22話 去年の夏、今年の夏
夏の大会当日。
学校は妙に静かだった。
バスケ部は朝から会場入りしているせいで、公休を取った連中の机がいくつも空いている。
窓の外では、真夏を急かすような蝉の声。
湿った風がカーテンを揺らし、誰もいない席へ白い陽射しを落としていた。
「……なんか変な感じだな」
俺が頬杖をつきながら呟くと、後ろの轟木が気怠そうに椅子を軋ませた。
「当たり前だろ。あいつら、去年全国一歩手前まで行ったんだぞ。今年の期待値も相当だ」
「お前、なんだかんだ詳しいよな」
「そりゃ……去年も見てたからな。嫌でも気になる」
言いながら、轟木はスマホを強く握りしめていた。
開いているのはトーク画面。
だが文字を打っては消し、打っては消しを繰り返している。
「送ればいいのに」
「簡単に言うなっての……」
たぶん送りたいんだろう。
『頑張れ』の一言を。
でも去年の夏を知っているからこそ、その言葉の重さがわかってしまう。
「お前、まだ変に気負ってるな」
「うっせ。あたしはそういう性格なんだよ」
不器用に吐き捨てた時だった。
教室のドアが勢いよく開いた。
「くぜ先輩っ!」
青海みなもだった。
相変わらず派手な巻き髪。きらつくネイル。
華やかで、どこか浮世離れした笑顔。
けれど、今日の青海の瞳には、隠しきれない焦燥が宿っていた。
「なんだ、学校来てたのか」
「サボりみたいに言わないでください」
青海はむっと頬を膨らませ、それから少しだけ視線を泳がせた。
「……湊くん、もう試合始まるみたいですよ」
「なんでお前がそんなソワソワしてんだ」
「別に、そんなことないですけど」
即答。
だが視線は落ち着きなく窓の外を泳いでいた。
轟木が呆れたように肩をすくめる。
「お前も大概わかりやすいな」
「轟木先輩にだけは言われたくないです」
「はぁ!?」
騒がしい。
でも、その騒がしさが妙に心地いい。
去年の夏には、もう戻れない。
みんな少しずつ傷を抱えたまま、それでも不器用ながら前へ進もうとしている。
そして。
「……白咲先輩は?」
俺の隣の席。
そこにいるはずの彼女が、いない。
青海のその問いに、俺は少しだけ笑った。
窓の外、真っ青な夏空。
その先にある体育館を思い浮かべながら。
「白咲はな──」
*
また、この匂いだ。
体育館特有の、焦げた甘い匂い。
足元から伝わる、湿った熱気。
汗の混じった空気が、容赦なく肺に流れ込む。
去年の夏と、何も変わらない。
それなのに。
「……っ」
足を踏み入れた瞬間、僕は呼吸の仕方を忘れたかと思った。
観客席から響く大歓声。
シューズが床を擦る高い音。
ボールの弾む硬質な振動。
全部が、嫌になるほど鮮明だった。
去年の夏。
あと一歩で全国だった。
誰もが期待していた。
顧問も。仲間も。観客も。
そして──楓も。
『黒羽くん、頑張って』
あの声を、今でも覚えている。
優しくて。
柔らかくて。
だからこそ、苦しかった。
まるで、「壊れないで」と祈られているみたいで。
その祈りが、僕の身体を縛り付ける鎖になった。
「黒羽! 何突っ立ってんだ!」
飛んできた声に、意識が現実へ引き戻される。
「アップ続けるぞ!」
「あ……ごめん」
慌ててコートへ戻る。
すると三年の先輩が、呆れたように笑った。
「今日のお前、いつもより顔硬ぇな」
「……そうですか?」
「そうだよ。戻ってきたエースがそれじゃ困る」
軽い口調だった。
責める色なんて、どこにもない。
「ほら、一本いけ」
投げられたボールを受け取る。
手のひらに伝わる感触。
懐かしいのに、少し怖い。
リングを見上げる。
去年の景色が、一瞬だけ重なった。
歓声。期待。視線。
壊れてはいけない。
そう思った瞬間、全部が息苦しくなった。
酸素が薄い。身体が石みたいに固まっていく。
「黒羽ー?」
「……っ」
気づけば止まっていた。
去年と同じ感覚。期待されるほど、身体が強張る。
先輩が不思議そうに眉を上げる。
「どうした」
「いえ……なんでもないです」
無理やりシュートを放つ。
ボールはリングに弾かれた。
