第8話:プレイヤーの困惑
スマートフォンの青白い光が、薄暗いワンルームを照らしていた。
コンビニ弁当の空き容器、ぬいぐるみの群れ、充電ケーブルの絡まり。典型的な一人暮らしOLの巣窟だ。エアコンの効いた室内にはコーヒーの香りが漂っている。
彼女は二十代後半のOLで、残業続きの平日を乙女ゲームで癒やすのが唯一の楽しみだった。今夜も会社から帰ってきてすぐに、お気に入りのゲーム『聖女と守護者のラプソディ』を起動していた。柔らかなクッションに体を沈めながら、スマホの画面を見つめる彼女の表情は、仕事中の疲れ切った顔とは別人のように生き生きとしている。
このゲームは、超王道のストーリーを美麗なグラフィックで描いて話題になった人気作だが、同時に「バグの多さ」でも有名だった。もっとも、それらは進行不能になるような致命的なものではなく、キャラクターが一瞬変な顔になったり、背景が微妙にずれたり、効果音が重複したりといった、むしろ愛嬌のある些細なものばかりだ。一部のプレイヤーたちは、そんなバグを見つけて報告し合うことを楽しんでおり、「今日はどんな面白バグが出るかな」と期待しながらプレイしている。
「んー、これもバグかな?」
彼女はスマホを持つ手の位置を変えながら、興味深そうな声を漏らした。画面に映るゲームの世界は美しく、イケメンキャラクターたちも相変わらず魅力的だ。しかし、昨日から続いているキャラクターたちの挙動が、いつものバグとは少し様子が違う気がする。
問題は、昨日から続いているキャラクターたちの「異常な挙動」だった。
「レオンくん」
彼女は画面に表示されるゲームログを振り返った。
『14:15 - レオン、廊下の曲がり角でクレアと衝突』
『14:15 - レオン:「怪我はないか、可憐な君」』
『14:16 - イベント終了』
『14:16 - レオン、クレアから高速で離脱』
「なんで抱きとめた後に全力疾走で逃げてるの? 面白いバグね」
彼女は最初、くすりと笑った。このゲームなら、キャラクターが変な動きをすることなど珍しくない。むしろ、そのシュールさが話題になって、攻略サイトのバグ報告コーナーが盛り上がるのがいつものパターンだった。
通常なら、衝突イベントの後はそのまま会話が続き、好感度が上昇するはずなのに、レオンは台詞を言い終わると同時に画面の端まで猛スピードで駆けて行ってしまった。その動きはまるで何かに追われているかのようだった。
「でも、ちょっと変かも」
彼女は小さく呟き、スマホを横向きにして画面を拡大した。画面の明かりが彼女の頬を照らし、集中している時特有の真剣な表情が浮かんでいる。いつものバグなら笑って済ませるところだが、今回はなぜか違和感が残った。
さらに奇妙だったのは、今日の図書館イベントだった。
「カイルくんのイベントも始まらないし。これは新しいパターンね」
彼女は再びログを確認した。
『14:30 - 図書館にてカイル接触イベント開始予定』
『14:30 - エリザベート、ジークハルトと口論開始』
『14:31 - レオン、図書館内で威圧感発動』
『14:32 - 生徒大量離脱』
『14:33 - イベント強制中止』
「取り巻きが邪魔して近寄れないのか。面白いじゃない」
彼女の声には最初、興味深そうな響きがあった。マグカップを手に取り、一口飲む。コーヒーの苦味が口の中に広がった。
通常なら、悪役令嬢のエリザベートは嫌がらせをするか、せいぜい遠くから睨みつけるだけのはずだ。それなのに、今回は王太子と堂々と口論を始め、しかも図書館で大騒ぎをして、カイルに近づけないようにブロックしてきた。
「エリザベートのAI、攻撃的になってる? 隠し仕様かな」
彼女はスマホを軽く振ってみた。壊れたテレビのチャンネルを直すかのような、古典的な対処法だった。当然ながら、何も変わらない。
しかし、だんだん笑っていられなくなってきた。
さらに困惑させられるのは、ソフィアの挙動だった。
ソフィアは本来、プレイヤーに攻略のヒントを教えてくれる解説役のキャラクターのはずだ。「今がチャンスです!」とか「この選択肢を選んでください」といった具合に、適切なタイミングでアドバイスをくれる、ゲーム攻略には欠かせない存在だった。
ところが今回は。
「なんで解説キャラがエリザベートと内緒話してるの?」
彼女は画面を睨みつけた。ゲーム内でソフィアは、本来なら敵対関係にあるはずのエリザベートと頻繁に会話し、何かを相談し合っているような素振りを見せている。それも、プレイヤーキャラクターであるクレアには聞かれたくないかのように、わざわざ離れた場所で。
「でも、これもバグの延長かも?」
