10話 良かれと思って
大会が始まる数週間前のことだった。
胸の奥にずっと残っていたざらつきが、もう誤魔化せなくなっていた。
黒羽くんが走るたび。
雑用を押し付けられるたび。
腫れ物みたいに扱われるたび。
腹の底がきゅっと縮む。
笑ってほしいのに。
デートの帰り道でも、彼の横顔はどこか苦しそうだった。
だから──動いた。
体育館裏のベンチで水を飲んでいた三年生の先輩を見つけた瞬間、心臓の音が一段大きく跳ねた。
足が勝手にそちらへ向かう。
一度だけ深く息を吸う。
「……黒羽くんの練習量、少し多すぎませんか?」
驚かせないように。
角が立たないように。
できる限り柔らかく、柔らかく。
先輩は目を瞬かせたあと、小さく苦笑した。
「なんだ? もしかしてあいつの彼女か?」
その言葉だけで空気が変わった気がした。
無意識に背筋が伸びる。
背負ってもいない立場が、重くのしかかる。
「はい。……その、心配で」
喉が熱くなる。
言葉より前に感情が溢れそうで、奥歯を噛んだ。
「バスケも上手くて、こんな可愛い彼女までいて。とことん憎らしいやつだな、まったく」
嫌味も混じっているのだろう。
ただ現実への悔しさか、先輩はどこか乾いた目をしていた。
「はぁ……」
先輩はタオルで顔を拭きながら空を仰ぐ。
疲れたような息だった。
「まあ、わかるけどさ」
ペットボトルを握ったまま、言葉を探している。
「一年で選抜入るやつなんて久々でさ。正直、上もピリピリしてんだよ」
目線は合わないのに、やるせない気持ちが伝わってくる。
「俺ら三年は最後の大会だしな。結果出さなきゃって、全員余裕ねぇ」
人間味のある、焦燥感。
「……心配しなくても大丈夫だよ。あいつ、自分からやってるから」
それは事実。黒羽くんはいつだって、自分の弱さを誰にも見せない。
限界よりも"選ばれた責任"を優先する。
わかってる。だからって――
「でも、限度って……あります」
先輩の表情から、ほんの一瞬だけ「めんどくささ」が浮かんだ。
「一年のくせに選ばれたんだ。多少の無茶は普通だろ。俺らの頃なんか——」
言葉は途中から雑になった。
その言い方は彼に向けられたものなのに、刺さったのは私の方だった。
彼の頑張りを否定されているようで。
彼の努力が軽んじられたようで。
けれど、否定することができない。
「もう十分頑張っている」なんて、私が言える立場じゃない。
彼に恥をかかせてしまう気がする。
だから部外者である私は、代わりに頭を下げた。
「すみません。ただ……少しだけ気にしてもらえたら」
それが精一杯の勇気だった。
沈黙が落ちる。
先輩はぽりぽりと頭を掻いて。
「……気づく範囲でな」
そう言って歩き去った。
その背中を見送りながら、私は壁にもたれかかった。
一気に体の力が抜ける。
うまくいったのか、わからない。
逆効果だったかもしれない。
でもこのまま何もしない方が……できない方が彼女として失格だと思えた。
「これできっと……黒羽くんも」
胸に残る不安を押し込め、顔を上げたその時。
入口横のわずかな影に、誰かの姿が見えた。
じっとこちらを見つめていた視線と目が合うと、私は血の気が引くのを感じた。
黒羽くんだった。
汗で濡れた髪。揺れも、怒りも、涙もない顔。ただ静かで、酷く痛々しい瞳。
鼓動が凍りつく。
彼はゆっくりと歩いてきて、まるで何気ないように問いかけた。
「何してるの……楓」
淡々としすぎている。怒っていない。責めてもいない。だからこそ、余計に苦しい声だった。
返事が喉につっかえて、目を泳がせていると――不意に彼の肩へと飛び込んでくる日焼けした少女。
「よぉ黒羽! 相変わらず死んだ魚の目みてぇだな!」
轟木さんの陽気な声が軽く叩く。
黒羽くんは邪険にその手を振りほどいた。
「……轟木、もっと普通に声をかけてくれよ。いつも痛いって」