「あー、珍し」
「お前でも外すんだな」
誰かが笑う。
でも、その笑い方は優しかった。
去年みたいに、「期待」を押し付けてくる笑いじゃない。
「調子悪いなら、俺らでもうちょい走るぞ」
「そうそう。黒羽一人でどうにかするチームじゃねぇし」
「去年働かせすぎたからなぁ」
冗談みたいに笑い合う声。
その瞬間。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
僕はずっと、勝手に見限られたと思っていた。
勝手に失望されたと思っていた。
なのに。
「ほら、整列!」
キャプテンの声。
みんなが自然に並び始める。
その輪の中に、当たり前みたいに僕の場所も空いていた。
「……っ」
喉が熱い。
去年の歓声は、押し潰してくる波みたいだった。
期待されるたび、壊れてはいけないと思った。
でも今は違う。
名前を呼ぶ声が、僕をコートへ繋ぎ止めている。
試合開始のブザーが鳴る。
歓声が爆発した。
ジャンプボール。高く放られたボール。
試合が始まる。
「黒羽!」
味方の声。
反応が、一瞬遅れた。
パスを受け損ねかけ、慌てて拾う。
呼吸が浅い。視界が狭い。
去年と同じ感覚。
期待されるほど、身体が強張っていく。
「っ……!」
ドリブルが乱れる。
観客席のざわめき。ベンチの声。シューズ音。
全部が頭の中で反響する。
──また壊れるのか。
嫌な汗が背中を滑った、その時。
「黒羽ァ! 右!」
反射で顔を上げると、フリーになった味方がいる。
迷わずパスを出した。
シュートが決まり、ネットが乾いた音を鳴らす。
「ナイスパス!」
背中を叩かれる。
その衝撃で、肺に無理やり空気がねじ込まれた。
ぷつり、と。
身体を縛っていた鎖が、一音だけ切れた気がした。
「……あ」
去年と違う。
今の僕は、一人じゃない。
そこからだった。
パスが繋がる。視界が広がる。仲間の位置が見える。
歓声が、悲鳴じゃなくなっていく。
ボールを持つ。
抜く。跳ぶ。レイアップ。
また、ネットが乾いた音を鳴らした。
「よっしゃあ!」
ベンチが立ち上がる。
誰かが僕の名前を叫ぶ。
苦しい。息も上がる。視界の端が白む。
それでも。
こんな感覚、いつぶりだろう。
*
ハーフタイム。
汗を拭いながら、僕はベンチへ腰を下ろした。
呼吸はまだ荒い。
でも去年みたいな吐き気はない。
「黒羽、戻ってきたな」
キャプテンがスポドリを投げて寄越す。
「……戻ってきたって何ですか」
「顔だよ。最初死にそうだったぞ」
周囲が笑う。
「いやマジで」「今の方がいつもの黒羽だわ」
そんな何気ない声が、不思議なくらい胸に沁みた。
その時だった。
ふと、視線を感じる。
観客席。
人で埋まるその一角。
白い制服が、静かに揺れていた。
「……楓」
白咲楓。
両手を胸の前で小さく握り、祈るみたいにコートを見つめている。
去年と同じ光景。
でも違う。
もうあの瞳は、「壊れないで」と願っていない。
苦しくても。迷っても。
ちゃんと自分の足で立ってほしい。
どこか、そんなふうに見えた。
楓がこちらに気づく。
目が合う。
逃げなかった。
僕も。楓も。
その瞬間、不思議なくらい自然に思った。
──ちゃんと話さなきゃ。
逃げたまま終わらせた恋を。
救えなかった後悔を。
あの時、僕たちは二人とも弱かった。
誰のせいでもない。僕たちが、自分自身を守ることに必死だったから。
今度こそ、自分の言葉で。
「……黒羽?」
隣でキャプテンが不思議そうに僕を見つめていたが、小さく笑って。
「いや」
胸の奥が、少しだけ熱い。
「試合、負けられないなって」
去年の夏とは違う。
壊れたままでもいい。
迷ったままでもいい。
それでも今の僕は、
ちゃんと“今年の夏”を生きていた。
ボールを握る手が、もう震えていない。
僕はコートへ戻る。
そこには、僕の居場所が、ちゃんと空いていた。
「行こう」
僕は踏み出した。
この暑い、騒がしい、愛おしい季節の中へ。
今年の夏は、去年よりもずっと鮮やかに、僕の視界を塗り替えていく。




