9話 始まりの影
白咲は一度、深く息を吐いた。
夜の空気が肌の上を滑っていく。
覚悟を決めた人間の呼吸だと、すぐにわかった。
「……ほんとに聞くのね、久瀬くん」
「聞く。逃げないでと言ったのは、白咲だからな」
わざと責めるような言い方はしなかった。
ただ事実を並べただけなのに、白咲はどこか安堵したように肩を落とす。
「そう、ね……」
指先が震えているのは、きっと夜風のせいじゃない。
俺は余計な言葉を挟まないと決め、ゆっくりと姿勢を正した。
ベンチに座ったままでも、まるで向かい合って正座をしているような緊張感。
白咲はそんな俺を横目で見て、小さく微笑む。
「久瀬くん、変わったわね」
「おかげさまでな」
ふっと笑ったその瞬間、彼女の瞳の奥で、何かがほどける音がした気がした。
その気のせいにも似た揺らぎは、深い影に沈んでいく。
白咲は両手を膝に添え、まっすぐ前を向いた。
その姿はまるで、『ここから嘘はつかない』そう宣言しているようだった。
「去年の夏のことを話すわ」
静かな声だった。
強さよりも、長い時間抱えてきた痛さが勝っている声。
俺は頷く。
「でも……どこから話すべきか、迷ってしまうの。全部が繋がっていて、どれが始まりなのか、未だに怖いくらい見えないときがあって」
白咲の指がそっと握りしめられる。
「始まりなんて、そんな大事なのか?」
「大事よ。だって――私が間違えたのは、そこからなんだから」
その言葉は静かなはずなのに、胸の奥で鋭く跳ねた。
白咲は視線を落とし、少しだけ目を閉じて。
「全部の始まりは……あの試合よ」
心臓が一拍、強く脈打つ。
「試合……?」
「ええ。黒羽くんが初めて挫折した日。そして……私が一番大切なものを取り違えた日」
白咲の横顔が月明かりで淡く照らされる。
その光の下で、彼女の表情は"今"ではなく、どこか遠い"あの日"を見ていた。
「今でも思うの。あの日までに、たくさんチャンスがあったはずなのに。彼の異変に気づける瞬間も、助けられたはずの場面も……全部、あったのに」
その唇が何かを紡ごうと開かれた――が。
駅前のアナウンスが風に揺れて、小さなノイズを作った。
だが白咲の言葉が零れ落ちるより先に。
──眩しい夏の日差しが、全てを飲み込んだ。
物語は、朧気に”あの夏"へと滑り込んでいく。
*
去年の夏。
蝉の声がうるさいほど満ちて、体育館の空気は熱で揺らめいてた。
入口を埋める女子生徒の黄色い歓声。
視線の先、少年は上級生を抜き去る華麗なドリブルを見せ、軽やかな放物線のシュートを決めた。
「あの一年生すご!」
「爽やかでかっこいいし!」
黒羽湊。一年生ながら夏の大会の選抜メンバーに名前を連ねた、異例の存在。
根っからのバスケ少年で、元々中学の頃から名が知れ渡る期待のエース。
そんな彼が、帰り道で嬉しそうに報告してくれる。
その横顔があまりにも眩しくて、私は胸の高鳴りを誤魔化すことしかできなかった。
「……すごいわね、黒羽くん」
言おうと思えば言えたはずの言葉。
隣で驚き半分、誇らしさ半分の顔をしていた彼を、素直に喜ばせてあげればよかった。
でも結局、口にしたのは素っ気ない「良かったじゃない」の一言。
(私なんかが褒めても、逆に迷惑かもしれない)
その小さな遠慮が最初の間違いだったと、今なら思える。
「先輩より先にコート使ってんじゃねぇよ」
「メンバーに選ばれたからって、偉そうにしていいわけじゃないんだわ」
耳に入ってきたのは、三年生の先輩の声。
コート内では黒羽くんが先輩たちに囲まれながら練習をしていた。
いや、囲まれていたと言うより――浮いていた、と言った方が正しい。
彼は無理やり押し込まれるように、輪の中心にいたのだ。
「基礎が足りてねぇわお前。バテるの早すぎ」
明らかに過剰なランメニュー。
インターバルも短く、息も足もおぼつかない。
声をかけられない距離じゃないのに、私はただ見守ることしかできなかった。
黒羽くんは苦笑を浮かべ。
「すみません。もう一本、やらせてください」
そう頭を下げた。
ホイッスルの音に合わせて走り出した瞬間、手に持っていたボトルが少し揺れ、そのまま床に落ちた。
カラン、と軽い音。
拾おうとして、彼の指先が一瞬だけ震えた。その震えは、小さすぎて誰も気づかない。
でも私は、見てしまった。
(どうして……無理するのよ)
彼は誰より自分に厳しい。
そのストイックさが無意識にも、人を遠ざけることを知っていた。
けれどそれ以上に『選ばれた責任』を誰より重く背負ってしまうタイプだということも。
本当は危ういほど繊細なのに。
そのことを理解していながら、私は目を背けた。
体育館を後にしようとすると。
「……白咲」
クラスメイトの轟木さんと出会した。
彼女は陸上部で、今も走っていた最中なのだろう。
荒い金髪を掻き上げて額を拭うが、彼女の視線もまた、苦しげに黒羽くんの方へ向いていた。
「見てて、しんどくなんねぇか?」
「……少し」
本当はすごく、だった。
胸の奥が痛くて、見ていられないほどだった。
「最近よく一緒に走る機会があるんだけどよ」
轟木さんは自分へ重ねるように言う。
「黒羽のやつ、ずっと『迷惑かけないように』って言ってんだ。他人の評価ばっか気にして、自分だけすり減らしてるみてぇにな」
「……知ってるわ」
「誰かが止めねぇと、あいつほんとにぶっ倒れるぞ」
私は答えられなかった。
止めるべき人間は、私じゃない。そう思い込んでいたから。
黒羽くんにとって私は――負担になるだけの彼女だと、どこかで決めつけていた。
その数日後。
嫌な噂が聞こえてきた。
「黒羽のシューズ、誰かに泥水かけられたらしいぞ」
「まじで? まあ、一年のくせに目立ちすぎだもんな」
「補欠になった先輩は、さぞ悔しいんだろ」
「可愛がられてもいるじゃん。色んな意味でだけどな」
ただ通りすがっただけなのに。
心臓をそのまま、ぎゅっと掴まれているようだった。
(気づいてた……のに)
黒羽くんの靴が何度も汚されていたことも。
ボールを触らせてもらえず、ずっと走らされていることも。
練習後、こっそり隠れて吐いていたことも。
それでも黒羽くんは、帰り道だけは無理して笑って“今日の良かったことだけ”を並べてくれる。
まるで私に「気づかないふりをしてほしい」と言っているみたいに。
そんな疎外感でさえ感じていたのに、私は求められるまま気づいていないふりを続けた。
(これが……良い彼女であってるのよね?)
曖昧な優しさが、どんどん歪んでいく。本当は助けるべき時なのに、見ないふりの方が正しい気がしてしまう。
そんな自分の弱さを隠して。
その日、私は決めた。
(言葉が無理なら、行動で変えてみせる。絶対に)
でも、その決意こそが危うかった。
“良い彼女になろう”とするほど、“負担になりたくない”と願うほど、私は黒羽くんの本当の気持ちから遠ざかっていく。
そして――
その選んだ『ある行動』が、黒羽くんを追い詰め、私自身の後悔になるとは思いもしなかった。
あれは、彼が初めて“折れた日”の、確かな前兆だった。




