表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/21

11話 行き違った正しさ


大会直前、異変には気づいていた。


視線、空気、沈黙。

コートの端に立つと、会話が一拍遅れて止まる。ボールを拾うと、誰かが無言で別のボール

を出す。


小さなズレが毎日少しずつ増えていく。

取り残されたような、耳鳴りのする静けさ。


でも──気づかないふりをした。


気づいてしまえば、立っていられなくなる気がしたから。


轟木に言われた通り、練習は人一倍頑張ったつもりだ。一年で選ばれた責任。先輩への配慮。

チームへの気遣い。


僕なりの正しさで周囲を見返し、認めてもらうつもりだった。


なのに、ロッカーを開けた瞬間、視界が揺れた。

 

シューズが酷く汚れていたのだ。

 

泥、砂、踏みつけた跡。

ふざけ半分では付かない量に、つま先が黒く潰れている。

 

それも初めてじゃない。


口いっぱいに鉄の味が広がっていく。


「……っつ」

 

シューズを持ち上げる。乾いた泥がぱらぱらと落ちた。

 

ああ、これは誰かがやったんだ。

またかと思うたび、自分の中で何かが軋んだ。

 

仲間を疑いたくない。そんな人間になりたくない。

 

だから僕は、汚れたシューズを黙って見つめるだけにした。

 

大会は容赦なく始まっていく。

 

小汚い格好で試合をしながらも、見なかったことにすれば傷つかなくて済む。

 

そう思っていたのに。

 

みるみる勝ち上がって決勝前日、体育感裏口の手洗い場で。


「……なんで」

 

部活鞄が不躾に肩から滑り落ちた。


楓が、僕のシューズを洗っていたから。

 

蛇口の水が強く流れている。泥水が足元に溜まっていく。小さな手で、必死にブラシを動かしている。

 

落ちない泥を、何度も何度も。

悔しくも悲しそうな顔で。

 

感謝よりも「もうやめてくれ」と飛び出しそうになったところで。


「黒羽の彼女じゃん、何やってんの」

 

先輩が調子よく声をかけた。

楓は驚いたように肩を跳ねさせる。


「洗ってるんですよ、黒羽くんのシューズを」

 

どこか怒りを孕んだ低い声色。

物怖じしない強い視線に先輩も思わずたじろぐ。


先輩は口の端を歪めて。


「ああ……なるほどな」

 

視線がシューズに向く。


「選抜に入ると、彼女が靴まで洗ってくれるのか。羨ましいね」

 

周囲の空気が、あっという間に乾いた。

 

楓は首を振る。


「違います。私が勝手にやってるんです。……決勝戦くらい、格好良く戦ってほしいですから」

 

先輩が鼻で笑う。


「はいはい。良い彼女さんだこと」

 

侮辱するような声だった。

楓の手が止まる。白い布地が、水の中で揺れた。

 

僕は息をすることすら忘れていた。

僕が傷つくより、楓が傷つくことの方がずっと堪えたからだ。

 

ぐしゃっと体が潰されるような感覚。

僕のために隠れて、こんなことをさせてしまって。

 

いつのまにか巻き込んでいた。全部、僕が弱いから。

 

シューズが汚されたことよりも、楓が"勝手に好意を受け取ってる女"みたいに扱われることが、何より嫌だった。


「もういいから」

 

言おうとして、口を噤んだ。

今止めに入れば余計に彼女が注目を浴びてしまう。

 

だから、物陰で立ち尽くすことしかできなかった。


「守るべきはずの人を、僕は」

 

この日を境に、部内の空気は完全に変わった。

 

決勝戦当日。

会場で先輩たちと合流したが、今日は一段と空気が重かった。

 

緊張ではなく、淀んだ『何か』

噂はたった一言で広がる。


「黒羽って彼女に靴洗わせてんの? お前の靴なのに?」


「道具もまともに管理できないとか、面目ないとか思わねぇの?」

 

開口一番、貶す言葉が次々と降りかかる。

シャワーのようにとかじゃない。鋭利で太い針のようで。


「すみません、ははは」

 

笑っておどけてみせる。

楓を巻き込むくらいなら、僕が悪者でもいいんだ。

 

だから黙って受け止めていたのに、彼らはそれを肯定と捉えるのだ。

 

試合が始まり、すぐに違和感は形となった。

 

パスが、こない。目が合っても、逸らされる。


「フリーだ! こっち……!」


声も、届かない。誰も、僕をそこにいないように扱う。

 

次も。その次も。

コートの中央で、僕は一人だけ置き去りになる。

 

観客席のざわめきが、前列から波のように広がる。


「あれ……?」


「あの一年の子、全然ボールが回ってないぞ」

 

味方のドリブルが止まり、無理なシュートが飛ぶ。外れる。また守備に戻る。

 

チームメイトがわざと同じスペースに入ってきて、押し出されるようにコートの端まで追いやられる。


「黒羽! もっと中に入れ!」

 

