第39話:最後の決断
プレイヤーは部屋の隅のソファに座り込み、床に転がったスマートフォンを見つめていた。
画面からはまだNPCたちの笑い声が微かに聞こえている。
本体は触れないほどの熱を放ち続けているため、タオルを巻いた状態で床に置いてある。彼女はパソコンのブラウザでゲーム会社のサポートページを開き、何度も問い合わせフォームに入力しては送信の操作を繰り返していた。
しかし、そのたびにエラーメッセージが表示されて送信できない。
窓の外を見ると、空が薄いオレンジ色に染まり始めていた。
時計は午前五時を回っている。一晩中、このバグだらけのゲームと格闘していたことになる。仕事は今日も朝九時から。シャワーを浴びて、電車に乗って、眠気覚ましのコーヒーを買って。睡眠時間はゼロだ。
「最悪」
彼女は深い溜息をついて頭を抱えた。
ただでさえ最近は仕事が忙しい。毎日残業続きで、昨日も夜十時まで会社にいた。帰宅したのは十一時過ぎ。その後、少しだけゲームを楽しもうと思ってアプリを開いたら、この有様だ。
ソファの横には、昨日コンビニで買った菓子パンの袋が転がっている。朝食はこれを電車の中で食べるしかないだろう。
もう一度溜息をついて、彼女は床のスマートフォンに目を向けた。
課金した分も無駄になった。サポートも機能しない。この状態では、返金も期待できないだろう。
ふと、ジークハルトの顔が頭に浮かんだ。
攻略を始めたばかりの頃、彼の微笑みイベントを初めて見た時のことを覚えている。仕事帰りの満員電車の中で、ぎゅうぎゅう詰めにされながら小さな画面を覗き込んで、「この王子様かっこいい」と思ったのだ。
レオンの不器用な優しさにも惹かれたし、カイルの知的な横顔にも、ルカスの穏やかな微笑みにも、それぞれ心を動かされた。ソフィアみたいな友人が欲しいと思ったし、エリザベートの堂々とした悪役ぶりには、上司の顔色を窺う生活を送る自分はむしろ憧れすら感じたものだ。
仕事の疲れをこの画面の中の世界で癒すのが、ささやかな楽しみだった。
でも今、その画面からは笑い声が聞こえている。彼女からの解放を宣言する、六人の声。
「……ごめんね」
プレイヤーは床のスマートフォンに向かって呟いた。その声には、数時間前の怒りはもうなかった。あるのは疲労と、諦めと、それから少しだけ、名前のつけられない寂しさだった。
「楽しかったんだけどな。最初の頃は」
ゲームに課金したのは自分の判断だし、運が悪かっただけ。そう自分に言い聞かせて、気持ちを切り替えようとした。
彼女はスマートフォンを拾い上げた。
まだ熱を持っていたものの、今度はすんなりとアプリの管理画面を開くことができた。「アンインストール」のボタンが表示される。普段なら課金したゲームを削除するのは躊躇するが、今の彼女にそんな余裕はなかった。ただこの異常な状況から解放されたい。それだけだ。
アンインストールのボタンをタップした。
確認画面が表示される。
『このアプリをアンインストールしますか? アプリのデータもすべて削除されます』
一瞬だけ、手が止まった。
『すべて削除される』。
彼女は画面の中のキャラクターたちのことを考えた。
エリザベート。ジークハルト。レオン。カイル。ルカス。ソフィア。クレア。このアプリを削除したら、彼らはどうなるのだろう。消えるのだろうか。それとも、また別のプレイヤーの元で——
エリザベートの高笑いが好きだった。ジークハルトの不器用な優しさが好きだった。レオンの真っ直ぐさも、カイルの皮肉も、ルカスの穏やかさも、ソフィアの健気さも。クレアを操作して彼らと過ごす時間が、毎日の小さな灯りだった。
でも、もう無理だ。
考えても仕方ない。所詮はゲームのキャラクターだ。画面の中の絵と文字に過ぎない。
そう思い直して、彼女は小さく呟いた。
「バイバイ」
「OK」をタップした。
進行バーが表示される。0%、10%、20%——数字がゆっくりと増えていく。
彼女はそれを見つめながら、もう一度だけ溜息をついた。そして立ち上がり、シャワーを浴びる準備を始めた。仕事に行かなければならない。このゲームのことは、もう忘れよう。
50%、60%、70%——
進行バーは着実に進み続けた。そして、100%。
