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14話 溶け始めた二人の距離


体育館の床に転がったボールが、ゆっくりと最後の回転をほどいて止まる。

 

夕日の光はオレンジ色の薄膜のように広がり、空間を柔らかく染めていた。


その中心で、湊と白咲は向かいあったまま、しばらく動けずにいた。


「……楓?」


湊の声は掠れていた。

驚きと、少しの期待と、戸惑いが混じったような調子。


白咲は胸元を押さえるようにして、小さく頷く。


「ボールの音が……聞こえたから」

 

言葉にすると、頼りなくなることを自分でも分かっているような言い方だった。

 

だから彼女はすぐに首を振る。


「ううん。違う……違うの。本当は……ずっと、話したかった」

 

夕日の色が二人の影を伸ばし、止まっていた時間だけがそっと溶けていく。

 

その隙間に落ちていくように、湊は俯き、短く息を吸った。


「そう。僕には……話すことなんて」

 

それだけ。

それ以上を口にすると、何かが崩れそうだったのか、その先を言いかけて口を閉じた。

 

白咲は湊から目を逸らさなかった。

見ることが怖いはずなのに、逃げることはもっと怖かったからだろう。


「急に来て、ごめんね。黒羽くんがここにるって聞いて……」


「別にいいよ」


湊は笑う。

弱いが、ちゃんと相手に向けようとする笑みだった。


「楓がここに来た理由、なんとなくわかってるから」

 

不意に、一歩引いて扉の側で立っていた俺へ視線が向く。すぐに外れる。

 

どこか天井を仰ぐように、諦めた息を吐いた。


「関わるなって言っても、君はもう、目を背けてくれないんだね」

 

棘を含んだようでいて、不思議と柔らかい印象。

 

だが声の奥には、押し殺した呼吸の硬さがあった。


「ねぇ、黒羽くん」

 

白咲がそっと口を開ける。


「バスケ……続けてるのね」


「続けてるって、言っていいのかな。まあ、なんとなくだよ」

 

その瞬間、湊が頬を撫でた。

軽く触れるだけの癖。ずっと前から続いている、俺も知ってるあの動き。

 

白咲も気づいた。それでも言わない。

代わりに小さく息を吸って、話題を変えた。


「体育館、夏の匂いがするわね」


「うん。蒸し暑いよ」


「蝉の音とか、うるさいぐらいだわ」


「練習中は気にならないけどね」

 

湊が軽く肩をすくめる。


どこかぎこちない会話のはずなのに、そこには確かな“戻りかけている距離感”があった。


ちょっぴり昔の調子が戻っているような気がして。


「私ね、体育館、結構好きなのよ」


「意外だな。楓っぽくないけど」


「なんとなく、じゃ……だめかしら」

 

自身の言葉が返ってきて、湊は思わず目を瞬く。


「……あるよね。言葉にしずらい感覚って」

 

不器用な笑み。自分の心の傷を隠したいがために貼り付けた、仮面のようだった。

 

ワックスの甘い香り、湿度が肌に張り付く気配、壁に揺れる「夏季大会」のポスター。

 

あの『なんとなく』に白咲の思いが詰まっていて、季節そのものが湊の胸をそっと締め付ける。

 

白咲はその空気を感じ取ったように、少しだけ表情を曇らせた。

 

そしてすぐに、雨上がりの後の晴れた空のような顔で。


「私ね、シューズが床に擦れる音が好きなの。あの練習の匂いと一緒に混ざる感じも」


「……急に、何さ」


「みんなの必死な声も好きで、ゴールに収まる瞬間の熱気も好き」

 

目を伏せて、思い出を振り返るように言葉が溢れていって。


「シュートの軌道も、ドリブルで床が震えるあの感じも……全部」

 

傍観していた俺は、無意識に崩していた姿勢を正す。


「まさか、白咲のやつ」

 

白咲が何を伝えようとしているのか、察してしまったからだ。

 

湊は黙って聞いていた。

逃げるでも、押し殺すでもない、はじめての視線を向けていた。


「……楓?」


「そして──」


吹き抜ける風が白咲の静謐な髪を、皺一つない制服の裾を、突き動かす心を、全部のせて。

 

最後に。

白咲はほんの少しだけ顔を上げて言った。


「バスケをしている黒羽くんが――好きだったの」

 

胸の前で手を握る白咲の、淡く透き通った過去の恋心が、この一瞬だけは何もかもから邪魔されずに体育館全体に響いた。

 

蝉の声も、空調の唸りも、心音も、呼吸の音すらも遠のいて。

 

俺は息を呑んだ。

 

白咲はここで、全てをぶつけるつもりなんだ。ぶつけた上で、核心には触れないつもりなんだ。


湊は肩を震わせ、視線を落とす。

そしてわずかな息を吐いた。


「……そっか」

 

その言い方は受け止めた人間の声だった。


白咲は続ける。


「でも……無理をしてる黒羽くんは、らしくないと思う」

 

ぶりかえした周囲のざわめきに紛れそうな声。

視線を泳がせながらも、尚、精一杯に紡ぐ。


「黒羽くん……また、無理してない?」

 

真正面からの優しい問いかけ。

だが逃げ場を作るように、押し付けにならない声。


湊はゆっくり顔を上げる。

迷いを抱えた目の奥に、一筋の光が生まれていた。


「無理なんて……」


言いかけて、唇を噛む。


「大丈夫だから。ほんと、気にしなくていいから」

 

言葉だけが前に出て、声だけが震えている。

 

白咲はその震えを聞いた。けれど追わなかった。

追えば、壊れてしまう気がしたから。

 

傍らで見守っていた俺は、このタイミングで一歩だけ寄る。

 

会話には入らないつもりで。

あくまでも遠い距離、ほんの一言を落とす。


「無理な戻り方なんか、しなくてもいい。方法はいくらでもあるんじゃないか?」

 

湊が目を見開く。白咲も息を呑む。

それ以上言わず、俺はまた距離を戻した。


白咲が湊の方へ、勇気を振り絞るように半歩近づいて。


「また……少しでいいから。話しかけても、いい?」

 

湊は迷ったように唇を結んだが。

呼吸が一度だけすっと吐かれて――小さく頷いた。

 

白咲は胸元を押さえて、緩やかに微笑む。

震える息を整えながら、扉へと向かった。

 

去っていく足音が薄れていく。

俺も後ろを振り返らずに続いた。


「楓……!」

 

突然、湊が叫んだ。

必死な顔で、掴み損ねたものを求めるかのような瞳で。


迷いよりも“欲しさ”があった。


「なんで、また僕に話しかけてくれたんだ」

 

一瞬の躊躇ののち、白咲は照れたように、しかし澄んだ笑みで答えた。


「背中を押してくれた人がいたから」


「背中を、押してくれた人?」


「その人に頼ってみたの。ただ、それだけよ」

 

湊はしばらく何も言わなかった。

けれど、胸の奥の何かがほどけていく表情だけが、確かにそこにあった。


「ああ……なるほどね」

 

残された体育館で、しばらくその場に立ち尽くした。

 

ボールを拾い上げようとして、ふと気づく。

──頬に触れようとした手が、止まっている。

 

初めてだった。


「……どうしてだろ」

 

呟きは弱いが、ほのかに軽い。

 

練習を終えて体育館を出る時、思わず足が止まった。

 

去年の夏、準優勝で終えたバスケ部の栄誉が、横断幕としてまだ掲げられている。


触れれば痛いはずなのに、心が触れたがっていた。

まるで後悔に立ち向かえと、告げられているようで。

 

確かに聞こえた。

 

止まっていたものが、また一つ、小さく溶ける音。

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