彼女は困惑しながら、スマホの設定画面を開いた。アプリのバージョンをチェックし、キャッシュをクリアし、一度ゲームを再起動してみる。スマホの操作音が静かな部屋に小さく響き、再起動の間に表示されるローディング画面の音楽が流れる。
しかし、状況は改善されなかった。
むしろ、キャラクターたちの「異常な挙動」は日に日にエスカレートしているような気さえする。
「うーん」
彼女は立ち上がって、部屋の電気をつけた。明るくなった部屋には、彼女の趣味が反映された様々なグッズが散らばっている。本棚にはゲーム攻略本がずらりと並び、デスクの上には他の乙女ゲームのキャラクターグッズが飾られていた。
彼女はノートパソコンを起動し、攻略サイトにアクセスした。スマホゲーなのにパソコンで見るのは謎だが、こういうときは大きな画面のほうが落ち着く。
『聖女と守護者のラプソディ - 完全攻略wiki』
まずはバグ報告コーナーを開いてみる。このゲームではバグ報告が一種のエンターテインメントになっており、面白いバグを見つけたプレイヤーたちが競うように投稿していた。
『今日のバグ報告』
『ルカス様の祈りの最中に鳥が横切って爆笑』
『背景の花が一瞬全部同じ方向に向いた』
『モブ生徒が壁にめり込んで歩いてる』
いつもの微笑ましいバグ報告が並んでいるが、レオンの「高速逃走」やエリザベートの「組織的妨害工作」について言及している投稿は見当たらない。
彼女は眉をひそめて、検索窓に「レオン 衝突 逃げる」と入力してみる。
検索結果は、ゼロ件。
「えー」
彼女は検索ワードを変えてみた。
「カイル 図書館 イベント 発生しない」
これも該当なし。
「エリザベート 王太子 口論 図書館」
やはり情報がない。
「私だけなの?」
彼女は掲示板を開いて、最新の書き込みを確認した。画面をスクロールする指が少し震えている。他のプレイヤーたちの投稿が次々と表示されていく。
『今日もバグ探し楽しい! 背景の雲がずっと同じ形で笑った』
『カイルくん図書館イベント、眼鏡クイって仕草が最高!』
『レオンの衝突イベント、今日は薔薇の花びらが3枚多く降ってきた(どうでもいいバグ)』
『ソフィアちゃんのヒント、いつも的確で助かる〜』
彼女は画面を見つめたまま固まった。
「え?」
他のプレイヤーたちは、普通にゲームを楽しんでいる。しかも、いつものようにバグを見つけて楽しんでいる人もいるが、それは「薔薇の花びらが3枚多い」といった本当に些細なものばかりだ。カイルの図書館イベントも正常に発生しているし、レオンも逃げていない。ソフィアも正常にヒントを出しているようだ。
「なんで私だけ?」
彼女は混乱しながら、自分のゲーム画面をもう一度確認した。スマホとパソコンの両方の画面が彼女の顔を照らし、困惑の表情を浮き彫りにする。
確かに、自分のゲーム内では明らかにキャラクターたちがおかしな行動を取っている。それも、彼らに意志があるかのように、プレイヤーの意図に反した行動を。
「まさか」
彼女の脳裏に、ある可能性が浮かんだ。
彼女はゲーム情報サイトの「よくある質問」のページを開いた。画面に表示される文字を追いながら、特定の項目を探している。
『Q:キャラクターが思い通りに動きません』
『A:好感度やフラグの設定を確認してください。特定の条件を満たしていない場合、イベントが正常に発生しない可能性があります』
「好感度」
彼女は慌ててゲーム内のステータス画面を開いた。
『レオン・バートリ:好感度 -15』
『カイル・オーウェン:好感度 -22』
『ルカス・ゼーレ:好感度 -8』
『ジークハルト・ラウフェン:好感度 -45』
「マイナス!?」
彼女は目を見開いた。通常、ゲーム開始時の好感度はゼロからスタートし、プラス方向に上げていくものだ。マイナスになることなど、考えたこともなかった。
「なんでマイナスなのよ」
彼女は慌てて攻略サイトで「好感度 マイナス」を検索した。しかし、該当する情報は見つからない。そんな現象について言及している攻略記事は皆無だった。
「バグだよね? これ絶対バグだよ」
彼女はつぶやきながら、ゲームの公式サポートページを開いた。問い合わせフォームに必要事項を入力し始める。キーボードを叩く音が苛立ちと共に激しくなり、タイピング音が部屋に響く。
しかし、送信ボタンを押す直前で手が止まった。
「でも、他の人は正常にプレイできてるんだよね?」
彼女は困惑した。問い合わせをしても、「お客様の環境のみで発生している現象で、再現できません」と返されそうな気がした。そして何より、彼女には心当たりがあった。