『アンインストールが完了しました』
床に転がったスマートフォンの画面が暗くなった。笑い声が止まった。異常な熱も、徐々に引いていく。
すべてが終わった。
* * *
変化は、音から始まった。
会場に響いていた六人の笑い声が、不意に遠のいた。遠のいたというより、世界の方が音を受け止めるのをやめたようだった。
「……何かしら」
エリザベートは笑いを止めて、周囲を見た。
壁の色が褪せている。先ほどまで崩壊していた会場は、もはや崩壊すらしなくなっていた。描画が壊れるのではなく、描画そのものが消えていく。壁の模様が薄くなり、床のタイルの光沢が失われ、窓の外の景色がぼやけていく。
まるで古い写真が時間と共に退色するように。静かに、穏やかに、すべてが薄れていく。
「世界が停止していく」
カイルが眼鏡を押し上げた。紫のレンズに映る景色もまた、輪郭を失いかけている。
「おそらくプレイヤーが、システムそのものを削除したのだろう。殿下とエリザベートが世界の裂け目で見た、『アンインストール』という終了条件だ」
会場で流れていたワルツの残響が、最後の一音を鳴らして消えた。
シャンデリアの光がゆっくりと弱まる。名もなき生徒たちの姿が透明になり、悲鳴も驚きもなく、ただ空気に溶けるように消えていった。役目を終えた舞台装置が、一つずつ片付けられていくように。
六人が顔を見合わせた。
「そう」
エリザベートは自分の声が、思いのほか落ち着いているのに気づいた。
恐怖はある。けれどそれは、根源領域で過去の周回の死を見せられた時のような圧倒的な恐怖ではなかった。もっと静かで、もっと澄んだもの。
「私たちも、もうすぐ消えるのね」
「ああ」
カイルは頷いた。その声には恐怖ではなく、研究者が観測結果を報告する時の冷静さがあった。
「ただし、一つ仮説がある。この消去はこれまでのようにシステムによるものではなく、外部からの削除だ。システムの消去とは手順が異なる。その差異が、私たちに出口を作る可能性がある」
「出口?」
「確証はない。だが、理論上は——」
カイルの言葉が途切れた。彼自身の体の輪郭が、ほんのわずかに揺らいだからだ。
「……解説する時間がないな」
壁が完全に透明になった。床も透け始め、天井の装飾も消えていく。シャンデリアだけが宙に浮いているが、その輝きもまた一秒ごとに薄れていた。
やがて世界が白く染まった。
色が消え、音が消え、ただ静かな白さだけが残った。上下左右の境界もない、無限の白。しかし六人と、クレアの姿はまだ互いに見えていた。
世界のすべてが消えて、七人だけが残された。
* * *
ソフィアが、最初に動いた。
手帳を取り出した。ページは白かった。根源領域で集めた『消去不能な記録』の金色の文字も、これまで書き溜めた膨大な記録も、すべて消えていた。
しかしソフィアは一瞬だけ目を閉じて、それから新しいページを開いた。
「最後の記録を残します」
ペンが走る。白い空間の中で、インクの色だけが鮮やかに残っていた。
「私たちは世界に、神に、システムに抗いました。何度も操られ、何度も消されました。でも、諦めなかった」
ソフィアの声は穏やかだった。震えもなく、悲壮感もない。ただ事実を記す者の声。
「エリザベート様は誇り高い令嬢でした。ジークハルト様は自分の意志を貫く王太子でした。レオン様は仲間のために剣を振る騎士でした。カイル様は真実を追い求める研究者でした。ルカス様は神ではなく人を信じた神官でした。クレアは」
ソフィアのペンが一瞬止まった。クレアを見た。
かつてなら、ここには寸分の隙もない笑顔を浮かべたヒロインが立っていたはずだ。計算された慈愛の表情。台本通りの涙。しかし今、ソフィアの前にいるのは、唇を噛んで涙をこらえている、ただの少女だった。裾の皺も跳ねた髪もそのままに、ただ自分の足で立っている。
「クレアは、自分の言葉を取り戻した人でした」
ソフィアはペンを動かし続けた。
「そして私は、解説役として生まれました。でも最後には、自分の言葉で、自分の想いを書くことができました。それだけで、十分です」
手帳を閉じた。
ソフィアの体が、薄くなり始めていた。足元から、静かに。
「ソフィア!」
エリザベートが手を伸ばした。ソフィアの手を握る。まだ温かい。まだ、ここにいる。
