18話 もらった勇気で
俺は固唾を呑んで見守っていた。
女子バレー決勝、最終セット。
体育館の空気は熱気というよりも、息苦しさを帯びた湿り気で満ちていた。
「……っ、上がれえぇッ!!」
轟木の一声が歓声を裂き、床に響いた。
午前中の影のような動きはもうどこにもない。今のあいつはただ勝つために、全身を燃やしている。
白咲のレシーブが乱れ、誰もが諦めたボールに対して、轟木は迷いなく飛び込んだ。
硬い床に剥き出しの膝を打ち付ける嫌な音。
それでも指先一枚でボールを拾い上げる。
「決めてくれ……白咲っ!」
その叫びは願いじゃない。
自分を縛ってきた過去を振り払うための、必死の足掻きだった。
試合終了のホイッスルが鳴る。
見事、クラスの女子は優勝を勝ち取った。
勝敗が決した直後、轟木はその場に崩れ落ちた。勝利の歓喜も、チームメイトの労いも、耳には全く届いていないようだった。
肩を激しく上下させ、滴る汗が床に小さな水たまりを作る。
「轟木さん……立てる?」
白咲が震える足で側に歩み寄る。
その瞳にはかつてないほどの心配と、隠しきれない期待感までもが混在していた。
「気にすんな。自分で立てる」
白咲の声に応えるように、轟木は腰を上げる。
擦りむいた膝。赤く腫れた腕。額に張り付いた金髪。
晴れやかな笑顔はなかった。
ぐちゃぐちゃに歪んだ泣き顔よりも酷い、後悔の塊が白咲を捉えていた。
「午前はてんでダメだったからな。汚名返上ってやつだ」
「だからと言って、無理しすぎよ」
白く可憐な指先が、さらりと前髪を分ける。
「おでこ、赤くなってるわ。先生呼んでくるから――」
「待てっ!」
轟木は強引に白咲の手を掴んだ。
噛み締めた歯とは裏腹に、頼りなく足は震えていた。
「行くな……白咲。謝りたいことがある」
轟木の手は這いずるように、次は白咲の体操服の袖を掴む。
震える指先が、白い布を汚していく。
それは美しい優勝シーンじゃなかった。
泥沼に沈む者が必死で這い上がろうとする、生々しい『告白』だった。
「あたしがあの夏、黒羽に……あんなこと言わなきゃ!」
言いかけて、轟木の唇が止まる。
言えば終わる気がする恐怖と、言わなければ前へ進めない焦燥が、胸の奥で絡まっていた。
保身に走れば、このまま掘り返さなければ。
今でも白咲は十分優しいのに、また気を遣わせてしまったら。
そのような不安が、くしゃりと音を立てて指先に力を籠めさせた。
反復する複雑な想いが、どっちつかずに右へ左へ動く。止まってくれと願いながらも、心臓はバクバクと鳴り続けて――。
それを断ち切ったのは。
「大丈夫だから」
──ぽとり。晴れ間に落ちる、一粒の雨のような声。
「私もずっと、轟木さんとちゃんと話したかったから」
白咲はまっすぐに目を合わせる。
蔑みも憐れみもない。友達としてただ"話したい”という意志だけがあった。
柔らかすぎる微笑みが、迷っていた轟木の背中を押した。
「……白咲」
轟木は一瞬だけ目を伏せた。
そして。
「ごめん!」
まるで組長に部下が謝る時のような姿勢で、勢いよく頭を下げた。
強気な声が、初めて子供のように裏返る。
「一度じゃない、二度もだ。去年の夏も、今も、全部の責任を白咲に押し付けちまった。白咲の優しさが……殺したいほど怖かったんだ」
轟木の声は、喉を掻きむしるような嗚咽へと変わった。
白咲は掴まれた裾を見つめたまま立ち尽くしていた。
やがて白咲はゆっくりとその手を握り、自分も轟木と同じような苦しさを伴った顔で。
「もういいのよ」
「え?」
「過去の事は変えられないけど、私は全部の責任を押し付けられたなんて、思ってないわ」
「でも……あたしのせいで」
