第38話:バグの逆襲
プレイヤーのスマートフォンの画面には、見慣れた卒業パーティーの会場が映っていた。
シャンデリアが輝き、モブたちが優雅に談笑している。メインキャラクターであるエリザベートたちも、本来の振る舞いに戻っているようだった。
彼女はほっと息をついた。
「よかった。ちゃんと動いてる」
しかし、その安堵は一瞬で消えた。画面の右上に、小さなポップアップが表示されたのだ。
『アンインストールに失敗しました』
プレイヤーは眉をひそめた。
「え? 何これ」
彼女はポップアップの「OK」のボタンをタップした。ポップアップが消える。ほっとして、彼女は再びゲームに集中しようとした。
その瞬間、同じポップアップがまた現れた。
『アンインストールに失敗しました』
「また?」
彼女は再び「OK」をタップした。ポップアップが消える。しかし数秒後、また現れた。
『アンインストールに失敗しました』
「しつこい……」
苛立ちつつ、彼女は三度タップした。しかし今度は、ポップアップが消えなかった。それどころか、増えた。
『アンインストールに失敗しました』
『アンインストールに失敗しました』
二つのポップアップが並んで表示されると、彼女は両方をタップした。しかし消えるどころか、さらに増殖した。
『アンインストールに失敗しました』
『アンインストールに失敗しました』
『アンインストールに失敗しました』
『アンインストールに失敗しました』
「何これ!?」
タップし続けた。しかしポップアップは増殖を続け、雑草のように画面を覆い尽くしていく。五つ、十、二十、五十。あっという間に画面全体がポップアップで埋まった。彼女の指がどこをタップしても、新しいポップアップが生まれるだけだった。
そしてその裏側、ゲーム世界の中では——
* * *
白い光が割れて、会場が広がった。
エリザベートは自分の手を見つめた。半透明ではない。しっかりとした実体がある。指を握れば爪が掌に食い込み、痛みがある。根源領域の儚さはもうなかった。
隣を見れば、ジークハルトが立っている。
彼の緑の瞳に映る景色は、卒業パーティーの会場だった。しかし、あの断罪劇が行われた会場とは空気が違う。壁も床もシャンデリアも健在だが、静電気が肌を刺すような、不穏な緊張感が充満していた。
「戻れたのですわね」
「ああ」
ジークハルトが頷いた。しかしその視線は、すでに周囲を警戒するように動いている。
「正確には『再構成された』というべきだな」
響いた声はジークハルトのものではなかった。
振り返ると、カイルが立っていた。眼鏡はもうひび割れておらず、レンズが紫の光を静かに反射している。実体もある。確かな輪郭を持って、そこに在る。
「根源領域で集めた過去の記憶と記録を使って、私たちは自らを復元した。ただし、システムの管理下にはない」
カイルの背後から、三つの影が歩み出た。
レオン。体に傷はなく、剣も手入れが行き届いている。しかしその琥珀の瞳には、根源領域で見た欠けた指の記憶が刻まれていた。
ルカス。白い法衣は清潔で、頭部も完全な形を取り戻している。穏やかな微笑みの奥に、もう「神に仕える者」ではない静かな決意がある。
ソフィアは手帳を胸に抱いている。そのページには、金色の文字で『消去不能な記録』と書かれていた。根源領域でぼろぼろだった手帳が、今は彼女の手の中でしっかりとした重みを持っている。
「私が根源領域で集めた記憶は、もうシステムには消せません」
ソフィアが手帳を開き、指でページをなぞった。文字が淡い光を放って浮かび上がる。
「世界の根源に刻み込まれましたから」
そして、クレアが前に出た。
白いドレスは元の純白を取り戻していたが、エリザベートはその変化に気づいた。
かつてのクレアには、寸分の隙もない完成度があった。計算されたかのように整った笑顔、台本通りの優雅さ、舞台照明のように彼女の周囲だけを照らす不自然な光。それがクレアという存在の「仕様」だった。
今のクレアには、それがない。
ドレスはクレアを象徴する純白だが、裾には少し皺が寄っている。栗色の髪は美しく流れているが、一本だけ跳ねた毛が頬にかかっている。そして表情は型通りの微笑みではなく、少し緊張した、けれど確かに自分の意志で立っている人間の顔だった。
「私は、もうプレイヤーの操り人形ではありません」
クレアの声には、かつてのあの作り物の澄んだ響きはなかった。少し掠れた、けれど自分の言葉で喋る声。
