表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/21

9話 始まりの影


白咲は一度、深く息を吐いた。  

夜の空気が肌の上を滑っていく。  


覚悟を決めた人間の呼吸だと、すぐにわかった。


「……ほんとに聞くのね、久瀬くん」


「聞く。逃げないでと言ったのは、白咲だからな」  


わざと責めるような言い方はしなかった。  


ただ事実を並べただけなのに、白咲はどこか安堵したように肩を落とす。


「そう、ね……」


指先が震えているのは、きっと夜風のせいじゃない。  


俺は余計な言葉を挟まないと決め、ゆっくりと姿勢を正した。  

ベンチに座ったままでも、まるで向かい合って正座をしているような緊張感。  


白咲はそんな俺を横目で見て、小さく微笑む。


「久瀬くん、変わったわね」


「おかげさまでな」  


ふっと笑ったその瞬間、彼女の瞳の奥で、何かがほどける音がした気がした。  


その気のせいにも似た揺らぎは、深い影に沈んでいく。


白咲は両手を膝に添え、まっすぐ前を向いた。  

その姿はまるで、『ここから嘘はつかない』そう宣言しているようだった。


「去年の夏のことを話すわ」  


静かな声だった。

強さよりも、長い時間抱えてきた痛さが勝っている声。  


俺は頷く。


「でも……どこから話すべきか、迷ってしまうの。全部が繋がっていて、どれが始まりなのか、未だに怖いくらい見えないときがあって」  


白咲の指がそっと握りしめられる。


「始まりなんて、そんな大事なのか?」


「大事よ。だって――私が間違えたのは、そこからなんだから」  


その言葉は静かなはずなのに、胸の奥で鋭く跳ねた。  


白咲は視線を落とし、少しだけ目を閉じて。


「全部の始まりは……あの試合よ」  


心臓が一拍、強く脈打つ。


「試合……?」


「ええ。黒羽くんが初めて挫折した日。そして……私が一番大切なものを取り違えた日」  


白咲の横顔が月明かりで淡く照らされる。  


その光の下で、彼女の表情は"今"ではなく、どこか遠い"あの日"を見ていた。


「今でも思うの。あの日までに、たくさんチャンスがあったはずなのに。彼の異変に気づける瞬間も、助けられたはずの場面も……全部、あったのに」


その唇が何かを紡ごうと開かれた――が。


駅前のアナウンスが風に揺れて、小さなノイズを作った。  


だが白咲の言葉が零れ落ちるより先に。  

──眩しい夏の日差しが、全てを飲み込んだ。  


物語は、朧気に”あの夏"へと滑り込んでいく。    



*  



去年の夏。  


蝉の声がうるさいほど満ちて、体育館の空気は熱で揺らめいてた。  


入口を埋める女子生徒の黄色い歓声。


視線の先、少年は上級生を抜き去る華麗なドリブルを見せ、軽やかな放物線のシュートを決めた。


「あの一年生すご!」


「爽やかでかっこいいし!」


黒羽湊。一年生ながら夏の大会の選抜メンバーに名前を連ねた、異例の存在。  


根っからのバスケ少年で、元々中学の頃から名が知れ渡る期待のエース。  


そんな彼が、帰り道で嬉しそうに報告してくれる。

その横顔があまりにも眩しくて、私は胸の高鳴りを誤魔化すことしかできなかった。


「……すごいわね、黒羽くん」  


言おうと思えば言えたはずの言葉。  


隣で驚き半分、誇らしさ半分の顔をしていた彼を、素直に喜ばせてあげればよかった。  


でも結局、口にしたのは素っ気ない「良かったじゃない」の一言。


(私なんかが褒めても、逆に迷惑かもしれない)  


