23話 過去との別れ
大会初日が終わった頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
体育館の喧騒も少しずつ遠のいていく。
歓声。
拍手。
顧問の声。
全部が夕暮れに溶けていく中で、白咲楓は一人、会場の渡り廊下にもたれて空を見上げていた。
夏の終わりにはまだ早い。
けれど今日という一日が、何かの区切りだった気がする。
「……やっぱり、ここにいた」
聞き慣れた声だった。
振り返る。
黒羽湊が立っていた。
汗で少し乱れた黒髪。
試合後の疲労を隠しきれていない顔。
でも。
去年では浮世離れだったシューズが、ちょっとすり減っていて、その分履き慣れたように彼の努力を物語っていた。
その表情がずっと柔らかい。
あの頃の、『楽しい』を全面に出して。
「お疲れ様」
「楓も」
それだけで会話が止まる。
一年以上。
まともに話していなかった。
沈黙の距離感すら思い出せない。
風が吹く。
白咲の髪が揺れて、不思議と久瀬に背中を押されて勇気を振り絞った日のことを思い出す。
一度呼吸を整えて、白咲は平然を装うかのように、ポツリと呟いた。
「全国、行けそうね」
ようやく絞り出した言葉だった。
湊は少しだけ笑う。
「まだ一回戦勝っただけだよ」
「でも勝ったでしょう?」
「まあね」
「じゃあ偉いわ」
「子供扱いしてる?」
「少しだけ」
二人とも小さく笑った。
その笑い方があまりにも自然で。
逆に胸が痛くなった。
もしもっと早くこうして話せていたら。
そんな考えが一瞬だけよぎる。
でも、白咲は首を振った。
それはもう終わった話だ。
「黒羽くん」
呼ぶ。
湊がこちらを見る。
「私ね」
言葉が詰まる。
本当はもっと早く伝えるべきだった。
ずっと言いたかった。
一年以上。
胸の奥に残り続けていた言葉。
「ごめんなさい」
湊の瞳がわずかに揺れた。
「私、何も気づけなかった」
夕日が二人の影を長く伸ばす。
「苦しそうだったのに」
「……」
「助けてほしかったのに」
声が震えた。
「好きだって言ってたくせに、何も見えてなかった」
あの日。
期待を背負って。誰より努力して。誰より苦しんで。
それでも笑い続けていた少年を。
自分は恋人だったのに。
見失っていた。
「だから、ごめんなさい」
涙は出なかった。
もう泣き終えていたから。
ただ。
今度こそ逃げずに伝えたかった。
湊はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「楓」
呼ばれる。優しい声だった。
「僕も悪かった」
白咲が顔を上げる。
「全部一人で抱え込んでた」
湊は苦笑した。
「勝手に苦しんで、勝手に限界になって、勝手に逃げた」
自嘲気味な笑み。
でも昔みたいな無理をした笑顔じゃない。
ちゃんと痛みを認めた人間の顔だった。
「楓を信じてなかった」
その言葉だけは少しだけ重かった。
白咲は静かに目を閉じる。
痛い。それが必要な痛みだった。
「そうね」
「うん」
「私たち、二人とも弱かった」
「そうだね」
また、風が吹く。蝉の声が遠くで響く。
長かった。本当に長かった。
それなのに。
終わってしまえば不自然なほど静かだった。
「ねえ」
白咲が笑う。
「なに?」
「私ね」
少しだけ考えて。
それから口にした。
「今の黒羽くんの方が好きよ」
湊の目が丸くなる。
「え?」
「変な意味じゃなくて」
「いや今のは誤解するでしょ」
「黒羽くんが勝手に誤解したのよ」
「ひどいな」
久しぶりに聞いた。
こういう軽口だった。
白咲はくすりと笑う。
そして続けた。
「前はね」
「完璧な人だと思ってた」
「……」
「優しくて、かっこよくて、誰より強い人」
夕日に照らされた横顔を見る。
今は違う。
弱いところも知っている。
逃げたことも知っている。
傷だらけなことも知っている。
それでも。
「今の方が、ずっと素敵」
湊は困ったように頭を掻いた。
「そんなこと言われると困るんだけど」
「褒めてるのよ」
「なおさら困る」
二人で笑う。
自然に。昔みたいに。
けれど昔とは違う形で。
白咲は空を見上げた。
夏の夕焼け。
去年の夏には見えなかった景色。
「だから」
静かに言う。
「もう大丈夫」
湊は何も言わない。
その代わり少しだけ寂しそうに笑った。
白咲も同じ顔をしていたと思う。
失ったものは戻らない。恋人には戻れない。
あの頃には戻れない。
でも。だからこそ。
「また友達からね」
白咲が手を差し出す。
湊は一瞬だけ目を見開いたあと。
ふっと笑った。
「今さら?」
「今さらよ」
「変なの」
そう言いながら、湊はその手を握った。
恋人だった二人。
今は違う。
それでいいと思えた。
これから先、どんな関係になるのかは分からない。
それでも、今日ここで終わらせなかったことだけは確かだった。
「じゃあ私、帰るわ」
「うん」
「全国、頑張りなさい」
「善処します」
「何その返事」
白咲が呆れたように笑う。
その笑顔を見て、湊も笑った。
今度はちゃんと、自分の意志で。
白咲は踵を返す。
渡り廊下を歩きながら、不意に足を止めた。
階段の下。
壁にもたれながらスマホを弄っている男子生徒が見える。
「……あ」
久瀬直人だった。
目が合う。
しまった、という顔をしている。
たぶん待っていたのだろう。結果を聞くために。
でも気を遣って近づかなかった。
本当に変な男だ。
「終わったか?」
久瀬が聞く。
「あなた……学校は?」
「早退してきた。お前のことが気になってな」
胸がドキっと動く。
不意に緊張して顔が強張ってしまう。
「それで? 答えろよ」
いつも通りに見せてるくせに、久瀬はそっぽを向いて落ち着きがない。
白咲は少しだけ考えて、それから微笑んだ。
「ええ。ちゃんと話せたわ」
久瀬は安心したように息を吐いた。
まるで自分のことみたいに。
「そうか」
たったそれだけ。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
不思議だった。
「久瀬くん」
「ん?」
「ありがとう」
直人は首を傾げる。
「お礼を言われるようなことはしてないが?」
「したわよ」
『あなたがいなかったら、私は今日ここに来れなかった』とは気恥ずかして言えなかったけれど。
たくさん。本当にたくさん、してくれた。
でも本人は気づいていないのだろう。
だから白咲は笑った。
「内緒」
そう言って歩き出す。
背後から、
「なんだそれ」
という困惑した声が聞こえた。
白咲は振り返らない。
ただ。少しだけ思った。
──この人、本当に変な人ね。
夕焼けの中。
その姿が、なぜだか少しだけ眩しく見えた。




