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19話 選び取る痛み


ジャンプボールが弾けた瞬間、世界は耳障りな音の奔流に飲み込まれた。


バッシュが床を咬む悲鳴。

肺の奥から絞り出される歓声。

心臓を裏側から叩くような、太い鼓動。


その狂騒の真ん中で――俺の瞳孔にはただ一人、湊だけが鮮明に焼き付いていた。


「……っ」


ボールは味方の手に落ちる。

だが、俺も湊も動かない。


一瞬の視線交差。

懐かしさなんてない。親しみもない。


互いを、今この場で越えるべき壁として見据える目だ。


こいつも逃げる気はない。

俺という『過去』を力でねじ伏せるつもりだ。


「久瀬! 戻れって、持ち場が違うだろ!」


味方の声が飛ぶ。

聞こえてはいたが、意味までは届かない。


今さら点差や作戦なんてどうでもいい。

俺はあいつの瞳の奥に閉じ込められたその正体を、引きずり出すためにここにいる。


ボールが、湊の手に渡った。

ドリブル一回。低く、鋭く、床を穿つ衝撃音。


「……来いよ。直人」


誘うような声。

怒りでも挑発でもない。


ただ近づく者すべてを拒む冷たさだけがあった。


俺は一歩、土足で踏み込んだ。


最初の接触。

肩と肩がぶつかる。重心を奪われかけ膝が軋む。


だが、引くという選択肢は捨ててきた。


「なんで、今さら来たんだよ」


ドリブルの合間に湊が吐き捨てる。

それはまるで毒のように耳に回って。


「放っておいてくれれば、全部綺麗に消えたのに」


「消させるかよ」


食らいついて前へ出る。


「お前が無理して笑ったあの日から、俺の時計は止まったままだ」


一瞬のフェイント。視界から湊が消えかける。


反射で身体をねじ込み、ユニフォームが擦れるほどの距離で食らいつく。


「邪魔なんだよ、君は……いつも、いつも!」


湊がさらに踏み込んでくる。

速い。軽い。無駄がない。


それなのに、その動きには『必死さ』という人間らしい醜悪さが欠けていた。


「昔からずっと……僕が隠したいところばっかり見つけてきてさ」


「だったら隠すなよ」


湊の目が揺れる。

一瞬、ドリブルのリズムが狂う。


「なんでお前はそうやって……!」


「……逃げてるだけだろ、湊」


一拍の静止。僅かな亀裂。


次の瞬間、鋭く抜かれた。


歓声が上がる。

レイアップへ向かう軌道。


だが追いすがり、最後に指先でわずかに触れる。


ボールがリングに弾かれ、外れた。


「……っ!」


湊が低く呻く。


即座にボールを拾い直した湊の手が、白くなるほど強く――左腕を掴んだ。あの、逃避の癖だ。


「……やめろ」


地を這うような低い声。

それは警告であり、哀願だった。


それでも俺は、息を切らしながら真正面に立つ。


「やめるかよ。お前が無理して笑ってた理由を、その口から吐くまではな」


西日が湊の横顔を真っ二つに割り、深い影を作る。

その影は、あの日見た桜の下の絶望と重なった。


「直人に何がわかる。何も失わず、安全な場所から手を伸ばすお前に……!」


「わかるかよ! だから来たんだ。湊が一人で守ってるつもりのその『何か』を、粉々にしにな!」


湊の瞳が揺れる。

氷の裂け目から、剥き出しの傷口が覗いた。


「ふざけんなよ……!」


一気に距離を詰められる。暴力的なまでの突破力。

怒りに歪む湊の顔は、どこか泣きそうな子供のようだった。


「お前は、壊して逃げた側だろ!!」


叫びが、俺の胸に鉛の弾丸となって着弾した。


小学校の卒業式。

俺の正義感が湊の最後の防衛線を引き裂いた事実。


足が、止まりかける。


「逃げてんのは湊だろ! お前が勝手に終わらせたままにするな!」


その言葉に湊の顔色が変わる。


「勝手に……だって?」


掠れた声だった。

言い返された言葉が、俺の足を縛り付ける。


「直人が言うんだ、それ」


胸が痛む。それでも目を逸らさない。


「ああ。お前を壊した側の、俺が言う」


湊の瞳が見開かれた。


怒りとも悲しみともつかない感情が、一気にあふれそうになる。


──その時。

沈黙しきったコートに、ひび割れた水のような冷たい声が落ちた。


「……違う」


全員の視線が、サイドラインへ吸い寄せられる。


青海だった。


いつもの派手な笑顔も、男をからかう軽薄さも、そこにはない。

何かに耐えきれなくなった人間の顔で、湊だけを見つめていた。


「……青海?」


俺は思わず声を漏らす。


青海はふらつく足取りのまま、白線を踏み越えた。

審判の制止も、周囲のざわめきも耳に入っていない。


「湊くん……そんなの違いますよ」


か細い声だった。

けれど、静まり返った体育館には痛いほど響いた。


「それは戻ろとしてるんじゃない。……また、無理してるだけです」


湊の眉がわずかに寄る。


「みなも……。戻ってくれ、今は試合中だ」


「いやです」


即答だった。

その一言に、今まで押し殺してきた感情が全部滲んでいた。


「なんで勝手に、一人で行こうとしてるんですか」


湊が顔を背ける。

その微かな拒絶に、青海の瞳が歪んだ。


「どういうことだよ、青海……。お前が俺に」


「私が先輩に言ったんですよね、たまにはわがままになったらどうかって」


俺を見るでもなく、青海は言う。


「湊くんが、ちゃんと笑えるようになってほしかったから。……本気で、そう思ってました」


