20話 あの日の続きを、今ここで
残り十秒。
体育館中の熱気が、一点の火種に収束するようにコートへと吸い寄せられていた。
バッシュが床を鳴らす悲鳴。
肺を焼くような、鉄錆の味。
歓声すらも、今は鼓膜を素通りしていく。
スコアは一点差。
湊のクラスがリードしていた。
俺の膝は、とっくに限界を超えて笑っていた。
視界の端には白い火花が散り、汗は滝のように流れてくる。
それでも。
目の前の男だけは、網膜に深く、残酷なほど鮮明に焼き付いていた。
黒羽湊。
額から滴る汗を拭うこともせず、あいつは低い姿勢でボールを突いている。
その姿は相変わらず、無駄を削ぎ落としたしなやかな動き。
だが、激しく上下する肩。乱れた呼吸。
張り付いた前髪の奥で見開かれた瞳。
俺と同じように、あいつもまた人間らしく苦しんでいた。
それがどうしようもなく、誇らしくて、嬉しかった。
「久瀬! 止めろ、死んでも止めろぉ!」
背後からクラスメイトの絶叫が飛ぶ。
うるせえよ、と俺は心の中で毒づく。
外野の勝敗なんて知るか。
このひと時だけは、世界で俺と湊、二人だけのものだ。
湊がドリブルの速度を上げないまま、唇を動かした。
「……ねえ、直人」
「なんだよ。お喋りしてる余裕、あんのか」
掠れた声。まともな発声にすらならない。
湊は視線を逸らさず、ぽつりと核を落とした。
「あの日」
ドリブル。床を叩く衝撃が、鼓膜を揺らす。
「なんで、あんなこと言ったの」
一瞬。
体育館の雑音が真空に吸い込まれるように消えた。
あの日。小学校の卒業式。
湿り気を帯びた春の匂い。桜の蕾。
これから始まる別れを予感して、浮かれたていたクラスメイトの笑い声。
無理して笑っていた湊へ、俺は正義の剣を振るうように言い放った。
『無理して笑うな』と。
何も知らない。何もわかっていない。
ただの傲慢な親友のフリをして。
俺は奥歯が砕けるほど食いしばる。
「……ムカついたからだよ、死ぬほど」
「……え?」
「お前だけが、完璧に笑ってるのが。……みんな寂しくて、終わるのが悲しくて、ぐちゃぐちゃだったのに。お前だけ、まるで何もなかったみたいに綺麗に笑ってて……腹が立ったんだ」
呼吸が苦しい。肺が潰れそうだ。
でも、この言葉だけは、今日ここで吐き出さなきゃならない。
「お前だけ平気そうにしてるのが……ずるいなって、思ったんだよ」
沈黙。
湊はほんの少し、吸い込まれるように目を見開いた。
「……ははっ」
不意に、湊の口元が綻ぶ。
「そういうところ、本当……昔から最低なんだよ、直人」
その笑い顔を、俺は何年ぶりに見ただろうか。
他人のための仮面じゃない。心の奥底から溢れ出た、泥臭いほどに純粋な笑顔。
次の瞬間。
湊の身体が爆発的な初動で爆ぜた。
速い。
右への鋭い踏み込み。反射的に身体を投げ出すが、それすらもフェイントだ。
逆方向へ切り返され、俺の身体は無慈避に置き去りにされる。
「っ……!」
追う。
脚の筋肉が千切れてでも、俺は背中を追う。
だが伸ばした指先は空を切り、湊の影にすら届かない。
湊が跳んだ。
重力から解き放たれたように、ふわりと体が浮き上がる。
指先から放たれたボールは、静かにリングの中へ吸い込まれた。
ネットを揺らす、乾いた音。
それと同時に、終わりを告げるブザーが体育館中に鳴り響いた。
試合終了。
俺はその場に、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
「……っは、はは……。あー、クソ」
負けた。完敗だ。
実力差なんてわかっていた。
でも実際に完璧に叩きつけられると、めちゃくちゃ悔しい。
「直人」
見上げると、逆光の中に湊が立っていた。
差し出された手。
昔、何度も何度も見た、俺を引き上げてくれた手。
「立てよ」
「……偉そうに」
俺は笑って、その手を強く掴んだ。
ぐい、と力強く引き上げられる。
手のひらを伝う熱。あいつの体温が、俺の中の冷え切っていた時間を溶かしていく。
「……ねえ」
俺が言うより早く、湊が言葉を紡いだ。
少しだけ視線を泳がせ、照れ隠しのような、不器用な表情で。
「僕さ……ずっと、君が怖かった」
「……」
「あの日、笑うのをやめたら、何かが全部壊れてしまいそうで。僕の居場所はどこにもなくなるって、本気で思ってたんだ」
湊の瞳が、わずかに揺れる。
あいつが背負い込んでいる得体の知れない自罰的な思考。決定的なトラウマ。
その深淵にはまだ触れられない。
卒業式までに、何が湊を苦しめていたのか。
それを俺は知ろうともしなかった。いや湊の隠し方が上手いのかもしれない。
けれど、その『淵』の存在を、湊は初めて俺に見せてくれた。
「……今も、まだ怖いよ。笑わない自分なんて、誰が必要としてくれるのか、わからないんだ」
「俺がいるだろ。それに、白咲も、轟木も、青海も。……お前が笑ってなくても、誰も逃げるかよ」
