第10話:歪みゆく世界
チョコレート事件から三日が経ったが、エリザベートの状況は一向に改善されなかった。
朝の身支度中、鏡に映る自分を見つめながら、彼女は深いため息をついた。縦巻きロールの髪は相変わらず美しく整えられているが、その青い瞳には深い苦悩の影が宿っている。鏡の表面は朝の光を反射し、部屋全体を柔らかく照らしていた。
「おはようございます、お嬢様」
侍女のマリエンヌが朝の挨拶をすると、エリザベートの口から予想外の言葉が漏れた。
「おはようマリエンヌ。今日もクレア様は元気かしら、って、ああああああ! また出た!」
エリザベートは両手で口を押さえた。それでも、心の奥からクレアへの好意が湧き上がってくるのを止めることができない。絹の手袋の感触が頬に伝わり、その冷たさが彼女の混乱を際立たせる。
「嫌だわ。なぜ朝一番からクレアのことを考えているのよ。しかも『様』付けで呼んでいるし。わたくし、クレアに敬語を使っているなんて」
鏡の中の自分の表情を見て、エリザベートはさらに愕然とした。いつの間にか、穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。悪役令嬢らしい高慢な表情のかけらも見当たらない。
「これは、なんということ。悪役令嬢の顔じゃないわ。聖母のような表情になっていますわ」
慌てて表情を戻そうとするが、クレアのことを考えると自然に優しい顔になってしまう。頬の筋肉が勝手に動き、口角が上がって穏やかな笑みを作り出してしまうのだ。
マリエンヌはにこにことエリザベートを見守っている。相変わらず彼女には現在の状況が理解できておらず、エリザベートの変化を温かく受け入れているようだった。
「お嬢様がお友達を大切になさるようになって、とても素晴らしいことです」
マリエンヌの言葉は真心から出たもので、その優しい響きがエリザベートの心をさらに混乱させる。
「友達じゃないのよ。わたくしは、わたくしは。ああ、でもクレアの笑顔は本当に可愛いのよね」
またしても優しい表情になってしまい、エリザベートは頭を抱えた。
* * *
学園の教室では、さらに困った事態が起こっていた。
エリザベートが席に着くと、自然にクレアの方向を向いてしまう。クレアは今日も栗色の髪を可愛らしく結んで、瞳の色に合わせた桃色のリボンをつけている。教室に差し込む午前の陽光が、彼女の髪を金色に輝かせていた。
「あら、今日のリボン、とってもクレアに似合っているわね」
エリザベートは思わず呟いてしまい、慌てて口を押さえた。周囲の生徒たちの話し声がざわめく中、自分の声だけが妙に大きく聞こえる気がする。
「いけない。悪役令嬢がヒロインを褒めるなんて、物語の根幹が瓦解しているでしょ。なのに何の手も打たないなんて、肝心な時に役立たずな『システム』ってどうなのよ?」
エリザベートがシステムに悪態をついたその時、教室に奇妙な現象が起こり始めた。
まず、黒板の一部が透明になった。教師が白チョークで書いた数式の文字が薄くなり、黒板拭きで撫でられたかのように見えづらくなっている。チョークが黒板に触れる音も、いつもより鈍く響いている。
「おや? 黒板がちょっと見えにくいな」
教師が首をかしげているが、特に慌てた様子もない。眼鏡を拭いて、もう一度黒板を見つめ直している。
次に、壁の一部分だけ、古い漆喰が剥がれるように色褪せ始めた。石積みの模様が部分的に平坦になり、手抜き工事をしたかのような仕上がりになっている。触ってみると、本来の石の重厚感は失われ、軽くて薄い板のような感触になっていた。
しかし、周囲の生徒たちは全く気にしていない。むしろ感心したような声を上げている。
「教室の壁、今日は芸術的ですね」
「装飾を剥ぎ取った素朴な意匠、とても素敵です」
「最近の学園は、こういう斬新な趣きが流行りなのでしょうか」
生徒たちは明らかに異常な光景を、意図的な装飾のように褒めそやしている。その声に混じって、ペンで紙に文字を書く音、教科書のページをめくる音が、いつもより規則的に響いていた。
エリザベートはドレスの襟元に汗がにじむのを感じながら、冷や汗をかいていた。
(これって、まさかわたくしのせい?)
