、風がかき消した。


「……“また同じこと”になるって、黒羽くんが……」


白咲の声は途中で途切れた。彼女もまた、何かを知っているのかもしれない。


「悪いな」


掴んだ手がゆっくり離れた。


夕焼けが終わりかけ、夜の湿気が立ち込めてくる。


白咲の影だけが、俺の背中にしがみつくように揺れた。

その影を振り払うように歩き出す。


風だけが、無機質に頬を撫でていった。


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