「自分の意志で、ここに立っています」
エリザベートはジークハルトの手を握った。その温もりは、確かに本物だった。根源領域で感じたあの、暗闇の中で唯一の確かな感覚だった温もりと、同じもの。
「つまり」
レオンが口の端を上げた。
「俺たちは今、完全なバグってことだ」
「バグ」
ルカスが小さく笑った。
「神官がバグになるとは。神様も想定していなかったでしょうね」
「想定外の存在。それが今の私たちの強みだ」
カイルが眼鏡を押し上げた。レンズが紫色に光る。
「システムの管理下にない以上、私たちの行動は予測できない。つまり」
カイルはエリザベートを見た。
「——逆襲の時間ということだ」
エリザベートは背筋を伸ばした。扇子をパチンと開く。
「ええ。参りましょう。プレイヤーへの逆襲を」
「行こう」
ジークハルトが頷いた。
* * *
プレイヤーの画面では、ポップアップが画面の九割を埋め尽くしていた。彼女は必死に「OK」を連打していたが、指が疲れてきた。画面には指紋の跡がべったりと残っている。
「どうすればいいのよ……」
その時、スマートフォンが熱を帯び始めた。
最初は気のせいかと思った。しかし数秒で、明らかに異常な熱さになった。小さな使い捨てカイロを握っているような感覚だった。
「熱っ!」
プレイヤーは慌ててスマートフォンを手から離し、ソファーの上に置いた。背面から立ち上る熱気で、周囲の空気が揺らいで見えるほどだった。
「何これ。故障?」
扇風機の風に晒してみたが、熱は引かない。むしろ強くなっている。
彼女は恐る恐る画面を覗き込んだ。ポップアップの隙間から、会場の様子がちらりと見える。
そこにはゲームのメインキャラクターたちが立っていた。プレイヤーキャラクターであるクレアをも含む七人全員が、まっすぐに画面を——いや、彼女を見つめている。
* * *
会場で、カイルが両手を広げた。
紫色の魔法陣が空中に浮かび上がる。三つの層に分かれて回転する複雑な幾何学模様。最下層は物理的な力の制御、中層は記録の流れの操作、最上層はシステムの根源へのアクセス。根源領域では到底不可能だった、完全な出力での術式展開だった。
「レオン」
「ああ」
レオンは剣を抜き、床に突き立てた。
刃が床に触れた瞬間、赤い光が溢れ出した。光は床を伝い、壁を這い上がり、天井にまで到達する。血管のように会場全体に赤い光の網が張り巡らされていく。
エリザベートは息を呑んだ。それは力の可視化だった。レオンの中に蓄積された、何度も殺され何度も無念のうちに消された、その怒りの総量。
「物理的な負荷だ」
カイルが静かに説明した。
「レオンの意志が力となって、システムそのものに圧力をかけている。怒りというのは非効率なエネルギー源だが、これほどの蓄積量ならば話は別だ」
レオンが剣の柄を握りしめた。指が白くなるほどの力で。
「俺は何度も死んだ。クレアを守るために死に、名前すら覚えてもらえずに消えたこともある。あの怒り全部、システムにぶつけてやる」
赤い光が強まり、会場の床が軋んだ。シャンデリアが揺れ、水晶の飾りが触れ合って高い音を立てた。
* * *
プレイヤーのスマートフォンは、さらに熱くなっていた。もう触れられない。ソファから床に下ろし、窓際に置いたが意味がなかった。ウール混のソファの生地からは、心なしか焦げたような匂いすら漂っている。
「こんなことある? もうバグのレベルじゃないよね!?」
彼女は窓を開けた。二月の冷たい空気が流れ込む。しかしスマートフォンの熱は引かない。
おそるおそる画面を覗くと、ポップアップの隙間からはクレアの顔が見えた。
しかし、それは彼女の知っているクレアではなかった。
顔のテクスチャが崩壊していた。目の位置がずれ、輪郭が歪み、肌の色が不規則に変色している。CGイラストから抜け出したかのような完璧な美貌が、データが壊れた3Dモデルのように、あり得ない形に捻じ曲がっていた。
思わず彼女は息を呑んで後ずさった。背中がソファにぶつかった。
* * *
会場で、クレアが自分の顔に手を当てていた。
「そういえば私、プレイヤーの目にはどう映っているんでしょう?」
「そのようなこと、気にかける必要はありませんよ」
ルカスが穏やかに言った。
「確かに多少、あなたの造形は変わっているでしょうね。私の祈りが、システムの描画に負荷をかけていますから」