カイルが振り返って、エリザベートと目を合わせた。その眼鏡の奥の瞳には、明らかに「君が原因だろう」という視線が込められている。眼鏡のレンズが教室の照明を反射し、鋭い光を放っていた。
ソフィアも手帳を開いて、慌てて何かを記録し始めた。ペン先が紙を走る音が小刻みに響き、手帳からは「ピピピピピ」という警報音が漏れている。
「まずいです。エリザベート様の状況が、周囲に影響を与え始めてます」
ソフィアは息を潜めて報告した。手帳には次々と新しい文字が浮かんでいる。
『異常報告:教室内装変化』
『原因:設定矛盾による影響』
『悪役令嬢→ヒロイン好意度:異常値』
「好意度ですって? そのような項目が勝手に作られるなんて」
エリザベートは小声で抗議したが、その瞬間、クレアが振り返った。椅子の脚が床に当たる音が小さく響く。
「あの、エリザベート様。私に何かおっしゃいましたか?」
クレアの桃色の瞳と視線が合った瞬間、エリザベートの胸が跳ねた。心臓の鼓動が耳元で響き、頬に血が上るのを感じる。
「あ、いえ、その、お疲れ様です」
エリザベートは思わず丁寧語で答えてしまった。自分の声が上ずっているのが分かって、さらに動揺する。
「『お疲れ様です』って何よ? わたくしともあろう者が、クレアにそのような口をきくなんて」
慌てて席に戻ろうとしたが、その時、エリザベートの足元の床が一瞬だけ波打った。水面のように、石の床がゆらりと揺れたのだ。足裏に伝わる振動が気持ち悪く、思わず均衡を崩しそうになる。
しかし、周囲の生徒たちの反応は相変わらずだった。
「床の揺らぎ、とても心地よいですね」
「学園の新しい安らぎの設えでしょうか」
「さすがは王立学園、素晴らしい設備ですわ」
彼らの声には心からの感嘆が込められており、本当に新しい設備だと信じ切っているようだった。
エリザベートは机に突っ伏した。木製の机の表面は冷たく、頬に当たると少しざらざらした感触がする。
「もう限界だわ。クレアのことが気になって仕方がないの。今も『大丈夫かしら、驚いていないかしら』って心配している。自分で自分の気味が悪いわ」
* * *
昼休み、緊急招集された仲間たちは、学園の裏庭に集まった。
ここは比較的システムの影響が少ない場所で、世界の異常も小規模に留まっている。せいぜい花の色が時々変わったり、鳥が逆さまに飛んだりする程度だった。石のベンチに座ると、ひんやりとした感触が太ももに伝わってくる。
「エリザベート、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
ジークハルトが心配そうに声をかける。彼の金髪が風になびき、シャツの生地が微かにこすれる音がする。
「大丈夫ではありませんわ。わたくし、もうクレアのことが気になって気になって。授業中もずっとクレアの方を見てしまって、先生に『恋する乙女だな』なんて言われてしまいましたの」
エリザベートは指先で額を押さえて叫んだ。
「恋する乙女って何よ。わたくしは悪役令嬢ですのよ。しかも相手がヒロインだなんて、既に物語が成立しなくなっていますわ」
カイルは眼鏡を押し上げながら、冷静に状況を分析していた。レンズが午後の陽光を反射し、知的な光を放っている。
「問題は深刻だ。エリザベート嬢の感情の変化が、彼女の基本設定と矛盾している。そのせいで、エリザベート嬢の魔力の制御に問題が生じ、周囲の環境にも影響が出始めている」
そこで一度言葉を切り、カイルはエリザベートを真っ直ぐに見た。
「一つ聞いてもいいか。前々から気になっていたのだが、エリザベート嬢。これだけの魔力を持ちながら、なぜ魔術をもっと学ぼうとしなかった? その気になれば、大抵の王宮魔導師を上回れるだろうに。……惜しいことだ」
その声には純粋な知的関心と、研究者としての率直な惜しみがあった。
「ほかに優先すべきことがあるからよ」
エリザベートは即答した。
