13話 止まっていた時間
昼休み。
体育館には僕のシューズが床を擦る、乾いた音だけが規則的にリズムを刻んでいた。
照明の白さは相変わらず冷たく滲む。
ボールがリングに当たるたび、ほんのわずかな金属音が胸の奥に刺さって跳ね返る。
淡々と、同じフォームでシュートを打つ。
入っても外しても、心は動かない。呼吸も乱れない。
ただ“音”だけが過去のどこかを呼び起こす。
ボールが床に弾む低い響き。
体育館特有のワックスの匂い。
手のひらに残る微かな痛み。
決定的に何かを思い出すわけじゃない。
なのに、全身をくすぐられているみたいに落ち着かない。
「ああ、もう夏なんだ」
転がるボールを漠然と見つめながら呟く。
練習しているというより、何かに追われているみたいだった。
そんな静けさを破ったのは、ドアの開く音だった。
「まーた一人で練習しとるんか? 湊」
気軽な声。けれど、その奥の温度だけは隠しきれていない。
「颯太……なんの用?」
「用は別にないんやけどな。帰宅部もたまには運動しようかと思て」
わざとらしく肩をぐるぐる回しながら、少しだけ眉を上げては笑っている。
そのなんでもないふりの中に、心配が混ざっているのがわかる。
気にしないように、またシュートを打つ。
綺麗な弧を描き、リングへ吸い込まれた。
「おお、やっぱブランク感じさせへんな。ちょっと混ぜてくれん?」
「もう切り上げるところだよ。一足遅かったね」
「そりゃ残念や。ほな最後に一回、見せてくれへんか? 湊の本気ってやつ」
「……なんでだよ」
「気になんねん。部活に顔出さんくせに、陰で練習しとる理由がな」
少し意地悪く聞こえる口調。
でも、それは僕の“見せたくない部分”をごまかさずに見てくれる優しさでもあった。
「一本だけだからね」
「おおきに」
ドリブルでリズムを整えようとした瞬間、颯太がぽつりと落とした。
「夏の大会まで、もう一ヶ月ないな」
ボールが手の中で止まる。
「やから練習しとるんか? わざわざ一人で」
「なんとなくだよ。ほんと、なんとなく」
空調の低い唸りが、僕と彼の間をすり抜けていく。
「顧問の先生、お前を探しとったで。『そろそろ戻ってこい』ってな」
「……そう」
ぽすん、とネットが軽い音を立てる。
颯太が大袈裟に「ナイシュー」と言って笑った。
「顔ぐらい出したらどうなんや? チームのやつら、待っとる言ってたで」
「どうかな。こんな面倒くさいやつ」
「面倒とかどうでもええよ。お前やからや」
その声は、不思議と遠くに響いた。
体育館の音のせいなのか、胸の中が少し温かくなったせいなのか。
「……なぁ湊」
「なに」
「バスケ、まだ好きなんやろ?」
口が固まる。
否定も肯定もできなかった。
ただ、その問いの音だけが耳に残った。
「言わんでもわかるわ。顔に全部出とる」
「……うるさいな」
少しだけ息が漏れた。
笑ってるのか、自嘲なのか、自分でもわからない。
「……湊、すぐそこに頼れる仲間がおるってこと、忘れんなよ」
真正面からじゃなく、斜めに寄り添うような声。
それがいちばん効く。
「ほな俺、購買行ってくるわ。パンが売り切れてまう前にな」
颯太は手を振って出ていった。
足音が消えたあと、体育館にまた“音”だけが残る。
「……っふ、さっき一緒に弁当食べたけどね」
肩の力が抜けた気がした。
だがすぐに現実は胸を裂いてくる。
「頼れる仲間、か。僕なんかが……」
呟く声が、体育館に吸い込まれていった。
『抱え込まないで。私にも、ほんの少しだけ分けて』
そう言ってくれた楓の泣いた顔が浮かんだ。
善意を向けてくれた瞳を、正面から受け止める勇気が持てなかった。
無理を隠せば隠すほど、誰かの瞳が曇る。
そのたびに、自分の正しさなんて簡単に揺らいだ。
ボールを拾う指先に、力が入らない。つま先から頭のてっぺんまでを、ひんやりとした空気が這い上がってくる。
また同じ場所に戻ってきてしまった──そんな感覚だけが、ずっと離れなかった。
「……どうしたら良かったのかな」
顧問の「戻ってこい」は思ったより優しくて。
颯太の「まだ好きやろ」は温かくて。
その二つの声がゆっくり揺れて、ずっと掴めなかった何かを淡く照らしていく。
「今更……戻り方なんて」
手から離したボールが床に落ちる。乾いた音が体育館全体に響いた。
目を閉じても、その音だけは消えなかった。
*
夕暮れの風が吹き抜ける校門で、俺と白咲は向かい合っていた。
白咲の指先は胸元でぎゅっと折れ、迷いと覚悟が同時に滲んでいた。
「大丈夫だ。轟木も青海にも、お前が湊の過去を話したことは言っていない」
「……わかってる。でも……怖いの」
白咲は小さく息を吸った。
「あの時、助けられなかった自分が……もう一度黒羽くんの前に立っていいのか、ずっと迷ってたから」
その言葉には、揺らぎと同じくらいの決意が混ざっていた。
「気にするな。俺たちが向き合わなきゃ、何も変わらない」
白咲はこくりと頷く。
「でも直接行くのは違うわよね……黒羽くん、驚いちゃうし」
「だから偶然を装う。バスケの話題なら自然に入れる」
胸元の手が小刻みに震えている。
それでも、前に進もうとしている。
「うまくいくと思う?」
「いかせるんだよ。俺と白咲で」
俺の言葉に、白咲の表情がほんの少し柔らかくなった。
「……ありがとう。頼らせてくれて」
二人並んで体育館へ向かう。
扉の向こうから微かに響く――ボールの音。
「本当に黒羽くんが練習してるの?」
「部活が休みの時や、誰もいない時間に一人でな。杉山に教えてもらった」
「……そう」
「緊張するか? 奇遇だな、俺もだ」
白咲の足がぴたりと止まる。
その音が、彼女の中の一年分の気持ちを呼び覚ましたのだろう。
白咲は深呼吸して、細い指が胸元のシャツを無意識に掴む。呼吸が浅くなる。足が震える。
でも踏み出した。
体育館の扉を開けた瞬間、空気の色が変わった。
夕日の光が差し込み、白い粉塵が浮かぶ。
その中心で向かい合っているのは、湊と白咲。
二人とも動かない。時間が、本当に止まっているみたいだった。
ボールが床で静かに回っている。その音だけが、止まった空気をわずかに揺らしていた。
白咲の背中が震えている。でも視線だけは、逃げずに湊へ向いている。
湊もまた、迷いを抱えたまま、彼女から目を逸らせずにいた。
一年分の距離が、たった数歩の中に凝縮されている。
「……楓? なんでここに」
辿々しい、湊からの困惑。
俺からは決して声をかけなかった。白咲が踏み出した勇気を壊したくなかったからだ。
白咲は唇を結び、それでも笑顔をつくって言った。
「……ボールの音が聞こえたから、もしかしたらと思ったのだけど……」
いや違う。白咲は首を振って、御託を遮ると。
腰に手を握って、縁に溜まりかけた涙を払うようにもう一度、真っ直ぐに。
「ううん。……ずっと、話したかった」
その瞬間、湊の指先が小さく動いた。その微かな音さえ、体育館に鮮やかに響いた。
夕暮れの光が二人の影を近づける。
止まっていた時間が、ゆっくりと、確かに動き始めた。




