第9話:毒を以て毒を制す
翌朝、エリザベートは朝の身支度を終えながら、不安な予感に胸を締め付けられていた。鏡に映る自分の顔は青白く、縦巻きロールの髪も普段の張りと輝きを失っているように見える。
「今日は一体何が起こるのかしら」
昨夜、薔薇園での密談で話し合われた内容が頭をよぎる。ソフィアの手帳に新しい予告が出ていたのだ。
『特殊場面の発生予定』
『種類:不明』
『対象:ジークハルト・ラウフェン』
『危険度:最高』
ソフィアがその文字を読み上げた時、彼女の声は震えていた。手帳は普段とは比べ物にならないほど激しく脈打ち、表紙が血のような紅い光を放っていた。
「最高って何よ。今までだって十分危険だったのに」
エリザベートは溜息をついて鏡から顔を逸らした。
* * *
学園の中庭で、ジークハルトは一人でベンチに座っていた。
昨日の会議での話し合い通り、今日は「一人でいる時間」を作らないよう、仲間たちと連携して行動する予定だった。しかし、午前中の授業が教師の急用によって早く終わってしまい、想定外の空き時間ができてしまった。これも、システムの仕業だろうか。
石のベンチの冷たい感触が太ももに伝わり、頬を撫でる風は心地よいが、どこか規則的すぎる吹き方をしている。鳥たちの囀りも決まった間隔で繰り返されており、相変わらずこの世界の作り物じみた雰囲気が拭えない。
「せめて、仲間が来るまでの間は何事もなければいいのだが」
ため息をつきつつ、ジークハルトは学園の入り口の方を見やった。エリザベートたちがこちらに向かっているはずだが、まだ姿は見えない。
そのとき、中庭の向こうから馴染みのある栗色の髪の少女が現れた。クレアだ。
彼女はいつものように笑顔を浮かべ、手には小さな包みを持っている。しかし今日の彼女の表情には、ほんのわずかな緊張が混じっているようにも見えた。大切な贈り物を渡す前の少女のような、期待と不安が入り混じった面持ち。包みは光沢のあるリボンで美しく装飾されており、なぜかその中から虹色の光が漏れている。
「あ」
ジークハルトの胸に、あの不快な感覚が蘇った。クレアを見るたびに起こる、理由のわからない胸の高鳴り。しかし今の彼は、その感情が自分のものではないことを知っている。
(来るな、頼む!)
ジークハルトは心の中で必死に祈ったが、クレアの足音は確実に彼に向かって近づいてきている。石畳を踏む軽やかな音が、小鳥の跳ねるような調子で響いた。
「ジークハルト様」
クレアが声をかけた瞬間、ジークハルトの体に例の異常が起こった。
胸が締め付けられ、視界がぼやけ、心臓が激しく鼓動する。そして脳裏に、あの甘ったるい思考が流れ込んでくる。
『なんて美しい、なんて可憐な』
「うっ」
ジークハルトは歯を食いしばって抵抗した。額に汗が浮かび、拳を握りしめる。
「また始まった」
「ジークハルト様、どうなさいました? お加減が悪いのですか?」
クレアは心配そうな声色で足を速めた。その手に持った包みが、陽光を受けてさらに激しく虹色に光っている。
「いや、何でもない」
ジークハルトは必死に正常な表情を保とうとしたが、体の奥から湧き上がってくる異常な感情を抑えるので精一杯だった。
「実は、ジークハルト様にお渡ししたいものがあります」
クレアはそう言いながら、包みを両手で大切そうに差し出した。その仕草には気取ったところがなく、誰かに贈り物をするのが純粋に嬉しいという心持ちが透けて見える。
「先日、街の菓子店でとても素敵なものを見つけて。ジークハルト様にお似合いだと思ったんです」
リボンを解くと、中から薔薇を模したチョコレートが現れた。それは王宮育ちのジークハルトさえ感嘆するほど精巧に作られており、花芯にあたる中央には金箔で装飾が施されている。甘い香りが鼻をくすぐるが、その匂いは異様に濃厚で、めまいがするほど強烈なものだった。
「これを、私と一緒に」
クレアの声が、いつもより甘く響く。その瞬間、ジークハルトの理性が警鐘を鳴らした。
(これは危険だ!)
