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21話 今の親友


エンジンの咆哮が、夜の海沿いに長く尾を引いて伸びていく。


街灯の乏しい一本道。

世界を切り裂くように進むバイクの振動が、試合でボロボロになった僕の身体に重く響いた。


ヘルメット越しに聞こえるのは、潮の匂いが混じった暴力的な風の音と、一定のリズムを刻む金属音だけだ。


「落ちんなよ、湊。寝ぼけて手離したら、明日のニュース行きやで」


前から颯太の、風に煽られた声が飛んでくる。


「……言われなくても。そんなヤワじゃないよ」


「はっ、さっきから肩に力入りすぎや。ガチガチの鉄板背負わされてる気分やわ」


「うるさいな……」


前を行く背中が、わずかに揺れて笑った。


そのまま会話は途切れ、エンジン音だけが夜の静寂に溶けていく。


やがて、建物の影が消え、視界が唐突に開けた。


黒い海が、重く、ゆっくりと広がっていた。


「着いたで」


エンジンが止まった。

その瞬間、押し寄せてきたのは、心臓の鼓動すら飲み込むような波の音だった。


「……ここ、やっぱ落ち着くなあ」


颯太が大きく伸びをしながら、ヘルメットを脱ぐ。


僕はすぐには降りられず、ただ海を見ていた。


光を吸い込んで、何も返さない黒い水面。

寄せて、返す、永遠に続くかのような単調な律動。


ここは、僕たちが——僕と颯太が、この一年で何度も訪れた場所だ。


「久しぶりって感じでもないね。……一週間ぶりくらい?」


「せやな。お前が煮詰まった時、ここに連れてくるのが俺の日課みたいになっとるしな」


颯太は砂浜へと歩を進めた。

靴が湿った砂に沈み込み、小さな音を立てる。


僕も後に続く。


かつて、ここは直人と通った場所だった。

でもあの日以来、僕はこの海を避けていた。

思い出が痛すぎて、景色が眩しすぎて。


そんな僕を強引にバイクのケツに乗せて、新しい思い出で塗りつぶしてくれたのが颯太だった。


「球技大会のあとから、ようここに来るようになったな。湊」


「……そうかな。ただ、なんとなく」


「その『なんとなく』が、お前の本音なんやろ」


颯太が砂浜に腰を下ろす。

隣を軽く叩かれ、僕は促されるままその横に座った。


「で? どうなん。バスケ」


「……顔は出してるよ。練習に混ざるくらいは」


「ほう。大進歩やんけ」


「まだ、ちゃんと戻るって決めたわけじゃない。……怖いんだ。僕があそこにいていいのか、わからないから」


正直な言葉だった。


あの日、すべてを捨てて逃げ出した僕が、またあのコートで「正しさ」を振りかざす資格があるのか。


だが、颯太はそれを否定しなかった。


「ええやん、それで。無理して戻る場所でもないし、禊のためにやる必要もない。……やのに、行ってるんやろ? 嫌なら近づかんはずのお前が」


「……行ってる。あいつが、うるさいから」


「ほな、それで十分や」


あっさりした声。

それなのに、胸の奥に溜まっていた重みが、少しだけ軽くなる。


「久瀬とも、ちゃんと話したんやろ?」


「……最悪だったよ」


即答だった。

颯太が、今日一番の大きな声で吹き出した。


「ははは! あの最後の試合は傑作やったな。あいつの顔、見たことないくらい必死やった」


「……本当、ムカつく男だよ。何もわかってない。僕がどれだけ汚くて、どれだけ最低な考えでみんなと接してきたか……。それなのに、全部無視して踏み込んでくる。ずるいよ、あんなの」