「誰かのせいでもない。私たち……二人とも臆病だっただけよ」
白咲の声は震える轟木の肩を優しく、けれど拒絶を許さない強さで包みこんだ。
「謝罪なんていらない。それよりも、また前を向こうとしている黒羽くんを支えなきゃ」
白咲が轟木の埃を拭うように、その手を強く握り返す。
「次は間違えないように、ね?」
「……白咲、お前は本当に……」
轟木は顔を上げ、鼻を大きくすすった。
泣き腫らした目。汗と涙にまみれた顔。
だがそこには、過去に怯えていた少女の面影はなかった。
「そうだな。あたしも、もう逃げねぇ。黒羽のことも、白咲のことも、今度は守ってやれるでけぇ女になってやる。もちろん、最高に魅力的にな!」
弾けた涙が燦然と輝きながら、轟木は力強いグーサインを見せた。
「あたしの特大の背中に、ついてこい白咲」
「じゃあ百キロは担げるようにしないとね」
「物理的に!?」
お互いを認め合ったかのように、体育館には綺麗な笑い声が響いた。
その光景――ボロボロになりながらも、地獄から這い上がって隣り合う二人の背中を見て、俺の胸の奥で何かがパチン、と弾けた。
「轟木……見せてもらったぞ、お前の背中」
頬を思いっきり叩く。
隣にいたクラスメイトが驚くぐらいの気合の入りよう。
「その勇気、利用させてもらうからな」
次は男子バスケの決勝戦だ。
俺は踏ん切りの着いた足取りで、クラスの輪を離れた。目指すは反対側のコートだ。
試合間の移動で、体育館の一角は一時的に人が途切れている。
この数分だけが、湊と二人きりになれる唯一の時間だった。
湊は騒乱から遮断されたかのように、一人で淡々とアップをしている。
俺がラインを跨いだ瞬間、空気が鋭く張りつめた。
「まともに話すのは、俺にあの三人との関わりを辞めろと言われた以来だな、湊」
湊の手から放たれたボールがリングを叩き、乾いた音を立てて床を転がっていく。
そのボールを追うことはせず、ゆっくりとこちらを向いた。
「……直人」
湊の表情は驚くほど動かなかった。
戸惑いも、怒りも、再会の喜びも、そこには一切存在しない。
不純物のない透明な水を湛えたような瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いている。
だが湊が決まって感情を押し殺す時、頬を触る癖は見えない。代わりに左腕を静かに、逃さないように強く掴んでいた。
他人から見れば冷静な拒絶にしか見えないだろう。だが俺だけは知っている。
湊が内側で悲鳴を上げている時の、唯一の『叫び』であることを。
「何の用? もうすぐ男子の試合が始まるけど」
湊の声はとても平坦で低かった。
感情の起伏を完全に削ぎ落とした、絶対的な拒絶。
俺も湊も、直接過去のことは触れない。
それなのに、あの時のような風景がここ一帯に広がっているような気がした。
桜の蕾の匂い。温かな春風。卒業に浮かれた友達の笑い声。
「久々に話したいと思ってな」
小学校の卒業式、湊の『無理して笑った顔』を、俺は正義感という名の傲慢で叩き壊した。
それまでの経緯や気持ちに寄り添うこともせず、ただただ無垢に。
「……湊、あの日の俺も、こうしてお前の逃げ場を奪ってたのかもな」
湊の視線がぴくりと動く。
怒鳴らない。泣かない。
ただ、俺の存在そのものが負荷になっているのを感じた。
「いつもいらないことしやがってって、思ってるよな」
「……まぁね。あの三人のことは特に」
揺れ動きながら、徹底した「無」の態度にかえって肺が圧迫される。
「俺なりの罪滅ぼしのつもりなんだ。お前が笑うことで守っていたものを、俺が壊した。その罪を忘れた日は一度もない」