「わたくしは将来の王妃であって、魔術師ではないもの。わたくし程度の魔力を持つ人間はほかにもいるわ。けれど、王妃はわたくししか務まらない」
そしてほんの一拍の間を置いて、付け加えた。
「もし、あなたのように唯一無二の天才なら、魔術を極めることも考えたかもしれないけれど」
カイルは眼鏡の奥で目を瞠り、それ以上何も言わなかった。しかしその沈黙は不快なものではなかった。互いに「この人物は自分を正確に測っている」と確認した、静かな了解の沈黙だった。
ルカスも心配そうに眉をひそめていた。
「今朝の礼拝でも、祭壇の花が突然虹色に変わりました。美しいと言えば美しいのですが、自然のものではありませんね」
ソフィアが手帳を見ながら報告した。頁をめくる音が風に混じって響く。
「私の手帳も、変な情報ばかり出てきます。『エリザベート様のヒロイン好感度』なんて項目が勝手に追加されて、数値がどんどん上がってるんです」
「人の心を数値で管理するなんて。なんという世界ですの」
エリザベートの声には疲労が混じっている。この三日間の尽きることない内面の葛藤が、彼女の体力をも奪い始めていた。
「好感度は今、95まで上がってます」
「95!? まさか、これ以上上がるというの?」
エリザベートは手をバタバタと振ったが、その瞬間、中庭の向こうでクレアが歩いているのが見えた。栗色の髪が風に揺れ、スカートが軽やかに舞っている。となりの女生徒と何か話し込んでおり、時折こぼれる笑い声が風に乗って届いてくる。
「あら、クレアが歩いているわ。愛らしいこと」
エリザベートの顔が自然にほころんだ。頬の筋肉が緩み、口元に優しい笑みが浮かぶ。
「また! この顔はわたくしの顔ではありませんわ。悪役令嬢の矜持が、こんな穏やかな笑顔で台無しにされているのよ!」
レオンが困惑した顔をしていた。
「えーっと、エリザベート。俺たちはどうすればいいんだ? チョコレートの効果を消すには」
「それが分からないから困っているんでしょ! カイル様の魔法でも、ルカス様の祈りでも、消えないのよ。クレアへの感情が、わたくしの中に深く根を下ろしてしまった」
エリザベートの声は次第に小さくなっていく。疲労と絶望が入り混じり、普段の気の強さが影を潜めていた。
カイルが考え込んだ。
「そもそも、この『魅了のチョコレート』というアイテムは、本来なら攻略対象がヒロインを愛するように設計されているはずだ。それを悪役令嬢が食べたことで、想定外の事態が発生している」
その時、学園の建物から「ペリペリ」という音が響いてきた。古い壁紙を剥がすような、乾いた音だった。
振り返ると、校舎の一部分で壁の表面がめくれている。その下からは、何の装飾もない灰色の平面が現れていた。剥がれた部分を触ってみると、本来の石の重厚感は失われ、軽くて薄い板のような感触になっている。
「壁が、舞台のセットのように剥離していますわ!」
しかし、通りかかった生徒たちの反応は相変わらずだった。
「建物のお化粧直しですね」
「素材感を活かした簡素な意匠、とても芸術的です」
「王立学園の美意識の高さが伺えますね」
彼らの声には心からの賛美が込められており、異常な光景を芸術作品として鑑賞しているようだった。
ソフィアが手帳を見て青くなった。
「『建物表層剥離現象』って記録されてます。世界の見た目が不安定になってるようです」
ルカスが空を見上げて呟いた。
「言われてみれば、空の雲もなんだか薄く見えますね。幕に描いた絵のような」
確かに、空に浮かぶ雲が妙に薄っぺらく、書き割りの背景のような質感になっている。風に流されるはずの雲が、決まった形でしか動いていない。
エリザベートは手で顔を覆った。絹の手袋の感触が頬に冷たく伝わる。
「わたくしの感情の矛盾が、世界をこんなふうにしてしまったのね」
彼女の声は震えており、罪悪感と自己嫌悪が入り混じっている。
「そんなことを言うな」
