11話 行き違った正しさ
大会直前、異変には気づいていた。
視線、空気、沈黙。
コートの端に立つと、会話が一拍遅れて止まる。ボールを拾うと、誰かが無言で別のボール
を出す。
小さなズレが毎日少しずつ増えていく。
取り残されたような、耳鳴りのする静けさ。
でも──気づかないふりをした。
気づいてしまえば、立っていられなくなる気がしたから。
轟木に言われた通り、練習は人一倍頑張ったつもりだ。一年で選ばれた責任。先輩への配慮。
チームへの気遣い。
僕なりの正しさで周囲を見返し、認めてもらうつもりだった。
なのに、ロッカーを開けた瞬間、視界が揺れた。
シューズが酷く汚れていたのだ。
泥、砂、踏みつけた跡。
ふざけ半分では付かない量に、つま先が黒く潰れている。
それも初めてじゃない。
口いっぱいに鉄の味が広がっていく。
「……っつ」
シューズを持ち上げる。乾いた泥がぱらぱらと落ちた。
ああ、これは誰かがやったんだ。
またかと思うたび、自分の中で何かが軋んだ。
仲間を疑いたくない。そんな人間になりたくない。
だから僕は、汚れたシューズを黙って見つめるだけにした。
大会は容赦なく始まっていく。
小汚い格好で試合をしながらも、見なかったことにすれば傷つかなくて済む。
そう思っていたのに。
みるみる勝ち上がって決勝前日、体育感裏口の手洗い場で。
「……なんで」
部活鞄が不躾に肩から滑り落ちた。
楓が、僕のシューズを洗っていたから。
蛇口の水が強く流れている。泥水が足元に溜まっていく。小さな手で、必死にブラシを動かしている。
落ちない泥を、何度も何度も。
悔しくも悲しそうな顔で。
感謝よりも「もうやめてくれ」と飛び出しそうになったところで。
「黒羽の彼女じゃん、何やってんの」
先輩が調子よく声をかけた。
楓は驚いたように肩を跳ねさせる。
「洗ってるんですよ、黒羽くんのシューズを」
どこか怒りを孕んだ低い声色。
物怖じしない強い視線に先輩も思わずたじろぐ。
先輩は口の端を歪めて。
「ああ……なるほどな」
視線がシューズに向く。
「選抜に入ると、彼女が靴まで洗ってくれるのか。羨ましいね」
周囲の空気が、あっという間に乾いた。
楓は首を振る。
「違います。私が勝手にやってるんです。……決勝戦くらい、格好良く戦ってほしいですから」
先輩が鼻で笑う。
「はいはい。良い彼女さんだこと」
侮辱するような声だった。
楓の手が止まる。白い布地が、水の中で揺れた。
僕は息をすることすら忘れていた。
僕が傷つくより、楓が傷つくことの方がずっと堪えたからだ。
ぐしゃっと体が潰されるような感覚。
僕のために隠れて、こんなことをさせてしまって。
いつのまにか巻き込んでいた。全部、僕が弱いから。
シューズが汚されたことよりも、楓が"勝手に好意を受け取ってる女"みたいに扱われることが、何より嫌だった。
「もういいから」
言おうとして、口を噤んだ。
今止めに入れば余計に彼女が注目を浴びてしまう。
だから、物陰で立ち尽くすことしかできなかった。
「守るべきはずの人を、僕は」
この日を境に、部内の空気は完全に変わった。
決勝戦当日。
会場で先輩たちと合流したが、今日は一段と空気が重かった。
緊張ではなく、淀んだ『何か』
噂はたった一言で広がる。
「黒羽って彼女に靴洗わせてんの? お前の靴なのに?」
「道具もまともに管理できないとか、面目ないとか思わねぇの?」
開口一番、貶す言葉が次々と降りかかる。
シャワーのようにとかじゃない。鋭利で太い針のようで。
「すみません、ははは」
笑っておどけてみせる。
楓を巻き込むくらいなら、僕が悪者でもいいんだ。
だから黙って受け止めていたのに、彼らはそれを肯定と捉えるのだ。
試合が始まり、すぐに違和感は形となった。
パスが、こない。目が合っても、逸らされる。
「フリーだ! こっち……!」
声も、届かない。誰も、僕をそこにいないように扱う。
次も。その次も。
コートの中央で、僕は一人だけ置き去りになる。
観客席のざわめきが、前列から波のように広がる。
「あれ……?」
「あの一年の子、全然ボールが回ってないぞ」
味方のドリブルが止まり、無理なシュートが飛ぶ。外れる。また守備に戻る。
チームメイトがわざと同じスペースに入ってきて、押し出されるようにコートの端まで追いやられる。
「黒羽! もっと中に入れ!」