その小さな遠慮が最初の間違いだったと、今なら思える。


「先輩より先にコート使ってんじゃねぇよ」


「メンバーに選ばれたからって、偉そうにしていいわけじゃないんだわ」  


耳に入ってきたのは、三年生の先輩の声。  


コート内では黒羽くんが先輩たちに囲まれながら練習をしていた。  


いや、囲まれていたと言うより――浮いていた、と言った方が正しい。


彼は無理やり押し込まれるように、輪の中心にいたのだ。


「基礎が足りてねぇわお前。バテるの早すぎ」  


明らかに過剰なランメニュー。

インターバルも短く、息も足もおぼつかない。


声をかけられない距離じゃないのに、私はただ見守ることしかできなかった。  


黒羽くんは苦笑を浮かべ。


「すみません。もう一本、やらせてください」  


そう頭を下げた。  


ホイッスルの音に合わせて走り出した瞬間、手に持っていたボトルが少し揺れ、そのまま床に落ちた。


カラン、と軽い音。


拾おうとして、彼の指先が一瞬だけ震えた。その震えは、小さすぎて誰も気づかない。

でも私は、見てしまった。


(どうして……無理するのよ)  


彼は誰より自分に厳しい。  

そのストイックさが無意識にも、人を遠ざけることを知っていた。


けれどそれ以上に『選ばれた責任』を誰より重く背負ってしまうタイプだということも。


本当は危ういほど繊細なのに。


そのことを理解していながら、私は目を背けた。


体育館を後にしようとすると。


「……白咲」  


クラスメイトの轟木さんと出会した。


彼女は陸上部で、今も走っていた最中なのだろう。  


荒い金髪を掻き上げて額を拭うが、彼女の視線もまた、苦しげに黒羽くんの方へ向いていた。


「見てて、しんどくなんねぇか?」


「……少し」  


本当はすごく、だった。  

胸の奥が痛くて、見ていられないほどだった。


「最近よく一緒に走る機会があるんだけどよ」  


轟木さんは自分へ重ねるように言う。


「黒羽のやつ、ずっと『迷惑かけないように』って言ってんだ。他人の評価ばっか気にして、自分だけすり減らしてるみてぇにな」


「……知ってるわ」


「誰かが止めねぇと、あいつほんとにぶっ倒れるぞ」


私は答えられなかった。  

止めるべき人間は、私じゃない。そう思い込んでいたから。  


黒羽くんにとって私は――負担になるだけの彼女だと、どこかで決めつけていた。  


その数日後。  

嫌な噂が聞こえてきた。


「黒羽のシューズ、誰かに泥水かけられたらしいぞ」


「まじで? まあ、一年のくせに目立ちすぎだもんな」


「補欠になった先輩は、さぞ悔しいんだろ」


「可愛がられてもいるじゃん。色んな意味でだけどな」  


ただ通りすがっただけなのに。  

心臓をそのまま、ぎゅっと掴まれているようだった。


(気づいてた……のに)  


黒羽くんの靴が何度も汚されていたことも。

ボールを触らせてもらえず、ずっと走らされていることも。

練習後、こっそり隠れて吐いていたことも。  


それでも黒羽くんは、帰り道だけは無理して笑って“今日の良かったことだけ”を並べてくれる。


まるで私に「気づかないふりをしてほしい」と言っているみたいに。


そんな疎外感でさえ感じていたのに、私は求められるまま気づいていないふりを続けた。  


(これが……良い彼女であってるのよね?)


曖昧な優しさが、どんどん歪んでいく。本当は助けるべき時なのに、見ないふりの方が正しい気がしてしまう。


そんな自分の弱さを隠して。


その日、私は決めた。


(言葉が無理なら、行動で変えてみせる。絶対に)


でも、その決意こそが危うかった。


“良い彼女になろう”とするほど、“負担になりたくない”と願うほど、私は黒羽くんの本当の気持ちから遠ざかっていく。


そして――

その選んだ『ある行動』が、黒羽くんを追い詰め、私自身の後悔になるとは思いもしなかった。


あれは、彼が初めて“折れた日”の、確かな前兆だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