「……根拠のない自信だね」
湊はふっと、鼻で笑った。
「でも……次は逃げないで、直人とちゃんと話すよ。いつか、全部」
その一言。
ようやく届いた。
完璧な仲直りなんて、そんな手垢のついた言葉じゃ足りない。
俺たちはただ数年越しに、ようやく"あの日の続き"を一緒に歩く契約を交わしたんだ。
周囲の喧騒が、遠くの波音のように聞こえる。
湊に肩を貸されながら、コートを出ようとした時、俺の足を止める視線があった。
三人の少女。
黒羽湊という男の過去を分け合い、その破片を今も胸に刺したままの彼女たち。
まず、白咲楓と目が合った。
彼女の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
周囲の期待に苛まれ、努力を正解と信じ、最後には自らの重荷に耐えきれなかった──救いたくても救えなかった恋人。
その湊が今ここで泥にまみれ、俺と低俗な言い合いをしながら笑っている。
心の底から楽しんでいる。
「……よかった」
白咲が小さく、誰にも聞こえないような声で零
した。
慈しむように微笑んで。
隣で、轟木明加里が豪快に鼻を鳴らした。
「ちっ、見苦しいんだよ、二人とも」
口ではそう言いながら、彼女の目は赤く腫れている。
あの夏のことで、いちばん罪悪感を抱えていたのは轟木だ。
良かれと思った言葉が湊を縛り、白咲との最悪な結末を招いてしまった。
俺がいなければ、いや轟木が勇気の決断を下さなければ、この後悔は永遠に続くことになっただろう。
彼女の握りしめた拳は、どこか吹っ切れたように震えが止まっていた。
「久瀬……お前、後で表出ろ。一発殴らせなきゃ気が済まねぇわ」
「勘弁してくれよ」
笑いながら答えると、轟木もまた不器用な牙を見せて笑った。
そして。
コートの端。西日の影が最も深く落ちる場所に、青海みなもが立っていた。
彼女は、動かなかった。
白咲のように泣くことも、轟木のように笑うこともなく、ただ静かに、湊のを見つめていた。
彼女が湊に提供していた「逃げ場」は今、俺によって粉々に破壊された。
湊を「支配」することでしか自分を保てなかった彼女にとって、この光景は世界の終わりにも等しいはずだ。
青海と目が合う。
彼女の瞳には、まだ深い拒絶と、俺への隠しきれない敵意が混じっている。
だが、その奥底に。
湊が初めて「自分の意志」で歩き出したことへの、ほんのわずかな安堵が混じっているのを俺は見逃さなかった。
「……最悪です。先輩」
青海が口を開く。
その声は氷のように冷たいが、どこか透明だった。
「湊くんが普通の顔をして笑う世界なんて、私は一度も望んでなかった。……だから」
彼女は俺に背を向ける。
その小さな背中が、夕陽に溶けていく。
「湊くんが『死にたくない』って思っても……私、認めませんから」
彼女の未練も、まだ晴れてはいない。
三人のなかで、最も深く暗い傷を負っているのは間違いなく彼女だ。
これからも彼女は湊の影を追い、俺を呪い、自分の居場所を探して彷徨うだろう。
青海が愛したのは"今"の湊だ。
けれど、それでいい。
俺がやったのは湊を引き戻しただけだ。
一人で抱え込む場所から、巻き込んで傷つけ合う俺たちの側へ。
なら逃げない。
あいつも、あいつを囲む三人からも。
それが"わがまま"の対価だ。
「……直人? どうしたのさ、急に黙り込んで」
「いや。……これから、めちゃくちゃ面倒なことになるなと思ってさ」
「は? 今更でしょ。直人が始めたことじゃないか」
湊が呆れたように笑う。
その笑顔は、体育館の入り口から差し込む強烈な夕陽に照らされて、白飛びするほどに輝いていた。
「……ああ、そうだったな」
俺たちは歩き出す。
重いバッシュの音。汗ばんだユニフォーム。
まだ熱を持ったままの、夏の始まりの空気。
ふと振り返ると、体育館の影から三人の少女たちがそれぞれの歩調で歩き出していた。
白咲は空を仰ぎ、轟木は前を睨み。
青海は俯きながら、頭の鉢巻を取り握り潰した。
彼女たちの物語もまた、ここで終わるわけではない。
湊が隠していた「あの夏」の真実。
無理して笑った、その背景。
俺のまだまだ知らない感情。
前途多難。お先真っ暗。
けれど。
「湊」
「ん?」
「まだまだ無理させるからな。覚悟しとけよ」
「……はは、言ったね」
俺たちは、もう目を逸らさない。
痛みも、後悔も、愛も、憎しみも。
全部を抱えたまま、どこまでも続くこの長い夏を走り抜けてやる。
体育館の扉を開けると、そこには世界を燃やすような黄金色の夕焼けが広がっていた。
止まっていた時計の針が、騒がしい音を立てて、俺たちの新しい時間を刻み始める。
もう誰も、笑って誤魔化したりはしない。
「──白咲」
俺は呼び止める。
静謐な黒髪が揺れて、彼女の背中が反転する。
「後は任せた」
それだけを告げると、白咲の頬に残った涙の跡が。
一筋、煌めいた。