「まさか、課金で解決する系のバグ?」
彼女は振り返って、自分のゲーム課金履歴を確認した。彼女の総課金額は、まだ数千円程度。他の重課金プレイヤーたちに比べると、決して多い額ではない。
「そんなまさか」
しかし、このゲームは確かにバグが多いことで有名だった。もしかすると、課金額に応じてゲーム体験が変わるような「隠しバグ」が仕込まれている可能性もある。
「もしかして、課金が少ないプレイヤーには、キャラクターたちが協調しないバグ?」
彼女はその可能性について考えた。それなら、好感度がマイナスになっているのも、キャラクターたちが思い通りに動かないのも説明がつく。しかも、他のプレイヤーには発生していないということは、課金額によって発生条件が変わる特殊なバグということになる。
彼女はゲーム内のショップ画面を開いた。画面に並ぶ色とりどりのアイテムが、宝石のようにキラキラと輝いている。それぞれに価格が設定されており、特別なアイテムほど高額になっている。
『特別パック:王子様の愛情』
『効果:ジークハルトの好感度を強制的に最大値に固定』
『価格:4,980円』
ランチ三回分で、王太子の心を永久に支配できる。値段のつけ方がおかしい。
『魅惑のオーラ』
『効果:すべての攻略対象の好感度を一時的に+50』
『価格:2,480円』
『運命の再構築』
『効果:過去のすべての選択肢をやり直し可能』
『価格:9,800円』
「高いな。でも、これでバグが直るなら」
彼女は画面を見ながら考え込んだ。バグ修正のために課金するのは本末転倒な気もするが、このままでは楽しめない。そして何より、このゲームは彼女にとって貴重な癒やしの時間だった。
彼女は自分の銀行残高を思い浮かべた。今月はまだ余裕がある。ボーナスも出たばかりだ。
「仕方ないか」
彼女は諦めたようにつぶやき、クレジットカード情報を入力し始めた。パスワード入力の際の電子音が小さく響き、決済画面の進行を表すプログレスバーが静かに進んでいく。
しかし、購入確認画面で手が止まった。
「でも、本当にこれで解決するの?」
彼女の心に疑問が浮かんだ。もし課金をしても状況が改善されなかったら? もしこれが本当にバグで、お金を無駄にしてしまったら?
彼女は画面を見つめながら、しばらく考え込んだ。部屋の時計が午後十一時を指しており、針の進む音だけが静寂を破っている。
そのとき、スマホの画面に新しい通知が表示された。
『期間限定! 特別セール開催中!』
『今なら課金アイテム30%オフ!』
『さらに初回購入特典として、限定アイテムをプレゼント!』
「セール」
彼女は画面に吸い込まれるように見入った。セール価格で表示されたアイテムたちは、いつもより魅力的に見える。
『魅了のチョコレート』
『効果:対象のNPCを一時的に意のままに操ることが可能』
『通常価格:3,980円 → セール価格:2,786円』
『※新規購入特典アイテム※』
「意のままに操る」
彼女の瞳が輝いた。フリマアプリで掘り出し物を見つけた時と同じ輝き方だった。三千円弱で他者の自由意志を奪えるなら、お得と言えなくもない。もちろん彼女は、自由意志を奪える、などとは考えていない。バグを直す便利アイテムだと思っているだけだ。
「でも、ちょっと物騒なアイテムね」
彼女は説明文を読み返した。「意のままに操る」という表現が、なんとなく後味の悪さを感じさせる。通常のゲームプレイでこんなアイテムを使うなんて考えたことがなかったが、バグ対策なら仕方ない。
「まずはジークハルトで試してみようかな」
彼女は決意を固めた。好感度が最も低いジークハルトに魅了のチョコレートを使用し、バグが修正されるかどうか確認してみよう。もしこれで正常に戻るなら、やはり課金関連のバグだったということになる。
彼女の指先が、購入ボタンに向かって伸びていった。
画面の光が指先を照らし、決済処理中の表示が現れる。彼女の鼓動が少し早くなり、期待と不安が入り混じった感情が胸の奥で渦巻いている。
「これでバグが直ってくれればいいんだけど」
彼女は小さくつぶやきながら、ゲーム画面に戻った。
購入した「魅了のチョコレート」が、クレアのアイテム欄に追加されている。キラキラと光るアイコンが、本物のチョコレートのように美味しそうに見えた。
「明日、学園で使ってみよう」
彼女は決心を込めて呟いた。
満足げにスマホを充電ケーブルに繋ぎ、布団に潜り込む。
明日はきっと上手くいく。バグも直って、ジークハルト様も素直になってくれるはず。
スマホの画面が暗転する。
その奥で、六人の若者たちが眠れぬ夜を過ごしていることを、彼女は知らない。




