16話 壊れたままで
体育館に足を踏み入れた瞬間、むっとする熱気と歓声が押し寄せきた。
バッシュの擦れる音。ボールの弾む音。床板が揺れる低い響き。
朝のホームルームではまだ遠かった"球技大会"は、今は肌に纏わりつくほどの現実になっていた。
「今は二年と三年の試合か」
午前は予選、午後が決勝戦。
優勝したら担任が何かくれるという噂のせいで、どのクラスも気合十分だ。
「久瀬! 俺たちも優勝目指そうな!」
「お前はアイスが食いたいだけだろ」
陽気なクラスメイトは笑いながらも、視線だけは好きな女子を追っている。
シュートを決めて、いいとこ見せたいんだったか。
「……俺も、ある意味同じか」
コートの隅、視線は自然と湊のことを探していた。
軽くストレッチをし、鉢巻を巻いて……巻かされたんだろう。それでも背筋がほんの少し、前より伸びている気がする。
沈んだ影はまだ残っている。
ただ呼吸が前を向くためのものに変わっていた。
「二年生、選手交代!」
ホイッスルと共に、満を持して湊がコートに入る。
しかし最初の数分は本調子とは程遠かった。
足は絡まり、パスは取り損ね、シュートも外す。
「焦らなくていい、まずは楽しめ」
そう心の中で呟いた時、背中に声がかかる。
「久瀬くん、もうすぐ出番よ」
白咲だった。
緊張はあるはずなのに、その顔はどこか穏やかで、晴れやかですらある。
「わかってるよ。ただもう少し見ていたい」
「……黒羽くん?」
怪訝な瞳で顔を覗き込まれる。
「まあな。あいつ、迷ってる」
「……私のせい、なのかな」
「逆だ。白咲のおかげで、だ」
白咲の言葉は確かに湊を揺らした。
迷いを抱けるほどには、前を向き始めている。
「本調子じゃないが、見ろよ」
コートに目を戻す。
歓声と動揺を追い風に、湊の動きが一つずつほどけていってるのがわかる。
スティールからの速攻。
そのまま走り抜け軽い助走のまま──ふわりとレイアップが決まる。
その瞬間、体育館の空気が"あ"と変わった。
「笑ってるわね、黒羽くん」
「久々なんじゃないのか? あいつがバスケを楽しんでる姿」
白咲は目を細めて、湊を見つめていた。
優しくて、少し切なくて――あの頃彼を好きだった気持ちがふっと滲むような眼差し。
「女子は隣のコートだったな。後で応援に行くよ」
「ええ、待ってるわ」
邪魔をしないために、その場を離れようとした時だった。
視界の端で、柱に寄りかかる影が揺れた。
青海だった。
*
俺のクラスはなんとか勝ち残り、午後の部へと駒を進めた。
女子も順調で、次勝てば決勝。
そして、湊のクラスもだ。
歓声の中、湊の動きはさらに軽くなっていく。
速い。軽い。迷いがほどけていくようで。
「本気出してなくてあれかよ」
俺は喉の渇きを誤魔化すように、歩き出す。
いや、本当は別の理由があった。
体育館を抜けていく背中を見つけたからだ。
「湊の試合、見なくていいのか? 青海」
給水機の前。
青海が光の消えたような目で水を汲んでいた。
「あ……くぜ先輩」
俺を見るなり、ぱっと表情を明るくする。
巻き髪を揺らし、ネイルを光らせ手を振って。
──でも、全部作り物だ。
「湊くんすごいですね。優勝狙えますよ」
誇らしげに言うが、声が不自然に軽い。
「次、先輩のクラスとですよね? ぼっこぼこにやられちゃってください」
「あのな……ちょっとは応援してくれよ」
「湊くんをですか?」
「俺もだよ!」
ははは、と仕草も表情も男を惑わす、いつもの小悪魔ギャルそのもの。
なのになんだ、この違和感は。
視線が何度も体育館の中へと吸い寄せられている。
「何か考え事してるだろ」
「えっ」
図星だったのか、青海は言葉を詰まらせる。
出しっぱなしになった給水機から、冷たい水が跳ねた。
「別に、そんなこと……ないですけど」
「もう満杯だぞ、それ」
「!?」
慌ててボトルを取り上げて、わざとらしく振って見せる。
その誤魔化しが痛々しいくらいに。
「湊のことなんだろ?」
「……まあ、そうですけど」
青海は息を吐いた。
否定できない沈黙だけが、はっきりしていた。
体育館からまた歓声が上がる。湊が得点したらしい。
「見なくていいのかよ。本当は気になってるだろ」
「……気になりますよ。ずっと、ずっと」
絞り出す小さな声。
ネイルの先を、噛むようにつまむ。
「湊くん、変わってきてますね。しばらく見ないうちに。……まぁ遠目ではずっと追いかけてましたけど」
若干の苛立ちながらも、ほんの僅かな寂しさが混ざる。
少し間を置いて、青海は言った。
「くぜ先輩の、おかげなんですか?」
真っ直ぐな問い。誤魔化しも、上目遣いもない。
「俺だけじゃない。白咲が勇気を──」
そう返した瞬間だった。