「そりゃ悪い。あたしなりの気遣いだ」
アップの途中で偶然通りかかったらしい。
轟木さんは笑顔で手を合わせているが、私と黒羽くんとを交互に見て、首を傾げる。
「白咲となんかあったのか? お前、すごい顔してるけど」
即座に察する。
「……ああ。なるほどな」
指摘に、彼は黙ったまま目を伏せた。
「心配されんのも、悪くねぇだろ」
轟木さんが軽く言う。それは彼女なりの優しさだ。
でも、彼には届かない。
地面を見つめながら、やがてぽつりと呟く。
「……僕のせいで」
掠れた声だった。
「楓に頭を下げさせた」
拳に力が籠り、わなわなと震えている。
「努力してるつもりでも、結局、誰かに迷惑かけてばっかだ」
辛そうに笑う。
「情けないな……」
その吐息には涙よりも重いものが混じっていた。
轟木さんは困ったように笑って、彼の背を叩く。
「気にすんなって。ああいうやつらはな、見返すのが一番効くんだよ」
黒羽くんが顔を上げる。
その瞳には迷いが沈んでいた。
「見返すって、どうやって」
「決まってんだろ。努力して、実力で黙らせるんだよ。あいつらが何も言えねぇくらい、コートで勝ちゃあいい」
シンプルで、真っ直ぐで、熱い言葉。
おそらく彼女の矜持が保たれているのは、そういった経験則からなるのだろう。
自分がそうであったように、彼にもそうであってほしいと願う意味が込められている。
だけど。
彼の指が、ぎゅっと握られる。
「それで、全部解決するのかな」
轟木さんは少し驚いた顔をした。
彼は続ける。
「もっと上手くなれば、迷惑もかけなくて済むのかな」
答えは返らない。
短い沈黙。
「お前がその気なら、な」
轟木さんはにっと笑った。
「何も言わせなくはできるだろうよ」
その言葉を、彼はゆっくり飲み込んだ。
「……そっか」
僅かだけ、目を閉じる。
「結局、それしか方法はないんだね」
呟きは夏風に溶けるほど小さく、彼の表情は暗く曇っていた。
本当は「逃げちゃダメだ」ではなく、「もう逃げてもいい」と言ってほしいのだ。
なのに、それを口にしたら、彼の支えを奪う気がして……私には言えなかった。
「このまま大人しく引き下がるのはダサいだろ。ほら、自信持てよ。黒羽ならできるだろ?」
違う。彼はもう十分やっている。十分以上に。
その言葉はまるで、もっと犠牲になれと言っているようで。
「わかったよ」
黒羽くんは唇を噛み締め、短く笑う。
「黙らせるよ、全部。実力で、結果で」
その笑みは決意じゃない。諦めにも似た、酷く静かな事件の予感。
「それでこそ黒羽だ」
轟木さんは満足そうに笑った。
私は自責に苛まれそうだった。
私の行動が、彼を追い詰めたのかもしれない。轟木さんの励ましが、彼の首を締めたのかもしれない。
どちらの良かれと思った『正しさ』が、彼には重すぎた。
けれど黒羽くんは、その重さすら一人で背負うのだ。
「……お願い、黒羽くん」
私はこれだけ、言い残す。
「愚痴でも弱音でも、何でもいいから」
訴えかけるような視線と声色。
「私、そういうのが聞きたい」
正しい言葉じゃない。
でも、確かな本音だった。
「慰めさせてほしいし、褒めさせてほしい」
白い袖をぎゅっと握り、俯きながらも。
「……私、何もできてない感じがして、ちょっと悔しいから」
最後は顔を上げて、彼を見つめる。
「抱え込まないで。私にも、ほんの少しだけ分けて」
これが今できる、私なりの覚悟だった。
黒羽くんはふっと肩を落とし、優しく頬を撫でてくれる。
「ありがとう。楓はほんとに、良い彼女だ」
優しい言葉なのに、どこか遠い。
彼は手を振って歩き出す。
その背中は細くて。
筋肉質なはずなのに、とても狭く見えた。
破綻は、もうすぐそこまで迫っている。
誰も気付けないまま、自分なりの正しさで、ただただ突き進む。
大会までの日数は、あっという間に過ぎていった。