そこで言葉が切れた。

唇が震える。


「……でも」


無理やり笑おうとして、失敗した顔だった。


「気づいちゃいました」


青海は両手を胸の前で握りしめる。

爪が食い込むほど、強く。


その先を言わない方が良いとわかっていたから。


「壊れてる湊くんの方が……私にとって都合がよかったってこと」


空気が、凍る。


「だってあの時の湊くんは――私を必要としてくれたんですから」


歪んだ、あまりにも醜い、愛の告白。


「みなも、君は……」


湊が言葉を失う。


青海は自分の胸をかきむしるように、震える指先を湊へ伸ばした。


「そのままでいいって、言ったじゃないですか」


青海は一歩、また一歩と近づく。


「もう頑張らなくていい、無理しなくていい。二人でずっと暗いところに居ようって」


その声は責めるようで、泣き縋るようでもあった。


俺の耳に、その言葉がザラリとした違和感として残る。


(暗いところ? 二人で? ……俺の知らない間に、こいつらどこまで……)


俺すらも置いていかれるような、閉鎖的な「二人だけの時間」の残滓。


「私だけがわかってあげられるって、そう思ってたのに」


伸ばしかけた手が、途中で止まる。

届かないと悟ってしまったように握りしめた。


「ボロボロの湊くんは、私がいなと息ができないくらいダメだったのに」


震える唇から、止められない本音が零れていく。


誰かが息を呑む音がした。


「私だけ見てればよかったのに」


嫉妬。執着。そして、置いていかれることへの恐怖。


それを隠す言葉は、もう残っていなかった。


「湊くんが幸せになるのは、嬉しいんですよ……?」


声が崩れる。


「でも、私の知らないところで、私のいない理由で前を向かれるのは……無理」


喉の奥から絞り出すように、青海は叫んだ。


「嫌なんです!」


「……っ」


「くぜ先輩が来て、白咲先輩が来て、みんなで湊くんを戻そうとして」


肩が震える。


「じゃあ私って……何だったんですか」


その一言だけは、少女そのものだった。


強がりも計算もない。

置き去りにされた人間の、裸の悲鳴だった。


「私、初めて必要とされたんです」


青海は泣きながら笑う。


「不幸せなくせに、あの時だけ……すごく満たされてた」


俺は何も言えなかった。


正しさだけで切れる感情じゃない。

これは、「恋人」という記号以上のもっと、誰かを救った副作用として生まれた依存だ。


「お願いです湊くん。……行かないで」


もはや彼女の叫びは理屈ではない。

自分を置いていかないでほしいと願う迷子の泣き声だった。


湊の瞳が、その甘い毒に誘われるように、青海の方へと傾いた。


「……やめろ、みなも。それは……」


湊の声が弱まる。壊れたままでいいという、楽な地獄への誘惑。

だが、俺はそれを許さない。


「違うだろ、青海」


俺は一歩踏み出す。


「それは優しさじゃない」


青海が俺を睨む。

涙でぐしゃぐしゃの目だった。


「一緒に沈みたいだけだ」


「……っ、うるさいです!」


悲鳴のような声だった。


「先輩に、何がわかるんですか!」


「わかるかよ」


俺は即答した。


「でも、湊がここで止まりたいわけじゃないことくらいはわかる」


青海の呼吸が止まる。


湊はずっと黙っていた。

青海の涙も、叫びも、全部受け止めるように。


やがて、静かに口を開く。

湊は青海の震える指先を見つめ、それから俺を見た。


「……最悪だね。どいつもこいつも、僕の勝手にはさせてくれない」


湊が自嘲気味に笑う。それは『無理な笑顔』ではない。

自分の不甲斐なさを呪う、生々しい人間の表情。


「……ごめん、みなも」


湊がボールを、自分自身を律するように強く握る。


「君が隣にいてくれたから、僕は今日まで死なずに済んだ。それは、本当だ」


湊の視線が、再び俺を射抜く。


「でも、直人が……最悪なタイミングで、最悪な言葉をぶつけてきた。……もう、自分を騙せないよ」


意を決した表情で、湊はニヤリと笑う。

まるで少年のような無邪気さで。


「どうやら僕は、こいつに叩き潰されたいみたいなんだ」


湊は一歩、青海から離れる。

それは「居心地の良い地獄」への決別であり、彼女の愛を裏切るという、湊なりの誠実な残酷さだった。


「……そうですか」


声にならない声。

力なく笑って、青海は目元を触った。


「私、助けたかったのに……沈めたかったんですね」


青海はその場に立ち尽くした。


泣きながら、何度も頷く。

否定したいのに、できないみたいに。


俺の背中を力強く叩いた自分に、今の自分が殺される。

そんな、やりきれない青春の痛みが、彼女の頬を濡らしていた。


「当たり前だ。俺のわがままに付き合えって言っただろ、"元親友”」


「……ああ、そうだね。直人」


「来いよ。……あの日の続きだ」


審判の笛が鳴る。

再開の合図。


湊の一歩は、もう機械的な摩耗ではない。

俺を正面から砕くための重厚な一歩。


俺もまた、地を蹴る。


空中で交錯する二人の影。

西日に照らされたボールが、運命の核のようにオレンジ色に燃え上がっていた。


この一撃で、全部を――選び取る。

それが、どんな痛みを伴おうとしても。

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