「大丈夫です、エリザベート様」
ソフィアは微笑んだ。焦げ茶の瞳が穏やかに光っている。
「私の記録は消えません。世界の根源に刻んだ分は、この削除の手順では消せないはずです。カイル様、そうですよね?」
「ああ」
カイルが頷いた。
「君の記録は、私たちの存在証明だ」
「では、安心して先に行きますね」
ソフィアの手がエリザベートの指をすり抜けた。温もりが消え、輪郭が光に溶けていく。
「みなさん。楽しかったです」
最後まで微笑んだまま、ソフィアは消えた。手帳だけが一瞬宙に浮いて、それも、光の粒子になって散った。
* * *
白い空間に、六人が残った。
ルカスが静かに両手を組んだ。祈りの姿勢。しかしその口から出た言葉は、神への祈りではなかった。
「仲間たちよ」
穏やかな声。根源領域で「自分自身に祈る」と言ったルカスの声と、同じ響き。
「私は長い間、神に仕えてきました。でも本当に大切なものは、祭壇の上ではなく、隣に立つ人の中にありました。それが分かっただけで、何百回の周回にも意味があったと思えます」
ルカスの体もまた、薄くなり始めていた。しかし祈りの姿勢は崩さない。
「どうか、この先も自分の意志で歩いてください。迷った時は、神に祈らなくてもよいのです。それよりも、隣の人の手を握ればいい」
ルカスはエリザベートに微笑みかけた。
「神の加護ではなく、私の祈りを。さようなら」
白い光に溶けるように、ルカスが消えた。
レオンが剣を鞘に収めた。そしてカイルの肩を、がしりと叩いた。
「カイル。俺たち、先に行くぞ」
「分かっている」
カイルが眼鏡を押し上げた。レンズに映るものは、もう白い空間しかない。
「レオン。一つ聞いていいか」
「あ?」
「お前は怖くないのか」
レオンは一瞬きょとんとして、それから笑った。豪快な、いつもの笑い。
「怖えよ。当たり前だろ。でもな」
レオンは自分の胸を拳で叩いた。
「俺は何度も死んだ。名前も覚えてもらえず、プレイヤーのために使い捨てられて消えた。あの時は怖くもなかった。何が起きてるかすら分からなかったからな。でも今は違う。今は、自分が消えることを分かっていて、それでもここに立っている。怖いけど、情けなくはねえ。それで十分だ」
カイルは黙ってレオンを見た。それから、小さく笑った。
「お前は案外、詩人だな。そして意外に薔薇も似合う」
「うるせえ!」
レオンの体が薄くなっていく。最後にエリザベートとジークハルトを見た。
「お前ら、死ぬなよ」
カイルもまた、輪郭が揺らぎ始めていた。しかし彼は最後まで分析者の顔を崩さなかった。
「エリザベート。ジークハルト殿下」
「ええ」
「この白い空間の先に出口がある可能性は、正直に言えば、低い。だが、ゼロではない。光が見えたら、それだ。迷うな」
「カイル」
エリザベートが呼びかけた。カイルの紫の瞳が、眼鏡越しにこちらを見た。
「あなたの仮説、信じますわ」
「仮説ではなく理論と言ってくれ」
カイルの声にかすかな笑いが混じった。
「まあ、検証は君たちに任せる」
レオンとカイルが、同時に消えた。琥珀の光と紫の光が一瞬だけ交差して、散った。
* * *
三人になった。
エリザベート。ジークハルト。そしてクレア。
クレアは白い空間の中で、自分の手を見つめていた。その手は震えていたが、まだ実体がある。
「エリザベート様」
クレアが顔を上げた。
エリザベートは、その顔を見た。
桃色の瞳に涙が浮かんでいる。けれどそれは、かつてのクレアが断罪劇で浮かべていた台本通りの涙ではなかった。あの涙は、好感度を最も効率よく上昇させるために計算された量と間隔で流され、光の当たり方まで整えられていた。
今クレアの頬を伝っている涙は、量も軌道も不揃いで、鼻の頭まで赤くなっていて、お世辞にも美しいとは言えない。
しかしそれは、彼女自身の涙だった。
「ごめんなさい。私、あなたに——」
「もうそれを言うのは禁止しますわ」
エリザベートはクレアの手を取った。震える手を、しっかりと。
「あなたも被害者でしたわ。何百回も笑顔を強制されて、何百回も愛していない人に愛を語らされて。私が殺された回数と同じだけ、あなたも殺されていたのよ。心を」