しかし、体は既に彼の意志を離れていた。右手がゆっくりと、チョコレートに向かって伸びていく。
「やめろ」
ジークハルトは心の中で叫んだが、手は止まらない。指先がチョコレートに触れようとしたその時。
「そのチョコレート、美味しそうですわね」
突然、エリザベートの声が響いた。
振り返ると、金色の縦巻きロールを揺らしながら、エリザベートが颯爽と現れた。その青い瞳にはいつになく強い決意の光が宿っている。
「エリザベート!」
ジークハルトは安堵の声を漏らした。
「あら、クレアさん。そのチョコレート、なかなか見事な細工ですわね。しかも光っているじゃありませんの! 王宮の大広間の燭台みたいですわ」
エリザベートはクレアに近づきながら、その手に持ったチョコレートをじっと見つめた。直感が告げている。これは普通のチョコレートではない。
「え、ええ。特別なチョコレートなんです。ジークハルト様に差し上げるための」
クレアは少し困惑したような表情を見せた。予想外の横槍に、目がわずかに泳いでいる。
「まあ、特別なチョコレート! どのような特別さなのか気になりますわね。もしかして、中にお酒でも入っているとか? それとも何かのお薬? まさかとは思いますが毒とか入っていないでしょうね? おーほっほっほ!」
エリザベートは扇子をパチンと開いて高笑いしたが、その瞳は全く笑っていない。
「ど、毒なんて! そんな物騒なものじゃありません! ただ、その」
クレアはしどろもどろになった。だが、頬が赤く染まっているのは演技とは思えない。「システムが用意した台本」を超えた、少女らしい恥じらいがそこにはあった。
「ただ?」
「その、愛の」
「愛の?」
「愛の、こもった」
「愛のこもった? それで?」
エリザベートは身を乗り出して追い詰めるように聞いた。
「その、愛のこもったチョコレートなんです」
クレアがそう言った瞬間、チョコレートがさらに激しく光った。
「愛のこもったチョコレートですって? まあ、素敵ですわね! でしたら是非ともわたくしにも味見をさせていただきたいですわ」
エリザベートはにっこりと微笑んだが、その笑顔が怖い。
「で、でも、これはジークハルト様に」
「あら? 愛のこもったチョコレートでしたら、皆で分け合うべきじゃありませんこと? 愛は分け合えば増えるものですもの。独り占めなんて愛に反しますわよ!」
「そ、そうですけど、でも」
「それに、もしかしてそのチョコレート、ジークハルト様のお体に良くないものが入っているんじゃありませんこと? 王太子殿下のお体は国の宝ですのよ? 婚約者のわたくしが毒見役をいたしますわ」
「毒見って!? だから毒なんて入ってません!」
クレアは声を荒らげた。普段のおっとりした物腰からは想像できないほどの強さで、チョコレートを胸に抱きかかえている。その必死さには、自分の贈り物を守ろうとする少女の純粋な意地が見え隠れしていた。
「それなら問題ありませんわね。わたくしが食べても大丈夫ということですもの」
エリザベートはクレアの手に向かって身を乗り出した。
「あの、ちょっと、お待ちください」
「何をお待ちするんですの? 早く味見させてちょうだい。それとも何か都合の悪いことでも?」
「都合の悪いことなんて」
「それなら問題ございませんわね! さあ、どうぞ!」
エリザベートは手を伸ばした。
「で、でも、これは本当にジークハルト様のために」
「ジークハルト様のためを思うなら、安全確認が先決ですわ! もし何か変なものが入っていて、ジークハルト様がお腹を壊されたらどうするの? あなたが責任取れますの?」
「お、お腹を壊すって、そんな」
「それとも、もしかして本当に何か良からぬものが入っているんじゃありませんこと? だからわたくしに食べさせたくないとか?」
「そんなことありません!」
クレアは慌てて否定した。
「それならば証明してくださいな。ジークハルト様が食べても大丈夫だということを!」
「証明って、どうやって」
「簡単ですわ、わたくしに食べさせればよろしいのよ! それで何も起こらなければ、ジークハルト様にも安心してお渡しできるというものですわ!」
エリザベートの論理は滅茶苦茶だったが、勢いで押し切ろうとしている。
「でも」
クレアがもじもじしている間に、エリザベートは素早く動いた。
「それでは遠慮なく!」
「あ! だめです!」