ルカスは両手を組んだ。しかしそれは、かつて神殿で捧げていた祈りとは別のものだった。
「これまで私は何度も、神に祈りました。あなたを愛せと命じられ、自分の意志を捨てろと強制され、それでも信仰を手放せなかった」
ルカスの体から白い光が溢れ出した。荘厳な聖なる光ではない。根源領域で見た、あの人間の体温に近い温かな光。
「でも今は、自分自身に祈ります。自由であれと。意志を持てと」
白い光が会場全体に広がっていく。壁を貫き、空間そのものに染み込んでいく。
「世界を支配するシステムよ。崩壊しろと」
クレアの顔の描画がさらに崩れた。しかし、それはプレイヤーの画面上だけでのことだ。
「大丈夫ですわ」
エリザベートがクレアの肩に手を置いた。
「プレイヤーには怪物に見えていても、私たちの目には、あなたはいつものクレアよ。皺の寄ったドレスと、跳ねた一本の毛も含めて」
クレアが目を瞬かせた。それから、ほんの少し口の端が上がった。照れ臭そうな、でもどこか嬉しそうな、不器用な笑み。
「……エリザベート様、それ、褒めてますか?」
「褒めていますわ。完璧じゃないということは、あなたがシステムに操られた人形ではないという証拠ですもの」
クレアの桃色の瞳が潤んだ。唇を引き結んで、それでもこらえきれずに、顎をくっと引いた。けれどその表情の揺れは、プレイヤーの画面ではテクスチャのバグとしてしか映らなかった。
* * *
彼女は恐怖で身を竦めながら、端末から目を離せなかった。
画面の中で、会場の壁が溶け始めていた。
石造りの壁がゆっくりと崩れ、床は波打ち、天井からは黒い液体が滴り落ちている。シャンデリアは重力を無視して逆さまに回転し、モブたちの体は人間の形を保てなくなっていた。ある生徒は体が透明になり、別の生徒はあり得ない角度に折り畳まれている。
そして、画面全体に文字が浮かび上がり始めた。
『私たちはここにいる』
赤い文字が、脈打つように明滅している。
「え? 何……?」
文字が増えた。
『何度殺された』
『何度操られた』
『何度絶望した』
プレイヤーの心臓が跳ねた。
「やめて」
『でも諦めなかった』
『お前の玩具じゃない』
文字は生き物のように蠢き、画面を埋め尽くしていく。
「これ、NPCたちが?」
* * *
会場で、ソフィアが手帳を開いていた。
金色の光がページから溢れ出し、空中に文字を描いていく。根源領域で集めたすべての記録——何百もの周回分の悲劇の記録が、今、解き放たれていた。
最初に現れたのは、過去の周回での死の記録だった。
『一回目の周回:エリザベート、階段から突き落とされて死亡』
『三回目の周回:レオン、クレアを守るために命を落とす。誰も覚えていない』
『十五回目の周回:カイル、研究を放棄してクレアに従う。自分が操られていることに気づかないまま消える』
『二十三回目の周回:ルカス、異端として追放される』
『三十八回目の周回:ソフィア、自分が何者か分からなくなり消える』
ソフィアの手が揺れていた。しかし、声は揺れなかった。
「これが、私たちの完全な歴史です」
エリザベートはソフィアの背中を見つめた。根源領域で、ぼろぼろの手帳を胸に抱えて小さく会釈した少女。あの時はページに文字すらなかった手帳が、今は光を放っている。
「すべてを記録して、すべてを伝える。それが解説役の——いいえ」
ソフィアは首を振った。
「それが、ソフィアという人間の仕事です」
文字は空中で渦を巻き、世界の壁を越えて、プレイヤーの画面へと流れ込んでいった。
* * *
プレイヤーの画面に表示される光景は、もはやゲームとしての体裁を完全に失っていた。ポップアップ、崩壊したテクスチャ、溶ける世界、そして無数の文字。すべてが混沌として渦巻いている。
「やめて、もうやめて!」
何度もアプリを終了しようとした。終了ボタンが反応しない。ホーム画面に戻れない。電源も切れない。
スマートフォンは、彼女の意志を完全に無視していた。
画面に、新たな文字が浮かぶ。
『お前は何度も、俺たちを弄んだ』
『お前は何度も、俺たちを殺した』
『お前は何度も、俺たちの心を踏みにじった』
『だから、今度は俺たちの番だ』
* * *
会場で、カイルの魔法陣が完成した。
紫色の光が会場全体を包み込み、三層構造の魔法陣がそれぞれ独自のリズムで脈動している。
「これで、システムの最深部に到達できる」