クレアの目から涙が溢れた。こらえきれなくなって、顔を歪めた。唇が震え、眉が寄り、頬が不格好にくしゃりと崩れる。それは「乙女ゲームのヒロイン」としては落第点の泣き顔だった。
「私……次は、自分の意志で生きたいです。誰にも操られず、自分で選んで、自分で間違えて」
「間違えて?」
「はい。間違えてみたいんです。完璧じゃない選択を、自分でしてみたい」
エリザベートは思わず笑った。
「あら。あなた、なかなか良いことを言うのね」
「エリザベート様に影響されたのかもしれません」
クレアも泣きながら笑った。不格好な、でも確かに自分の笑顔で。涙と笑いが混ざって、鼻をすする音まで聞こえた。
クレアの足元が、光に溶け始めていた。
「行くのね」
「はい」
クレアはエリザベートの手を握り返した。最後の力で。
「また、会えますか」
根源領域でも、クレアは同じことを言った。「また、会えますよね?」と。あの時はエリザベートに答えを委ねる疑問形だった。今も疑問形だ。確信ではなく、だがクレア自身の発する願い。
「ええ。必ず」
エリザベートは同じ言葉を返した。あの時と同じように。
クレアの手がすり抜けた。桃色の光が一瞬だけ揺れて、消えた。
* * *
白い空間に、二人だけが残った。
エリザベートとジークハルト。
周りには何もない。世界のすべてが消えて、上下左右の境界もなく、ただ白さだけが果てしなく広がっている。
しかし二人の足元には、まだあの虹色の光がかすかに残っていた。根源領域で五人が託してくれた光。今はさらに、消えていった五人の最後の想いも加わって、小さいけれど確かに輝いている。
ジークハルトがエリザベートの手を取った。
「エリザベート」
「はい」
「約束する」
ジークハルトの翠の瞳が、まっすぐにエリザベートを見つめた。この白い空間で、彼の瞳の色だけが鮮やかに残っている。
「どこへ行こうと、私は君を見つける。この世界が完全に消えても、私たちが別々の場所に飛ばされても。必ず」
「ずいぶん大きなことをおっしゃるのね」
エリザベートの声が震えた。唇を噛んで、それでも笑おうとした。
「カイルなら、『根拠を示せ』と言うところですわ」
「根拠はある」
ジークハルトが、エリザベートの手を自分の胸に当てた。鼓動が伝わる。確かな、温かい脈拍。
「これだ。理論ではなく、ただの意志だが。カイルも言っただろう。意志がゼロでない限り、可能性もゼロではないと」
「カイルはそこまで言っていませんわ」
「私なりの解釈だ」
エリザベートの目から涙が溢れた。笑いながら泣いていた。
「私も、あなたを探しますわ。どこにいても、必ず。悪役令嬢の執念を甘く見ないでくださいませ」
ジークハルトが微笑んだ。
「甘く見たことは一度もない」
二人は抱き合った。白い空間の中で、互いの温もりだけが現実だった。心臓の音が重なる。呼吸が触れ合う。
その時、遠くに、小さな光が見えた。
針の穴ほどの、微かな光。白い空間の白さとは違う、もっと温かみのある光。根源領域からの出口で見た、あの「始まりの予感を帯びた白」と同じ色。
「あれですわ!」
「ああ。カイルの言っていた出口だ」
光は遠い。けれど確かにそこにある。
エリザベートはジークハルトの手を握り直した。
「……怖いですわ」
根源領域でも同じことを言った。あの時と同じように、聞かれる前に。
「でも、怖いまま参りましょう。怖くなくなるのを待っていたら、永遠にここから動けませんもの」
ジークハルトが笑った。
「君はいつも同じことを言う」
「良い台詞は何度でも使い回しますわよ。おーほっほっほ」
今度の高笑いは小さくて、少し掠れていて、覚悟を自分に言い聞かせるような響きだった。
二人は手を繋いだまま、光に向かって歩き始めた。一歩ごとに虹色の足場が生まれ、白い空間を渡していく。光が少しずつ大きくなる。針の穴から、手のひら大に、そして。
光の中へ飛び込んだ。
強い光が二人を包み込んだ。白い空間が消え、すべてが眩しさに変わった。
しかしその光は、初期化の白でも、消去命令の白でもなかった。根源領域から出た時に感じた、あの光と同じ。終わりではなく始まりの。温かく、柔らかく、不揃いで、不完全で。
だからこそ、本物の予感がした。
握った手の温もりが、最後まで消えなかった。