クレアが制止しようとしたが、エリザベートの方が一枚上手だった。華麗な身のこなしでクレアの腕をかいくぐり、舞踏のステップの要領でくるりと回転しながらチョコレートを奪い取った。
「いただきます!」
そして躊躇なく口の中に放り込んだ。
「エリザベート、それは!」
ジークハルトが制止しようとしたその瞬間、エリザベートの表情が変わった。
甘い味が舌の上に広がったが、それと同時に今まで経験したことのない激しい眩暈が襲いかかった。
「うっ! これは、すっごく甘い、甘すぎるわ! 砂糖の塊を食べたみたい!」
エリザベートは顔をしかめて膝をついた。世界が激しく回転し、頭の中に無数の声が響き始める。
『クレア様を愛して』
『クレア様に従って』
『クレア様のために生きて』
「これは! やっぱり普通のチョコレートじゃなかった! 甘いだけじゃなくて変な味もしますわ! なんですのこれ、薬膳チョコですの!?」
エリザベートは歯を食いしばって抵抗した。しかし、その声はどんどん大きくなっていく。
『クレア様は美しい』
『クレア様は素晴らしい』
『クレア様に全てを捧げよ』
「嫌よ、そんなこと考えたくもないのに! しかも脳裏にクレアの姿が焼き付いて離れない。誰かがわたくしの頭の中に絵を描いているかのよう」
エリザベートは膝をついた。歯を食いしばり、額に浮かぶ汗を拭おうともせず、ただ自分の内側で暴れる異物と対峙していた。
その時、世界に激しい揺らぎが走った。
空が明滅し、地面に亀裂が走る。中庭の壁面が古い壁画が剥落するように崩れ始め、石畳が波打ち、敷き詰められた煉瓦の隙間から不自然な光が漏れ出した。
さらに奇怪なことに、空中に見慣れない文字が浮かび上がった。
【警告:体系衝突】
【悪役令嬢がプレイヤーの道具を使用】
【論理矛盾を検出】
「な、何が? なんで空に文字が浮かぶの!?」
クレアが慌てふためく中、エリザベートは更に奇妙な現象に襲われていた。
「なんということ。クレアが、舞台の主役のように輝いて見えてしまう! 光の加減まで変わって、この世のものとは思えない美しさに」
エリザベートは拳を握りしめて呻いた。自分の感覚が書き換えられていく恐怖が、冷や汗となって背筋を伝う。
「エリザベート!」
ジークハルトがエリザベートの元に駆け寄った。彼女の体は小刻みに震え、額には大量の汗が浮かんでいる。
「だめ、頭の中に変な声が。しかもクレアの声で『エリザベート様、私のこと好き?』って。気持ち悪い!」
エリザベートは頭を抱えて呻いた。
その時、中庭の向こうから聞き覚えのある声が響いた。
「汝の魂に平安を」
ルカスの歌声だった。彼は息を切らして中庭に駆け込んでくると、エリザベートの前で膝をつき、神聖な聖歌を歌い始めた。
「偽りの声を退け 真実の光を呼べ」
ルカスの歌声と共に、エリザベートの周りに薄い光の膜が張られた。彼女の頭の中で響いていた声が、わずかに弱くなる。
「ルカス様の歌声が沁みるわ。けれど、まだクレアが輝いて見えるの。光の加減まで変わって、聖堂の中にいるかのように」
次に現れたのはカイルだった。彼は眼鏡を光らせながら、複雑な魔法陣を空中に描いていく。青い光の線が空中で踊り、花火のような軌跡を描いている。
「これは相当強力な魔道具の効果だ! エリザベート嬢の体内で暴れている魔力を抑制する!」
カイルが放った青い光がエリザベートを包み、体内で荒れ狂っていた異常な魔力が少しずつ鎮静化されていく。
「カイル様、助かったわ。けれど、まだ頭の中に讃美歌のようなものが。これはもう洗脳の域ですわ」
「私も手伝います!」
ソフィアも息を切らして駆けつけてきた。彼女は手帳を開きながら、エリザベートの耳元で叫んだ。
「エリザベート様! あなたはエリザベート・アルトマール! アルトマール公爵家の令嬢! 誇り高い悪役令嬢です! 誰にも屈しない、強い意志を持った女性です!」
ソフィアの声が、エリザベートの意識に届く。
「そう、そうよ、わたくしはエリザベート・アルトマール。だけれどクレアの笑顔が脳裏から消えないの! 自分の感情なのに、自分のものではないこの気持ち悪さ!」
レオンも剣を抜いて現れた。
「エリザベート! 俺たちがついてる! 一人で戦う必要はないぞ!」
四人の仲間に囲まれて、エリザベートは必死に抵抗を続けた。頭の中で響く声と、自分自身の意志とのせめぎ合い。しかし、魔道具の効果は想像以上に強力だった。