俺は止まらない。
湊の瞳が一瞬だけ、極小の波紋を描いた。
一歩。また一歩。
土足で湊の領域を蹂躙する。
掴んだ腕の指先に一段と力が籠もった。
「罪滅ぼしだと言うのなら、止めてほしいんだけど。僕は直人のためを思って言ってるんだ」
「俺を巻き込みたくないんだったな。でも理由は言ってくれないんだろ?」
湊が少しだけ目を細め、憐れむような色を浮かべてから。
「言ったら全部終わる。これ以上は……本当に危ない」
瞳の奥に深い、底の見えない虚無が覗く。
だが今の俺にはそんなもの、通用しない。
「知るかよ」
これまでの俺なら、その警告に足を止めていただろう。
そうやって防衛戦を張られてきたから、俺は間違えた。湊の本当の意志に気づくことができなかった。
だったら突き破るだけだ。それ以外の方法は辞書から消した。
轟木からもらった勇気で、拒絶を拒絶する。
「悪いな湊。俺はもう、お前に『無理するな』なんて言わない」
「……何を言って」
「死ぬ気で無理をしろ。壊れたままでいいなんて、一言も認めない」
湊の感情が一瞬だけ浮かぶ――驚き、戸惑い、怒り。
そしてその全てを押し固めたような沈黙。
「俺はただお前を救いたいわけじゃない」
俺は自分の醜い私情を、湊の至近距離で強引に叩きつけた。
「この試合で完膚なきまでに叩き潰して、"あの日の続き"を始めたいだけだ」
湊は答えない。
だが、噛み締めた唇が震え、喉仏が一度だけ上下した。
その瞬間、感情が溶ける音がした。
「俺のわがままに付き合えよ。"元親友”」
初めて、湊に熱が宿る。
それはこれまで見せてきた透明な絶望ではない。俺に対するどろりとした、生々しい憤怒の灯火だ。
湊は足元のボールを拾い、俺の胸へ無言のまま強く投げつけた。
言葉よりも雄弁な、掌が痺れるほどの重いパス。愚弄した者に対するわかりやすいほどの
「受けて立つ」という、挑戦の意志が籠もった弾丸。
いよいよ、試合が始まる。
審判の生徒が困惑したように顔を見合わせながらも、コートの中央へと歩み寄る。
「……おい、なんだあの空気」
「久瀬と黒羽、あいつら知り合いだったのか?」 「喧嘩でも始めるんじゃねーの、これ」
観客席から波紋のようにざわめきが広がる。
かつてのエースと、得体の知れない「元親友」の対峙。野次馬的な期待と不穏な予感が、体育館の湿度をいっそう跳ね上げていた。
だが、コートの端で立ち尽くす二人の少女だけは違った。
白咲は祈るように胸の前で指を組み、震える吐息を押し殺して湊の背中を見つめている。
その瞳には、自分の告白すら届かなかった場所へ、土足で踏み込んでいった俺への危うい期待が宿っていた。
隣に立つ轟木は、腫れた膝を隠すこともせず、獰猛な眼光で俺たちの衝突を射抜いている。
声にならない咆哮が、彼女の固く握られた拳から伝わってくるようだった。
周囲の雑音は、もう俺の耳には届かない。
ジャンプボールのセンターライン。
俺と湊を隔てるその細い白線は、今や世界を二つに別ける境界のようだった。
「久瀬のやつ、気負ってねぇか? バスケの経験はあるみてぇだけど」
轟木の不安に対して、白咲が静かに首を振る。
「……違うわ。そんなんじゃない」
「え?」
「あれは黒羽くんに――」
全校生徒の見守る喧騒が、一点に収束していく。
審判がボールを高く、高く放り投げた。
空中に浮かんだオレンジ色の球体が、スローモーションのように視界を支配する。
俺と湊の手が、同時に高く、空へと伸びた。
「答えさせようとしてるのよ。"無理して笑った”、その理由を」
その一撃が、止まっていた時計の針を粉々に砕き、新しい時を刻み始めた。