言い切る前に、青海の表情がふっと緩み、そして深く沈んだ。
「変わっていくのが……こわいんですよ」
ぽろ、と落ちた声は、涙の一歩手前だった。
「壊れてしまった湊くんが、私にとっての”湊くん”でしたから。私が必要だって思えて、甘やかしてくれて……」
言い切った後、息を止める。
「変わってくの、嬉しいはずなのに……その湊くんがもういなくなっちゃう気がするんです」
言葉はもう抑えがきかず、震えて零れる。
手の甲を握る白い手は、とても力強かった。
「そんなの、複雑じゃないですか……?」
言い終えた瞬間、青海は息を呑み、視線を落とした。肩が震えていた。
これまで一度も見せなかった危うさ。作り物の笑顔も、軽口も、全部剥がれ落ちて。残ったのは、どうしようもない本音だけだった。
遠くから歓声が響く。湊がまた得点したらしい。
でも青海は、見たいくせに、見られない。
その横顔が脆すぎて、胸が締めつけられる。
「……ねぇ、くぜ先輩はどうなんですか?」
「どうって?」
「湊くんのこと」
青海の声は静かだった。
でもその小ささが逆に胸に刺さる。
「白咲先輩も、轟木先輩のことも、ちゃんと向き合ってくれてるのに」
一歩、歩幅が狭くなる。
まるで逃げ場を塞ぐように、俺をすっと見上げて。
「湊くんとのことだけ──後回しにしてませんか?」
胸が傷んだ。
違う、と言いかけて言葉が止まる。
後回し? そんなわけ。
俺はもう過去から逃げないと決めて、そのために三人の未練を晴らすと決めて。
白咲は踏み出した。
轟木も向き合うと決めた。
湊も、変わり始めてる。
──じゃあ俺は? 俺だけが、何も変わってない?
気づいた瞬間、息が詰まった。
青海が更に一歩近づいた。
甘い香りがふわりと漂い、巻き髪が肩に触れそうな距離。
「先輩って、他人のためなら何でもやるのに、自分のことには無頓着すぎるんですよ。そんなの、見ててムカつきます」
少し苛立ったように頬が膨らむ。
まるで俺の額にデコピンを食らわせたような、ちょっと意地悪な顔だった。
「たまには、わがままになってもいいんじゃないですか? 自分のことを最優先で考えて」
心臓が跳ねた。
誰も触れてこなかった部分に、あっさり触れられてしまったような感覚だった。
「じゃないと先輩が損です。きっと白咲先輩たちもそれを望んでません。もちろん、私も」
青海は自分でも驚いたように、苦しそうに眉を寄せた。
「だから……先輩が『はい』って言うまで私、相談に乗ってほしくありません。自分を後回しにする先輩なんて……嫌です」
「……横暴なこと言うなよ」
「ずるいって、言ってほしいですね。まだまだこき使わせてもいらますよ?」
青海は自嘲気味に笑った。
仮面じゃない“本物の青海”が、ようやく見えた気がした。
「どうしようかな。白咲たちの邪魔もしたくないし」
「何言ってるんですか」
青海はきょとん、と首を傾ける。
「くぜ先輩は、湊くんの一番近くにいた人なんですよ?」
その言葉は勢いよく胸に落ち、深く沈んでいった。
青海の真意が、はっと何かを気づかせてくれているようだった。
「……轟木がさ、白咲に去年の夏のことで謝りたいんだってさ」
「はい」
「白咲も湊に気持ちを伝えてた」
青海は俺の言葉を躊躇なく受け取ってくれる。
「湊も迷ってるが、ちゃんと進んでる」
だったら、他人のことばかり気にかけて自分のことを後回しにして。
そんなただの言い訳で満足せずに。
「俺も、前に進まないとだよな」
言い切った瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。
これまでの静観した態度。全部が全部、俺のことじゃなくてあいつらのためにを思っていた行動。
間違ってはいなかった。
ただ、足りなかったんだ。俺自身の意志が。
「女子バレーも始まる頃だし、行くよ。見届けたいものがある」
私情を、ちょっとでも混ぜる。
それくらいの自分勝手はしてもいいだろう。
「また相談に乗らせてくれ。青海が今、一番しんどいだろ」
「……期待してますよ。期待せずに」
「どっちだよ!」
短く笑い合った後、青海は静かに頷く。
「行ってください。湊くん、今の先輩を待ってますよ」
その言葉が、腹の底で何かを決壊させた。
「……ああ」
気づけば、足は体育館へ向かって走り出していた。
逃げない。もう二度と、あいつを独りにしない。
次のコートへ駆け込みながら、喉の奥で熱があふれる。
「……湊」
振り返った青海と、視線が一瞬だけぶつかった。
その瞬間、確かに何かが動いた。
残された青海はふっと息をつき、満杯のボトルを抱えぽとりと呟いた。
「……ほんと、下手すぎ」
震える指先を見つめ、唇を噛む。
胸の奥に渦巻く衝動は、まだどこにも行き場を得ていなかった。