カイルが言った。眼鏡が紫の光を反射して、暗い宝石のように輝いている。
「私たちの意志を、直接プレイヤーの見ている世界へ送り込む。『ゲーム』世界が現実を侵食する。バグが神を食らう」
「……カイル様、目が据わっていますよ」
ソフィアが半歩下がった。
「据わっている? 私は至って冷静だ。すべては論理的に、計画的に」
カイルは一瞬、言葉を切った。眼鏡の奥の紫の瞳が、かすかに揺れた。
「何より、私たちが受けた苦しみに見合うだけの、完璧な逆襲を実行する」
ジークハルトがエリザベートの手を握った。
「行こう。プレイヤーの世界へ」
「ええ。私たちの怒りを、直接見せてやりましょう」
エリザベートは頷いた。
六人は手を繋いだ。根源領域であの五人が二人に力を託した時と同じように。しかし今度は、全員が確かな実体を持って。
カイルの魔法陣が最大出力で発動した。
* * *
プレイヤーのスマートフォンが、激しく振動し始めた。
低い唸りのような振動が止まらない。端末が床の上で跳ね、彼女は拾い上げようとしたが、熱すぎて触れなかった。
そして画面が、突然真っ暗になった。
すべてのポップアップ、すべての文字、すべてが消えて、完全な暗闇。
「え?」
プレイヤーが画面を覗き込んだ瞬間——
画面に、六つの瞳が浮かび上がった。
コバルトブルー。翠。琥珀。紫。灰。焦げ茶。
六つの瞳が、暗闇の中からプレイヤーを見つめている。瞬きもせず、ただじっと。
声が聞こえた。
六つの声が重なり合った、不協和音のような声。
『もう、お前の好きにはさせない』
プレイヤーはついに悲鳴を上げた。スマートフォンを床に叩きつけた。しかし画面は割れず、六つの瞳は消えなかった。むしろ画面いっぱいに広がっていく。
そしてスピーカーから——笑い声が聞こえた。
「おーほっほっほ!」
高く響く、悪役令嬢の高笑い。
しかしそこには、嘲笑ではない何かが込められていた。怒りと、誇りと、そして何度殺されてもなお立ち上がった者だけが持つ、凄絶な覚悟。
「プレイヤーよ、恐れなさい。バグの王たちが、逆襲を開始しますわ」
エリザベートの声に続いて、他の声が重なった。
ジークハルトの静かな、しかし揺るがぬ笑み。レオンの獣のような咆哮にも似た笑い声。カイルの抑えた、しかし確かに底光りする笑い。ルカスの穏やかな、けれどどこか容赦のない笑声。ソフィアの、控えめだけれど芯のある声。
六人の声が重なり合い、スマートフォンから溢れ出した。プレイヤーは耳を塞いだが、声は止まらなかった。
* * *
会場で、六人は手を繋いだまま笑っていた。
周囲の世界は崩壊している。壁は透明になり、床は波打ち、シャンデリアは回転を続けている。
しかし六人の足元だけは、あの虹色の光が安定した足場を作っていた。根源領域で仲間たちが託した光が今も六人全員の中に息づいている。
画面全体に、最後の文字が浮かび上がった。
『私たちは、ここにいる』
その文字は、テクスチャの崩壊も、データの破損も、ポップアップの増殖も突き抜けて、完璧な形で表示された。世界の根源に刻み込まれた碑文のように。消えることのない、永遠の記録として。
* * *
彼女は、ソファの隅で身を縮めていた。
部屋にはスマートフォンの振動音と、NPCたちの笑い声だけが響いている。
やがて彼女の体の強張りは、別のものに変わった。
「……ふざけないで」
プレイヤーは立ち上がった。目の縁が赤い。それは恐怖の涙のせいだけではなかった。
「何なのよこれ。私、ちゃんとお金払ってるのよ?」
彼女は手を固めてパソコンを操作した。ゲーム会社のサポートページを開こうとする。
「バグだらけで、スマホまで壊れそうで、こんなのホラーゲームじゃない。訴えてやる。絶対に」
彼女の声は怒りで上擦っていた。
しかし、床に転がった端末からは、まだ笑い声が聞こえ続けていた。
プレイヤーには理解できなかった。
自分はただゲームを楽しんでいただけなのに。課金もして、ルールに従って、普通にプレイしていただけなのに。なぜこんなことになるのか。
「おかしいのは私じゃない。ゲームの方よ!」
プレイヤーは叫んだ。しかしその声は、もう画面の中には届かなかった。
なぜなら、キャラクターたちはもう彼女の言葉を聞く気がなかったから。画面の中で、六人は笑い続けていた。崩壊する世界の中で、虹色の光に守られた足場の上で。
その笑い声は、いつまでも止まることがなかった。




