12話 もう一度、手を伸ばすために
夜の十時を回る頃だった。
街灯はまばらで駅の奥まで届かない光が、淡く二人の影を地面に引き伸ばしている。
あの夏の名残を引きずった湿った夜風が、白咲の髪を一束攫い、涙で濡れた頬へそっと張り付けた。
肩が微かに震えていた。
嗚咽に似た声を喉に詰まらせながら、白咲はようやく言葉を閉じた。
「これが……去年の夏に起きた、全てよ」
俯いたまま握りしめた拳は、指先が白くなるほど力が籠もっている。
けれど、胸の奥で暴れ続けるざわめきは消えない。
彼女が俺に語った"湊との過去”。
あの日、無理に笑った湊の影が、まるで生きているかのように白咲の中でまた動き出す。
ちゃんと湊の『助けて』を見つけられていたら。応えることができていたら、何かが変わっていたのかもしれない。
苦い問いが、何度も同じところを擦るように白咲を傷つけていた。
分かる。
俺の後悔も、白咲の後悔も、形こそ違えど似ている。
親近感と、罪悪感と、痛みばかりが重なって、二人とも潰れてしまいそうだった。
俺は一度目を伏せると、瞼の裏に浮かんだのは湊の背中だった。
小刻みに揺れた肩。爪が食い込むほど握られた拳。あの時、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。
胸の奥底に沈めていた痛みが、白咲の言葉によって再び浮かんでくる。
俺は頬を叩いて気持ちを整えると、白咲を見つめ、静かに口を開いた。
「……湊の気持ち、今でもわからないか?」
白咲はゆっくり首を振る。
「……わからない。でも、黒羽くんは一人で全部を抱える人なの。自分の弱さですら、誰の前でも出してくれない」
壊れるまで弱音を見せない。限界を悟らせる前に、自分の感情ごと塞いでしまう。
そうやって湊は、きっと誰にも触れられない場所で傷んでいた。
俺は鼻で短く笑った。
軽い笑いじゃない。呆れとも、諦めともつかない、複雑な吐息だった。
「昔からそうだよ、湊は。……泣く時は、いつも背中を向いて泣いてた」
口に出してから、また胸が締め付けられる。
俺が言った一言で、湊は沸点を超えたように背を向けた。
でも、あれは怒りじゃない。失望でもない。
きっとあいつは悲しかったんだ。
俺にすら、ああ言わせてしまったのが許せなかったのだろう。
気付けなかった俺が、何より情けない。
「白咲、お前の気持ちは痛いほどよくわかる。後悔ってやつは、時間が経つほど重たくなるよな」
それで逃げ続けてきたのが俺で、向き合おうとしているのが白咲で。
彼女が語ってくれたから、俺は初めて自分の痛みを誰かに見せてもいいと思えた。
だから、今度は俺の番だ。
時間は絶対に巻き戻せない。だからこそ、もう二度と同じ後悔はしたくない。前向きでいることを諦めずにいたい。
それを教えてくれた彼女へ。
「……で、なんでお前がそんな顔してるんだ」
あの時の白咲とは違う、俺なりのやり方で伝える。
「えっ……?」
顔を上げた白咲の視界に入ったのは、俺の怒気を帯びた視線だった。
「は? なんで"自分が悪い"みたいな顔してるんだよ。身の上話を聞いててイライラしたの、初めてだわ」
「わ、私……は、その……」
白咲が慌てたように瞬きをする。
「湊は確かに壊れた。それは間違いない。でもな、壊れた原因を全部自分のせいだって思うのは、湊の悪い癖だ」
白咲は言葉を失う。
俺の声は淡々としているのに、どこか震えていて、それが俺自身の傷を物語っているようだった。
「昔、俺もあいつを救えなかったことがある。たった一言で……湊を傷つけた」
「『無理して笑うな』って言ったのよね……?」
「ああ。言った瞬間、空気が変わった。良かれと思った言動が、いつのまにか湊を追い詰めてたなんて。善意しかないんだから、わからないよな」
開き直ってるわけではない。
俺と白咲、同じ境遇。
照らし合わせて、示したかった。
「なら、湊にはきっと"言わせてしまった後悔"があるはずなんだ」
白咲の瞳が大きく開く。
ちょうどその時、遠くを電車が走り去っていく。踏切の音が鳴り、鉄の響きが夜の空気を震わせた。
過去と現在が、音の中で一つに繋がっていくようだった。
「だから、お前が自分を責めるのは違う。行き違ったのはお互い様だ。決して自分だけが悪いなんて、口が裂けても言うな」
俺だって自分を責めていた。
逃げて、目を逸らし、忘れようとした。
でも向き合うと決めた。
湊にもきっと罪悪感がある。俺と向き合いたくない感情だってある。
「仲直りってのは、双方が初めて前を向いたときにできるものなんじゃないか?」
白咲の胸が強く掴まれたように動いた。
言葉を転がすように、唇を引っ張って。
「……久瀬くん」
俺はわずかに目を見開く。
声が違った。小さく弱々しい声なんかじゃない。
「お願いがあるの。聞いてくれるかしら」
白咲の体が向けられる。
指先がこつん、と俺の指と触れる。
泣き腫らした瞳は、奥の奥まで澄んでいた。
「今度は、黒羽くんがまた自分で抱え込んでしまう前に……助けてあげたいの」
震えているのに、どこまでも力強かった。
強張った体が物語っている。一切目を離さないその仕草に、俺は心を掴まれる。
──本気、なんだな。
「湊を助けたい気持ちは……俺も同じだ」
小さく息を吐き、俺も吐露する。
「あいつ、最近また変わってきてる。悪い癖が出始めてる」
一度は立ち直ったのかもしれない。
でも迷いや悩みが絡んだ時、きっと湊は思い出す。
「初めて白咲たちと話したファストフード店で、変化の話になっただろ。その時、湊が『考えたいことがある』って言ってたな」
「……ええ。最近、部活に顔を出してないらしくて」
「なら、絶好の機会じゃないか」
俺は胸を張り堂々と宣言する。
「湊も前に進みたがってる。それを後押しできるのは、同じ後悔を抱えてもう繰り返さないと誓った、俺と白咲だ」
白咲がはっとしたように息を吸う。
「でも……急に踏み込んだら」
「わかってる。だから、少しずつでいい。俺たち二人でゆっくり距離を詰めるんだ。湊が耐えられるペースで」
これは作戦でも策士めいた冷静さでもなく、ただの覚悟だった。
親友をもう二度と、見捨てないという。
白咲はぎゅっと唇を結んで、頷く。
「……久瀬くん。ありがとう、私の話を聞いてくれて」
「礼はいい。むしろ」
俺は少しだけ白咲に身を寄せて、低く囁くように言った。
「お前が一緒なら……湊、ちゃんと前に進める気がするんだ」
白咲の胸に、暖かい何かが広がった。
夜風は少し冷たいのに、二人の間だけはどこか柔らかかった。
ふと、白咲が呟く。
「もう時期、夏の大会ね。……また、黒羽くんが楽しそうにバスケをする姿、見たいわ」
「そうだな。まだわからないが──」
俺は空を見上げる。
「どこかで、俺たちのことを待ってる気がする」
街灯の光が、確かに夜を照らしていた。
こうして俺たちは、壊れたまま時間が止まってしまった湊の心に、そっと触れ直すことを決めた。
今度こそ──行き違わないために。