『クレア様を愛して』
「嫌よ! でも確かに可愛いのよね」
『クレア様に従って』
「絶対に嫌! でも言うことを聞きたくなる」
『クレア様のために生きて』
「わたくしは、わたくしのために生きるの! でもクレアの身の回りのお世話をしたくなる。侍女の気持ちが分かる日が来るとは思いませんでしたわ」
エリザベートの内なる戦いは激しさを増していく。道具の効果と自分の意志が真っ向からぶつかり合い、その狭間で彼女の精神は激しく揺さぶられていた。
「はあ、はあ」
エリザベートは荒い呼吸をしながらなんとか立ち上がったが、足元はふらついている。
「まだ頭の中にクレアの存在が根を張っている! 招かれざる客が居座っているようですわ!」
「エリザベート様、大丈夫ですか!?」
ソフィアが心配そうに覗き込む。
「……大丈夫ではありませんわ。クレアのことが気になって仕方がないの! あの髪が風に揺れるだけで胸が締め付けられる。自分の感情なのに、自分のものではないわ」
エリザベートは自分の頭をぽかぽかと叩いた。
カイルは冷静に分析していた。
「魔道具らしきものの効果は消えていない。むしろ、エリザベート嬢の強い意志と拮抗している状態だ。これは長期戦になるかもしれない」
ルカスは心配そうに眉をひそめた。
「このままでは、エリザベート様の精神が持たないのでは」
ジークハルトも青い顔をしていた。
「すまない、エリザベート。君を身代わりにしてしまった」
「謝らないでくださいませ。これはわたくしが選んだことですわ。けれど、クレアに『ありがとう』と言いたくなるのは勘弁していただきたいわ」
一方、クレアは呆然としてその光景を見つめていた。何が起こったのか理解できないといった表情で、自分の手と、膝をつくエリザベートの姿を交互に見つめている。
「あの、大丈夫ですか? 何かお体に合わなかったのなら、申し訳ありません。私、本当に悪いものなんて入れていなくて」
クレアは本当に心配しているようだった。自分のせいで人が苦しんでいるという事実に、その桃色の瞳が揺れている。
そして声をかけられたエリザベートの顔は、パッと明るくなった。
「クレア! 心配してくれるのね! ありが、って、またですわ。またわたくしの口が勝手に」
エリザベートは慌てて口を押さえた。自分の声が、自分の意志とは無関係に言葉を紡いでいく恐怖。
「これは、本当にまずいわ」
ソフィアが手帳を確認した。
「えーっと、このチョコレートの効果時間は……あら? 手帳には名前は出ていますが、それ以上の情報はありません。おそらくこの手帳が追跡できる範疇の品物ではないのだと思われます」
「追跡できないって、それはどういうこと?」
「はい。この品物は、システムに元から組み込まれたものではなく、外部から持ち込まれた特殊なものだということです」
カイルが眉をひそめた。
「外部から。つまり、あの『プレイヤーのレベルアップ』の時に開放された『特殊アイテムの取引所』の品物ということか」
「そのようです。前回の手帳の予告で出てきた『プレイヤー』の『アイテム』です」
「では、効果時間は」
「書いてありません。項目が空白のままです。まさか……」
「まさか何よ!?」
「永続効果、かもしれません」
「そんな」
エリザベートの血の気が引いた。永続効果。その二文字が、重く胸にのしかかる。
カイルが眼鏡の奥の瞳を鋭くした。
「いや、待て。エリザベート嬢の抵抗により、システム自体が不安定になっているようだ。これは想定外の事態だ」
「想定外って何が想定外なのよ!? わたくしの頭の中でクレアの声が反響して止まないのよ!?」
エリザベートはもはや半分取り乱していた。
ルカスが静かに提案した。
「とりあえず、エリザベート様を安全な場所に移しませんか?」
「そうだな。今日はもう休んだ方がいい」
ジークハルトが同意しかけた時、エリザベートは突然立ち上がった。
「屈するわけにはまいりませんわ! 休んだら、クレアの魅力に抵抗できなくなる! 戦い続けますわ!」
「クレア、今度一緒にお茶しませんこと? って、また。またわたくしの口が、信じられない言葉を紡いでいますわ」
仲間たちは顔を見合わせた。これは想像以上に深刻な状況かもしれない。
夕日が中庭を赤く染める中、エリザベートの戦いは始まったばかりだった。




