15話 くしゃくしゃな泣き顔
翌朝の教室は、どこか浮いたような熱を帯びていた。
窓の外からは湿った風が流れ込み、床を踏む靴の音や椅子を引く金属音がいつもより跳ねて聞こえる。
黒板には大きな文字で『球技大会 明日開催』。
最近まで期末テストの憂鬱さに沈んでいた空気が、そこだけ鮮やかに色づいていた。
男子の出場種目はバスケ。女子はバレーに決定している。
担任が形式的に説明をしている間、ほとんどの生徒は上の空だった。
「久瀬ってバスケやってたんだろ? 期待してるぜ」
「小学生の時のクラブ程度だって。期待されても困る」
「いやいや、俺に華麗なパスを頼むわ! 決める準備はできてる!」
前の席から男子が振り返り、妙にテンションの高い口調。
さっきから好きな子をちらちら見てるの、バレてるぞ。
適当にいなしつつプリントを眺めていると、ふと、別クラスの話題が耳に入った。
「俺ら順当に勝ち上がったら、黒羽のところと試合らしいぞ。あいつ滅茶苦茶うまいんだろ!?」
「いやでも、黒羽って最近ちょっと元気ねーし……どうだろな」
──湊。その名前を聞いた瞬間、ざわついた教室の音が一瞬だけ遠のいた。
昨日、夕日の中で見せたあの表情。
胸の中で、まだゆっくりと余韻のように響いている。
「元気がない」のはその通りだ。
けど、あいつは戻ろうとしている最中だ。
誰よりも迷って、悩んで、それでも前に進もうとしている。
それだけは、俺が誰よりも知っている。
「結果オーライ……ではあるか。まさか、白咲が暴走するとはな」
帰り道で白咲が謝ってきたのを思い出す。
予定では軽い会話で終わるはずが、まさか想いをあそこまで吐き出すとは。
だが確かに湊の心は動いた。
なら俺がかける言葉なんて、一つしかない。
「まだ話さなきゃいけないやつもいるしな」
チャイムが鳴り、俺は席を立った。
廊下は大会を前にした声で溢れていた。
「昼休みに練習してく?」「明日のために〜」
「男子は体育館取れないってよ、取り合いで」「外でもいいんじゃね?」
あちこちから声が飛び、弾む音が床を伝ってくる。
その喧騒の向こう――隣のクラスのドアが開いていて、湊の姿が見えた。
女子に声をかけられ、少し気恥ずかしそうに湊は返す。
「黒羽くん、明日どうするの? 普通に出るよね?」
「ん……まあ、うん。出るつもり」
控えめな声。でも昨日までの影は薄い。
ちゃんと、出る側の人間の声になってる。
俺が廊下で立ち止まっていると。
「久瀬くん」
澄んだ笑みで、白咲がすっと肩を並べてきた。
意外にも距離が近く、こんな良い匂いがしたのかと、不自然に目を逸らしてしまう。
「青海さんのとこ、放課後に練習するらしいわ」
「一年生は初だもんな。そりゃ気合いも入るか」
「私たちも練習する?」
「なんだ、付き合ってくれるのか?」
「いえ、みんなに声をかけようと思っただけだけど」
恥ずかしい。これは、我ながら。
正直最近話す機会が増えて、余計な考えが浮かぶのは否めない。
「すまん、今のは忘れてくれ――」
不意に白咲の視線が外れる。
驚いた顔はしていない。むしろ、どこか落ち着いた表情で、湊の方を見ているのがわかった。
「白咲から見て、どうだ?」
「黒羽くん……昨日より、ずっと普通だわ」
「だよな」
「彼の普通が、また戻ってくるといいのだけど」
その声色には願いと、ほんの少しの不安が混ざっていて。
俺は軽く肩をすくめる。
「戻るさ。焦らなければな」
白咲は小さく息を吐いて、笑った。
「そうね、焦らないようにするわ。私が焦ったら……意味がないものね」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「って言っても、急に告白を始めた時はどうなるかと思ったが」
「もう! あれはその……忘れてって言ったでしょ!」
白咲が珍しく、感情を表に出して口を膨らませてきたので。
その反応が可笑しくて、しばらくからかいのネタが尽きなさそうだ。
*
下校時、昇降口で靴を履き替えていると。
先に外へ出ていた湊が、校門の前で立ち止まっているのが見えた。
風に揺れる制服。昨日より軽い背中。
"帰ろうとして、止まる”──その迷いが遠目にも伝わる。
声はかけない。
今は湊自身で考える時間だ。
「……久瀬」
靴紐を結んでいると、ゆらりと影が差した。
顔を上げると、そこには轟木が立っていた。
ポケットに手を突っ込み、プリンの金髪や時折見える八重歯。着崩した制服が相変わらず"強気な不良”を演出している。
ただ、いつもの強い口調は影を潜めていた。
帰るだけで軽い足取りのはずなのに、いたたまれず背けた顔は、妙に硬い。
「轟木も帰りか?」
「ああ、お前もだろ?」
そこで会話が途切れる。
何か言葉を探して、言いかけては飲み込む。
それの繰り返し。
背丈は小さいくせに、轟木も抱え込んでることはとても大きいんだよな。
「一緒に帰るか? 話したいことがあるんだ」
「えっ……」
戸惑ったように轟木は後ずさりする。
そして一度目を伏せてから、胸を目一杯大きく張ると。
「ぼっちだと可哀想だからな。一緒に帰ってやるよ」
「ぼっちて、お前な……」
虚勢を張って無理をしているのはバレバレだったが、俺は轟木の焼けた鼻をつまんで。
「譲歩してやったんだ。素直に感謝しろ」