指示が飛ぶが、誰も僕を見てはくれない。
その時、やっと理解した。
「──ああ、最初から僕は、チームの一人でもなかったんだ」
ボールが床を叩く音だけが大きく響く。
無情にも歓声が湧く。
綺麗なシューズが行き場を失ったように地面と同化する。
疲れてもないのに汗が湧き出てくる。
真っ暗でも、薄っすらと見えていた一筋の光は、いつしか全く見えなくなった。
「試合終了」
スコアボードは見なくても分かった。惨敗。それはもう呆気なく。
監督も、OBも、観客も、原因が分かっていた。
ロッカー室へ戻る。誰も目を合わせない。
僕はユニホームの裾を握りしめた。
僕がもっと上手ければ。僕がもっと信頼されていれば。僕がもっと……。
もっと、もっと。
「全部、僕のせいなんだ」
正しさを、努力を、信念を信じていたのに。
それが誤りだったのだと、気づいた。
後味悪く、会場を後にしようとすると。
「黒羽くん……」
楓が出迎えてくれた。
かける言葉を探すように、震える声。
「今日のこと、気にしないで──」
「気にするよ」
僕は遮るように言った。
静かで、落ち着いていて。でも、今までの僕の声じゃなかった。
「僕のせいで、全部崩れたんだ」
「違うわよ……黒羽くんは頑張って」
「その"頑張り"で、楓を巻き込んだ」
思いの外大きな声が出て、楓が一歩引いた。
僕は息を荒げたまま言葉を継いだ。
「シューズのこと、知ってた。汚れたのも……楓が洗ってくれてたのも」
楓は小さく息を呑み俯く。
「僕が見てる前で、楓が先輩に笑われて……止めることができなかった」
胸が焼ける。鷲掴みされているような苦しさ。
「僕が努力して認められれば、誰も傷つかないと思ってた。でも、違ったんだよ」
とても辛そうな顔が、楓の潤んだ瞳に反射した。
「一番傷つけちゃいけない人まで、傷つけてたんだ」
僕の正しさは間違っていた。
結果が見えるまで、疑わなかった。
それが最大の過ちだったのだ。
「黒羽くん……私は大丈夫よ。全部、私がしたくてしたことで、何か力になりたかっただけなの。そんなに自分を責めなくたって……」
「楓は、何も悪くないよ。ただ少し……僕たちは気持ちを行き違えてたんだね、きっと」
言いたくない言葉が込み上げてくる。
責め立てる気持ちも、八つ当たりするつもりもないってのに。
「楓は本当に周りをよく見てる。クラスのみんなから頼られる理由も、簡単に誰かのために行動できるからなんだ」
でもさ、それが僕には。
「僕に対しても気を遣いすぎだ。それだと……楓が疲れちゃうよ」
「黒羽……くん?」
「だからさ」
一時の沈黙。
照りつける太陽がやけに熱くて、周囲の視線が向けられているわけでもないのに怖くて。
声も、瞳も、善意も、正しさも、何もかも煩わしくて。
本当は救われていた。
楓が笑ってくれるだけで、立ち上がれた日が何度もあった。
それでも、もう、僕は立ち直れそうにない。
「……別れよう」
すっと落ちてきた言葉。
「いや……嫌よ! そんなの……」
楓の目に涙が溜まる。
させてはいけない顔をさせてしまう。
「違う……私はそんなつもりじゃ──」
「わかってるよ」
優しい声だった。
だからこそ、楓は何も言えなくなった。
楓が否定したくても、僕が自分を責める道しか選べないことが、痛いほど伝わってしまったから。
本当は別れたくない。それもわかってる。
だからこそ、ゼロからやり直すしかないんだ。
「楓、ありがとう。僕に優しくしてくれて」
縁に溜まっていた涙が、みるみる落ちていく。それを拭ってやることは、もうできない。
背を向ける。歩き出す。
空洞になったみたいに、何もかもが抜け落ちた。
「僕はまた、無理して笑ってるように見えたのかな」
鮮明な記憶。
かつての親友に言われた、核心を突かれた言葉。
僕が負けず嫌いなのに誰よりも不器用で、小さい頃から人の前では泣けない性格だってこと。
それを一番彼が理解していた。
なんで、あいつの顔が今になって浮かぶのだろう。
「ああ……泣いているからか」
こうして、僕は『正しさ』に食われて、壊れた。
優しい言葉ほど、疑う癖がついた。
誰かが僕に良くしてくれるたびに、「何を返せばいいんだろう」と考えてしまうようになった。
そして──
「そもそも白咲楓とは、付き合っていない」
それで彼女が救われるなら、僕はこの夏の出来事を全部抱え込む。