指示が飛ぶが、誰も僕を見てはくれない。

 

その時、やっと理解した。


「──ああ、最初から僕は、チームの一人でもなかったんだ」

 

ボールが床を叩く音だけが大きく響く。

無情にも歓声が湧く。

綺麗なシューズが行き場を失ったように地面と同化する。

疲れてもないのに汗が湧き出てくる。

 

真っ暗でも、薄っすらと見えていた一筋の光は、いつしか全く見えなくなった。


「試合終了」

 

スコアボードは見なくても分かった。惨敗。それはもう呆気なく。

 

監督も、OBも、観客も、原因が分かっていた。

 

ロッカー室へ戻る。誰も目を合わせない。


僕はユニホームの裾を握りしめた。

 

僕がもっと上手ければ。僕がもっと信頼されていれば。僕がもっと……。


もっと、もっと。


「全部、僕のせいなんだ」

 

正しさを、努力を、信念を信じていたのに。

それが誤りだったのだと、気づいた。

 

後味悪く、会場を後にしようとすると。


「黒羽くん……」


楓が出迎えてくれた。

かける言葉を探すように、震える声。


「今日のこと、気にしないで──」


「気にするよ」

 

僕は遮るように言った。

静かで、落ち着いていて。でも、今までの僕の声じゃなかった。


「僕のせいで、全部崩れたんだ」


「違うわよ……黒羽くんは頑張って」


「その"頑張り"で、楓を巻き込んだ」

 

思いの外大きな声が出て、楓が一歩引いた。

僕は息を荒げたまま言葉を継いだ。


「シューズのこと、知ってた。汚れたのも……楓が洗ってくれてたのも」

 

楓は小さく息を呑み俯く。


「僕が見てる前で、楓が先輩に笑われて……止めることができなかった」

 

胸が焼ける。鷲掴みされているような苦しさ。


「僕が努力して認められれば、誰も傷つかないと思ってた。でも、違ったんだよ」

 

とても辛そうな顔が、楓の潤んだ瞳に反射した。


「一番傷つけちゃいけない人まで、傷つけてたんだ」

 

僕の正しさは間違っていた。

結果が見えるまで、疑わなかった。

 

それが最大の過ちだったのだ。


「黒羽くん……私は大丈夫よ。全部、私がしたくてしたことで、何か力になりたかっただけなの。そんなに自分を責めなくたって……」


「楓は、何も悪くないよ。ただ少し……僕たちは気持ちを行き違えてたんだね、きっと」

 

言いたくない言葉が込み上げてくる。

責め立てる気持ちも、八つ当たりするつもりもないってのに。


「楓は本当に周りをよく見てる。クラスのみんなから頼られる理由も、簡単に誰かのために行動できるからなんだ」

 

でもさ、それが僕には。


「僕に対しても気を遣いすぎだ。それだと……楓が疲れちゃうよ」


「黒羽……くん?」


「だからさ」

 

一時の沈黙。

 

照りつける太陽がやけに熱くて、周囲の視線が向けられているわけでもないのに怖くて。

声も、瞳も、善意も、正しさも、何もかも煩わしくて。

 

本当は救われていた。

楓が笑ってくれるだけで、立ち上がれた日が何度もあった。

 

それでも、もう、僕は立ち直れそうにない。


「……別れよう」

 

すっと落ちてきた言葉。


「いや……嫌よ! そんなの……」

 

楓の目に涙が溜まる。

させてはいけない顔をさせてしまう。


「違う……私はそんなつもりじゃ──」


「わかってるよ」

 

優しい声だった。

だからこそ、楓は何も言えなくなった。


楓が否定したくても、僕が自分を責める道しか選べないことが、痛いほど伝わってしまったから。

 

本当は別れたくない。それもわかってる。

だからこそ、ゼロからやり直すしかないんだ。


「楓、ありがとう。僕に優しくしてくれて」

 

縁に溜まっていた涙が、みるみる落ちていく。それを拭ってやることは、もうできない。

 

背を向ける。歩き出す。

空洞になったみたいに、何もかもが抜け落ちた。


「僕はまた、無理して笑ってるように見えたのかな」

 

鮮明な記憶。

かつての親友に言われた、核心を突かれた言葉。

 

僕が負けず嫌いなのに誰よりも不器用で、小さい頃から人の前では泣けない性格だってこと。


それを一番彼が理解していた。

 

なんで、あいつの顔が今になって浮かぶのだろう。


「ああ……泣いているからか」

 

こうして、僕は『正しさ』に食われて、壊れた。

 

優しい言葉ほど、疑う癖がついた。

誰かが僕に良くしてくれるたびに、「何を返せばいいんだろう」と考えてしまうようになった。

 

そして──


「そもそも白咲楓とは、付き合っていない」

 

それで彼女が救われるなら、僕はこの夏の出来事を全部抱え込む。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