ふっと笑みを落とすと、立ち上がった。
「おい! 今のはなんなんだよ!? セクハラで訴えるぞ!」
「あーあー、聞こえねー」
その後すぐに強烈なげんこつが頭を砕いたのは、言うまでもない。
「そのな……黒羽のことなんだが」
裏門を抜け、静かな道に入った所。
ざわつく木々が、不気味なくらいに太陽の光を遮っていた。
轟木が訥々と切り出す。
珍しくも目線を泳がせながら。
「あいつ、ちゃんと出るらしいな。球技大会」
「らしいな。本気でやられたら、どこのクラスも勝てなさそうだ」
「……正直、安心したぜ」
ほっとした声。
ただ湊をよく知っている人間の、力になれなかった情けない声でもある。
校門の前で、風に吹かれていた湊の姿。
きっと轟木の視線もそっちに向いていたはずだ。
だからわかる。何かが、変わったと。
「白咲と、何か話したのか?」
「ん? ……まあ、色々とな」
「そうか」
皆まで言わなくても、轟木は勘づく。
白咲が俺に去年の夏、湊と何があったのか話してくれたことを。轟木がどう関与していたのかを。
「去年の夏のこと、お前ももう……全部知ってるんだな」
ぽつりと落とした声は、普段の轟木からは想像できないほど弱かった。
「はは、笑えるだろ? あたしなりに励ましたつもりが、知らない間に黒羽を追い詰めてたなんて」
自嘲の笑み。
指先はリュックをぎゅっと握りしめている。
「あたしが一番の原因なんだよ。あんなことを言わなければ、黒羽も耐えれたのかもしれねぇのに……」
言い終えた後、轟木は息を吐いて笑おうとしたが、それは形にならなかった。
ほんの一瞬、いやずっとなのかもしれない。
轟木の後悔が、確かにそこにあった。
「違う、って言ってほしいのかよ」
「え?」
「轟木のせいじゃないって、言ってほしいのか聞いてんだ」
「いや……そういうわけじゃ」
俺は静かに諭す。
決して俺からは言わない。轟木の口から聞きたいんだ。
起きてしまった現実が怖くて、一度轟木は全てを白咲に託した。
逃げたくても、前に進む道を手放したくなかったからだ。
なら、まずは自分の口から決意を語らなければならない。
こうして俺に話しかけたのは、向き合う準備が整ったからなんだろ?
心に喝を入れて、湊との未練を晴らしたいんだろ?
「なあ、轟木」
それを俺は真正面から励ますなんて、そんな軟弱なことは絶対にしない。
「素直になれよ」
轟木の悪い癖は、本音を隠すところだ。
強気な口調も、男勝りな性格も、外見から内面まで取り繕っているのがわかる。
本当は人一倍健気で、乙女で、情緒深い子だってことは、数日の関わりでもなんとなく察せた。
そんな悲しそうな顔をしてないで、涙を堪らえようと我慢しないで。
たまには自分の想いを口にしたらどうだ。
その五月雨のような心に、俺は一筋の光を灯したかった。
「なんで、お前は……そうやって」
言葉を探すように、轟木の視線が宙を彷徨った。
その小さな肩が、さっきからほんの僅かに震えていた。
そして──堰が切れたように、声が零れた。
「……あたし、ほんとはさ。黒羽に嘘でも強がっていてほしかったんだよ。自信たっぷりにバスケをする姿が見たくて……」
伏せた顔はおそらく涙が溜まっているのを見せたくないからだ。
声だけが、掠れて浅く、消えていく。
「でもあいつが一番辛い時に、寄り添えなかった。自分が強がることでしか守れねぇのに、強がってほしいなんて、押し付けたくせに」
言葉の選び方は雑なのに、意味だけが鋭い。
「結局、白咲に全部を任せちまった。黒羽のことを見なきゃいけねぇのに、怖くて、向き合えなかった。……あたしは、逃げたんだよ」
唇を噛み、顔を伏せる。垂れた鼻水を啜る。
「轟木……その言葉、ずっと飲み込んでたんだな」
小さく頷き、袖で涙を拭った。
たぶん何度も泣いて、何度も隠してきた涙だった。
「轟木はどうしたいんだ?」
「謝りてぇんだ。まずは……白咲に。全部を任せちまったこと」
その声音には、後悔だけじゃなく、覚悟があった。
「わかった。その気持ち、明日伝えよう」
意外にもあっけらかんと放ったので、顔を上げた轟木は呆然と俺の顔を眺める。
「背中、押してほしいんだろ? 仲間との蟠りを解かなきゃ、湊とも向き合えないしな」
「……久瀬」
「てか、くっしゃくしゃに泣くんだな、轟木って。ハンカチ使うか?」
「てめっ! 人が感傷に浸ってるってのに!」
怒鳴りながらも、どこかホッとしたような響きが混ざっている。
「その顔ムカつく! 子ども扱いしてんじゃねぇよ」
「なんかな、轟木っていじりたくなる」
「はぁ!?」
肩をボカボカ殴られるが、て痛い痛い。
照れ隠しの強さじゃないんだよ。
一息ついて、俺は少しだけ歩幅を緩めた。
夕暮れの色は薄いのに、不思議と世界は少し明るかった。
「女子はバレーなんだろ? 頃合い見て、謝ってこいよ。湊のことは、それからだ」
「……ああ、そうだな」
轟木は言葉を詰まらせ、前髪の隙間からちらっと俺を睨んだが。
最後は晴れ晴れしい顔で、にかっと笑った。
意地を張ったまま、でも否定しきれない。
そんな微妙な横顔が、夕暮れの風に溶けていった。
「黒羽のことはさ」
轟木が小さすぎる声で呟く。
「白咲の未練が晴れたら、あたしも──」
その一言は風に流されそうで。
でも確かに、そこには前に進む覚悟が芽生えていた。




