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17話 最低なわがまま


湊に会いたい。湊と喋りたい。

いきなりじゃなくていい。

他愛のない会話から、また自然と腹を割れる距離に戻れたら――。

 

そんな願いを胸に体育館へ駆け戻ると、心臓が嫌な跳ね方をした。

 

熱気と喧騒。

その中心、コートの上で躍動する湊と、目が合ったような気がしたから。

 

一瞬、世界から切り離され、音が消える。

 

バッシュが床を噛む高い音だけが耳の奥に残り、時間が粘つくように引き伸ばされる。

 

湊の瞳には戸惑いと、それ以上に未だ「拒絶」に近い影。


──ああ、やっぱり何も進んでなかったんだ。

 

白咲が勇気を出して想いを伝えても、轟木が後悔に向き合おうとしても、俺がいくら外側を埋めたとしても。

 

俺と湊の間にある『あの日』の拒絶だけは、指一本触れられずに鎮座していた。

 

逃げ続け、目を逸らして、それでも何気ない日々が過ぎる充足感に満足して。


その結果が招いた停滞は、軽い覚悟ではもう解決できないところにある。


「……結局、俺だけが立ち止まってるんだ」

 

それ以上言葉が出なかった。

一気に思考が真っ白になった。

 

湊が綺麗な弧を描きシュートを決める。

その姿を直視できなかった。

 

不幸にも、鈍い音が隣のコートから響き、意識が現実へ引き戻される。


「っ、ごめん……!」

 

聞き慣れた、けれど酷く焦燥感に浸る声。

轟木だ。

 

女子バレーの予選。

運動神経の塊のようなあいつが、簡単なチャンスボールをあさっての方向に弾き飛ばしていた。

 

顔は林檎のように赤く、膝が小刻みに震えている。

 

原因は明白だ。

同じコートに立つ、白咲の存在。


『試合が終わったら謝る』

その決意が、轟木の取柄だったはずの身体を皮肉にも縛りつけていた。


「ドンマイ、轟木さん。まだ次があるわ」

 

白咲が迷いもなく駆け寄り、聖母のような笑顔で手を差し出す。

 

轟木は躊躇しながらも手を取るが、視線は逃げるように床へと落ちていた。

 

許されること、信じられることが、今のあいつには何よりの毒なのだろう。

 

俺も、同じだ。

 

結果的に女子も決勝へ進出し、俺のクラスは男女ともに決勝戦へ駒を進めるという快挙を果たした。

 

午前中の競技が終了し、解散の号令がかかる。


「湊、ナイシュー! 決勝も頼むぜ!」

 

クラスメイトに囲まれ照れくさそうに、けれど確かに「仲間」として笑う湊の姿が見えた。

 

その光景があまりにも眩しすぎて。


(……今、俺が行ってもいいのか?)

 

一歩踏み出そうとした足が、鉛のように重くなる。

 

今、俺があの輪に入れば、きっと湊はあの卒業式のことを思い出す。

それだけじゃない。去年の夏のことも、また。

 

ようやく手に入れかけ始めている「普通の高校生」の笑顔を、俺という存在が壊してしまうんじゃないか。


「……くそっ」

 

喉の奥が焼けつくように熱い。


俺は湊に声をかけられず、体育館の裏、非常階段の踊り場へと逃げ込んだ。

 

快晴の空に反して、ここだけは薄暗かった。


「はは、みっともない」

 

冷たいコンクリートの壁に背中を預け、荒い息を吐く。

 

情けない。他人のことには首を突っ込むくせに、いざ自分の番になればこれだ。


覚悟が足りない。その一点につきる。


「はぁ……何やってんだよ、あたし」

 

階段の下から、ひび割れた声が聞こえてきた。

 

見下ろすと、そこには轟木が膝を抱えて座り込んでいた。

胸に顔を埋め、肩は上下し、腕には爪が食い込んでいる。


「轟木、奇遇だな」


「……久瀬か。笑いに来たのかよ、あんな無様なプレーしやがってってさ」


「笑えるかよ。俺も逃げてきたんだ」

 

轟木が顔を上げる。

その瞳は涙で潤み、自分を責める色に染まりきっていた。


「白咲が……優しすぎるんだよ。あたしの一言が黒羽を狂わせたのに、露ほども疑わず笑いかけてきやがる」

 

言葉の端々に苛立ちと、やるせなさが滲む。


「……無理だよ。あんな綺麗な顔の前に、あたしの汚ねぇ後悔なんて出せっこない」

 

弱音を吐き出す轟木を見つめながら、俺の脳裏に青海の言葉がフラッシュバックした。


『湊くんのこと、後回しにしてませんか?』

『たまには、わがままになってもいいんじゃないですか?』

 

そうだ。俺は今まで、彼女たちの背中を叩く"物分りのいい傍観者"でいようとしていた。


だがそんな綺麗事じゃ、この分厚い後悔の壁は突破できない。

 

俺は階段を降り、轟木の目の前に立った。

慰めるためじゃない。利用するために。


「だったら、謝るのをやめるか?」


「……っ、そんなわけねぇだろ! でも勇気が出ねぇんだよ! あたしがここで泣き言言おうが、お前には関係ねぇだろ」

 