ジークハルトが力強く言った。その声には、仲間への確かな信頼が込められている。
「君は自分の意志でクレアを好きになったわけじゃない。あの妙なアイテムの効果だ。断じて君のせいじゃない」
「でも、結果的に世界を歪ませているのは事実ですわ。名実ともに世界の敵になるとは、皮肉ですわね」
その時、エリザベートの視界に再びクレアが映り込んだ。世界の変化に全く気づかず、すれ違う生徒にひとつひとつ笑顔で会釈しながら歩いている。風に揺れた栗色の髪を片手で押さえ、もう片方の手で教科書を抱えるその姿は、ごく普通の学園生活を送る少女そのものだった。
「ああ、クレアが笑っているわ。あんな綺麗な笑顔で。罪の意識なんて感じる必要ないのかも、って、また! 罪悪感まで愛情に書き換えられている!」
エリザベートの叫び声と共に、足元の地面に小さな亀裂が入った。石畳が分かれ、その隙間から不自然な光が漏れている。
ルカスが慌てて聖歌を歌い始めた。美しいバリトンの声が庭に響き渡る。
「世界よ、安らかであれ。秩序よ、戻りたまえ」
カイルも魔法陣を描いて地面の亀裂を修復しようとしている。青い光が指先から伸び、石畳の隙間を縫うように走っていく。しかし、すぐにまた新しい亀裂が現れる。
「応急処置はできるが、根本的な解決にはならない。エリザベート嬢の状況が改善されない限り、世界の異常は続くだろう」
ソフィアが手帳を見ながら報告した。
「新しい情報です。『対処法:時間経過による自然回復』って書いてあります」
「時間経過って、どのくらい?」
「えーっと、『推定期間:不明』」
エリザベートの肩が落ちた。
「不明って何よ。いつまでこの状態が続くのよ」
レオンが剣の柄を握りしめた。金属の冷たい感触が手の平に伝わる。
「とりあえず、エリザベートを守ることから始めようぜ。もし状況が悪化したら」
その時、空に小さな文字が浮かんだ。雲で書かれたかのように、薄っすらと空に現れている。
「あら? 空に何か文字が」
ソフィアが指差した先には、雲の間に薄っすらと文字が見える。
『システム監視中 異常値観測 対応検討中』
「監視って何よ。わたくしたち、見張られてるの?」
エリザベートの声には不安が色濃く滲んでいる。
「とりあえず、まだ『検討中』ですから、すぐに何かされることはないと思いましょう」
ソフィアがそう言った時、文字が更新された。風もないのに、見えない手で書き換えられたかのように文字が変わる。
『対応方針:経過観察継続』
「経過観察。つまり、しばらく様子見ということか」
カイルが分析した。
「おそらく、システム側も予想外の事態で、どう対処すべきか分からないんだろう。それが我々にとって幸いしている」
エリザベートは少し安堵の表情を見せたが、その顔にはまだ不安の影が残っている。
「とりあえず、すぐに消されたりはしないのね。でも、この『クレア愛』はどうしたらいいのよ」
彼女の声は疲労で少しかすれていた。三日間の尽きることない内面の葛藤が、彼女の精神を徐々に蝕んでいる。
ジークハルトがエリザベートの手を握った。その手は温かく、確かな現実感を伝えてくる。
「一緒に解決策を探そう。君一人の問題じゃない。我々みんなの問題だ」
レオン、カイル、ルカスも頷いた。ソフィアが手帳を抱きしめる。五人の視線が、エリザベートに集まっていた。
エリザベートは唇を噛み締め、瞳を伏せた。長い睫毛が震えるように揺れ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「皆、ありがとう」
夕風が薔薇園を吹き抜けた。空に浮かぶ『経過観察継続』の文字は、もはや脅威には感じられなかった。
ソフィアがそっと手帳を開く。そこには新しい数値が表示されていた。
『エリザベート→クレア好感度:98.5』
数値は少しずつ、しかし確実に上昇し続けている。
ソフィアは手帳をそっと閉じ、何も言わなかった。