砂を強く握りしめる。


「……でも、悪くなかった。不思議と」


自分でも驚くほど、素直な響きだった。


風が強くなる。

僕は喉元まで出かかった問いを、こらえきれずに漏らした。


「……なんで、あいつなんだろ。なんで、あいつじゃなきゃダメだったんだ」


──いや。


わざわざ、直人なんだ。


他にもやり方なんていくらでもあったはずだ。なのに、直人は僕の心の最も柔らかい場所を土足で、全力で蹴り飛ばしてきた。


颯太は少し黙ってから、海を見つめたまま口を開いた。


「実はな、一回だけやけど久瀬のやつ、ここに連れ出したことがあんねや」


「……え?」


「お前の過去を知りたいって必死な顔しとるから、ちょっと試してやったんや」


初耳だった。

颯太が、僕の知らないところで直人と会っていたなんて。


「あの時な……久瀬のやつ、こう言うたんや。

『救うなんて大それたことは言わない。でも、俺が知らなきゃ進めない。あいつが何を抱えてるのか知るのが、俺の役目だ』ってな」


心臓が大きく跳ねた。


あの時、僕が直人を拒絶し、冷たく突き放していたあの時期に。あいつは、そんな顔をして僕のことを見ていたのか。


「あいつ、最後にこう言って去ってったわ。『俺は、もう外側にはいない』ってな」


「外側……か」


「その言葉通りやったろ? あいつ、お前の心のど真ん中に突っ込んできよった」


「……馬鹿なだけよ。本当に」


「せやな。でも、その馬鹿さ加減が、今の『笑えんようになったお前』には必要やったんやろ」


颯太は自分の膝を軽く叩き、懐かしそうに目を細めた。


「湊、お前は昔から優しすぎるんや。自分が正しくあろうとすればするほど、誰かを傷つけるんが怖くて、結局自分を一番深く傷つけてまう」


言葉の一つ一つが溶け込むように、海の底へと沈んでいく太陽と同化する。


「……でもな、久瀬は違った。あいつはお前が傷つくことも、自分が嫌われることも恐れんと、お前の『本心』を信じようとした」


視界が、急に滲んだ。


誰も救えなかったと思っていた。

僕の存在が、みんなを壊したのだと。


自責という名の檻に閉じこもっていた僕を、直人は「ずるい」という一言で、強制的に外へ連れ出してくれたんだ。


「ただな」


颯太はそこで一度、言葉を切った。


「……正直、ちょっと悔しかったわ」


「え?」


「俺はずっと、“今のお前”を壊さんように隣おったんや。でも久瀬のやつは、壊れるかもしれんのに踏み込んだ」


波が、ざあっと砂浜を撫でる。


「お前の心をこじ開けるんは、多分ああいう馬鹿なんやろなって。ちょっと思ってもうた」


冗談めかして笑う。

けれどその横顔には、置いていかれたような寂しさがほんの少しだけ滲んでいた。


「……颯太。なんで君は僕をここに連れてくるの。あいつとの思い出がある場所だって、知ってるだろ」


「そら、ここやとお前がよう喋るからや」


「僕が? まさか」


「普段は仮面被って、誰に対しても完璧な『黒羽湊』演じとるやろ。でも、ここやとちょっとだけ本音、漏れとるで?」


無意識だろうか。

そんなつもりはなかったのに。


「お前のこと、俺は半分も知らんわ。去年の夏に何があったか、どんな顔して三人と別れたか」


颯太はいつにも増して、寂しそうな瞳をしていた。

それ以上に、優しい笑みを伴って。


「……でもな、湊。知らんでも、横におることはできる。久瀬みたいに体当たりはできへんけど、バイクの後ろに乗っけて、風に当てることくらいはできるやろ」


波の音が、心地よく響く。

あの日、捨てたはずの続きを、僕は今、この場所で見つめ直している。


「……颯太」


「ん?」


「ありがと。……本当、救われてるよ」


少しの間。夜の風が僕たちの間を抜けていく。


「……気持ち悪いこと言うなや。キャラ崩壊しとるぞ」


「ひどいな。本心なんだけど」


「当たり前や。照れるやろ」


ふっと笑い合う。


その空気は、直人といた時の熱量とは違うけれど、今の僕にはたまらなく愛おしいものだった。


「それとな」


ふと、颯太は立ち上がり、遠くの水面を見つめると。


「久瀬だけじゃないやろ?」


その言葉の意味を僕は瞬時に感じ取った。


去年の夏、強引に別れを切り出した相手。

今年の夏、謙虚にこれまでを肯定してくれた相手。


『バスケをしてる黒羽くんが好きだった』


そっかと言えなかったあの時から、僕はずっと──


「ああ」


多くを語らずとも、僕はその一瞬の首肯で合図を送った。


するとすぐに颯太は「はぁ」と嬉しそうに息を吐いて。


「ほな帰るで。これ以上おると、マジで補導されるわ。俺、これでも内申点は気にしとるんや」


「帰宅部のくせに、真面目だね」


「帰宅部やからこそ、守らなあかんプライドがあるんや!」


杉山がヘルメットを投げ寄こす。

僕はそれを片手で受け止め、バイクへと戻った。


「落ちんなよ」


「だから、落ちないって。……でも、もし落ちそうになったら、その時はまた頼むよ」


エンジンが力強く咆哮を上げる。

走り出す直前、僕は一度だけ、海を振り返った。


暗闇に沈む水面は、相変わらず何も答えてはくれない。

けれどもう、鏡を見るような不気味さはなかった。


「……楓」


呟きは、加速するバイクの轟音にかき消された。


夜の風は冷たい。

けれど、背中から伝わる颯太の体温が、確かに僕をこの世界に繋ぎ止めていた。

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