轟木が怒声を放ちながら俺の手を振り払う。

その瞳には情けない自分を見られた屈辱があった。

 

だが俺は引き下がらない。

今回は背中を押すだけじゃない。


「関係あるんだよ。俺も勇気が欲しいから」

 

優しくも寂しい言い草だった。

轟木には始めて俺が見せた、弱みだったかもしれない。


「そう言いながらも、轟木は必ず逃げないと俺は信じてる。あの帰り道の言葉は嘘じゃないだろ」


「あったりめぇだ。もう二度と同じ後悔はしたくねぇ。たとえそれが許されなくても」

 

よくやらない後悔より、やった後悔の方が良いと言う。それは挑戦した分、美化できるからだ。

 

胸の落としどころが違う。

それは経験してなくてもわかる。


「こうして自分の決めたことに真っ直ぐ悩み、現状に嫌気が差せてるだけ、幾分マシだ。それこそ、勇気を持って向き合おうとしてる証じゃないのか?」


「……わかんねぇよ。お前はいつも、そうやって励ましてくれるから」

 

静かに言葉が沈む。

しかし一瞬綻んだ頬に、俺は胸が痛んだ。

 

今から最低なわがままをすると、決めていたから。


「だからさ、俺にもその勇気を――くれ」

 

俺は轟木の細い肩を強く掴み、無理やり視線を合わさせた。


「は? ……何言ってんだよ。意味わかんねぇし」


「湊が怖いんだ。あいつの隣に立つ資格なんてないと思って、ここに逃げてきた。一人じゃ俺は、一歩も動けない」


「そんなのあたしだって」


「轟木の場所に、俺は辿りつくことすらできてないんだよ! 相談に乗ってた男が、一番不甲斐なかったんだ!」

 

膝が崩れそうになる。

言ってから分かる、自分の邪悪な本心。

 

轟木は呆然と口を開け、それから顔を歪めて吐き捨てた。


「……お前、いつも偉そうに白咲やあたしの背中叩いてたじゃねぇか。今更『自分も怖い』なんて、そんなの卑怯だろ!」


「ああ、卑怯だよ。だからどんな手を使ってでも、湊に関わる理由がほしいんだ」

 

俺は轟木みたいに真っ直ぐじゃない。熱くもない。どこまでいっても自分が可愛い臆病者だ。

 

そんな性格だから、こうするしか俺は動けない。


「俺のわがままに、お前を利用させてくれ」


「利用!?」

 

轟木の声が裏返った。

怒りというより、理解が追いつかないといった困惑。

 

驚きに目を見開く轟木に、俺はなりふり構わず、自分勝手な本音をぶつける。


「お前が先に白咲にぶつかれ。ボロボロになっても、嫌われてもいい。お前が向き合えたら、俺も湊のところへ行ける気がするんだ。お前の戦う姿で、俺を奮い立たせてくれ」


「っ、ふざけるなよ! なんであたしがお前の勇気のために、先に地獄に行かなきゃなんねぇんだよ!」

 

轟木が俺の胸ぐらを掴む。

八重歯を剥き出しにし、今にも殴りかかってきそうな勢い。

 

だが、その拳は顔の寸前で止まっている。震えながら。


「自分一人じゃ行けねぇから、あたしを道連れにするってのか? 最低だよ、久瀬。お前ほんとにかっこ悪いな」


「そうだな。もうかっこつけてる余裕なんて、ないんだよ」

 

俺は真っ直ぐに轟木を見つめ続けた。

 

沈黙が流れる。

非常階段に吹き込む風が、轟木の金髪を乱雑に揺らした。

 

やがて、轟木は力なく俺の胸ぐらを離した。

そして鼻を大きくすすり、自嘲気味に笑った。


「……はは、最低だよ、本当に。でもそんな情けねぇ本音を見せられたら……断われねぇだろ」

 

涙の跡を残したまま、それでも強い目で俺を見る。


「……最悪にフェアだな。お前らしいわ」

 

轟木は乱暴に袖で涙を拭い、立ち上がった。

その瞳からは迷いが消え、代わりに鋭い"共犯者"の光が宿った。


「お前はずるい言い方しかできねぇのか? 思えばあん時もそうだった」

 

相談援助の依頼を一方的に断ったことについて、轟木に謝ったことがある。

その時のことを指しているのだろう。


「お前に頼られるのは正直、悪くねぇ。いいよ、あたしが先に行ってやる」


「……いいのか?」


「一人よりも、二人のほうがまだマシな気がしてきた。久瀬が逃げられねぇように、特大の背中を見せてやる」


「頼もしいな」


「感謝しろよな。……この共犯者が」


轟木はにかっと、いつもの無邪気な笑顔を浮かべた。

けれどその奥には恐怖を乗り越えようとする、今ままで一番強い覚悟が燃えていた。

 

午後の決勝戦。

湊と向き合うために。白咲に許してもらうために。

 

俺たちはそれぞれの地獄へ戻るべく、大きな一歩を踏み出した。

 


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