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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第37話:ノイズの海を泳ぐ者

 暗闇の中で、エリザベートは自分が存在していることだけを感じていた。


 視覚はない。音もない。ただ、ジークハルトと繋いだ手の温もりだけが、唯一の確かな感覚だった。


 自分の声が聞こえるのかすら定かではない。音として空間に響いているのか、それとも自分の頭の中だけで鳴っているのか。


「ジークハルト様、聞こえますか」

「ああ、聞こえる」


 彼の声は水底から届くように、くぐもっていた。


「ここが、カイルの言っていた場所ですの?」

「世界の仕組みの根源、か。消去を実行しているシステムそのものがある場所だから、消去の対象にはなれない。カイルの論理は正しかったということだ」


 二人は手を繋いだまま、暗闇の中に立っていた。


 いや、「立っている」のかすら曖昧だった。足の裏に何かが触れている感覚はあるが、それが床なのか別の何かなのか分からない。浮いているような沈んでいるような、重力そのものが定められていない空間。


 五つの光が、遠くに漂っていた。


 紫、白、赤、銀、桃色。この空間に来た直後に感じたあの存在の重みは、今も変わらない。光は弱々しく、ともすれば消えそうに瞬いている。しかし確かにそこに在る。


(あの光が消える前に、ここから出る方法を見つけなければ)


 エリザベートがそう思った瞬間、暗闇が揺れた。


 水面に石を投げ込んだような波紋。視覚ではなく、感覚として伝わる振動。内臓を引っ張られるような、不快な圧力。


「何が——」


 暗闇に、何かが流れ込んできた。


 色が見えた。暗闇しかなかった空間に、赤や青や緑が滲み出す。形を成さない光の断片。音が聞こえた。意味を持たない音の欠片が、遠くから近くから、四方八方から押し寄せてくる。


 それは少しずつ量を増していった。色彩の断片が空間を埋め、音の欠片が重なり合い、暗闇が混沌に塗り替えられていく。


「何ですの、これ?」


 気づくと、二人を取り巻く空間はまったく違うものに変わっていた。



* * *



 そこは、混沌そのものだった。


 足元に床があるのかないのか判然としない。見えるものすべてが歪んでおり、まっすぐな線が一本もなかった。壁は波打ち、天井は溶け、空間そのものが蠢いている。

 色も定まらない。赤が突然青に変わり、青が緑に、緑が紫に、次々と変化していく。巨大な万華鏡の内側に放り込まれたような感覚だった。


 そして何より異様なのは、音だった。


 無数の雑音が空間を満たしていた。世界を構成する記録が壊れた時に発する、意味を持たない音の洪水。それらが混ざり合い、ちょうど人を最も不快にさせる音量で、耳の奥にまとわりつく。


「ここは、何だ。さっきまでの暗闇とは違う」

 ジークハルトが翠の瞳で周囲を捉えようとした。


「——ここは根源領域だ。ただし、君たちが最初に見た暗闇とは様子が変わっている」


 声が聞こえた。


 二人が振り返ると、そこにはカイルが立っていた。

 しかし、それは先ほどまでのカイルではなかった。


 体は半透明で、薄いガラスのように透けている。無数の亀裂が走り、亀裂の隙間から光の粒子が漏れ出していた。眼鏡はひび割れ、片方のレンズが完全に欠けている。そして体が時折ちらつき、風に煽られる蝋燭の炎のように明滅を繰り返していた。


「カイル、なの……?」


 エリザベートが恐る恐る声をかけた。


「ああ、私だ。正確には、私の『残滓』だな」


 カイルは苦笑した。その笑顔も透けるように儚い。しかし、紫の瞳の奥にある知性の光だけは、ひび割れた眼鏡越しでも変わっていなかった。


「カイル、声が途切れていますわ」


 声に雑音が混じり、口が動いているのに音声が途切れ途切れになっている。エリザベートが駆け寄ろうとしたが、カイルは手を上げて制した。


「構わない。これが今の私だ。もう実体はない」


 カイルの紫の瞳が、二人の姿を確かめるように見つめた。


「君たちがなぜ無傷でここにいるか。そして私たちの残滓がなぜここに見えているか。順に説明する」


 途切れ途切れの声。しかし論理の筋だけは明晰だった。


「まず、ここが混沌としている理由からだ。私たちの世界は全消去された。建物も、大地も、空も、すべてが消去の処理を受けた。だが、実は消去された記録は直ちには消滅しない。削除の印がつけられ、やがて完全に消えるまでの間、残骸として漂う」


「そこまでは理解しましたわ。でもなぜ、その残骸がここに?」


「世界が消えたからだ。残骸が漂う場所自体が消去された。世界のどこにも留まれなくなった残骸は、唯一消去されなかった場所に流れ着いた。つまり、システムの根源に。暗闇だった根源領域が混沌としているのは、世界中の残骸がここに集まっているからだ。私たちの残滓も、その一部だ」


「では、なぜ私たちは無事で、あなたたちはその有様なの?」


「君たちは消去されていない。私の術式で消去の処理を受けずに根源に来た。だから削除の印がついていない。完全な状態でここにいる」


 カイルは自分の体を見下ろした。


「他方、私たちは消去された。削除の印がつき、記録が崩壊している。放っておけば、やがて完全に消滅する」


「私たちも消去されていれば、同じ場所に辿り着いたのではないか? カイル、お前が命を懸けて送る必要はなかったのでは」


 ジークハルトが口を開いた。カイルの紫の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。


「それは違う。消去された者は崩壊が進み、やがて完全に消える。ここにいる私たちがその証拠だ。もし君たちも消去されていたら、全員が同じように崩壊し、全員が消滅していた。誰も完全な記録を保てない。記憶も意志も保持できず、ここから出ることもできない。私が君たちを消去させずに送ったのは、崩壊しない存在をここに残すためだ」


「カイル、もう一つ聞かせて頂戴」


 エリザベートは静かに言った。


「あなたは具体的に何をしたの。あの最後の術式で、どうやって私たちを消去の対象から外したの?」


「私の使った保護領域を、覚えているだろう」

 カイルの声に雑音が走ったが、すぐに戻った。


「あれは空間に対して『ここを消去対象から除外せよ』と指定する術式だった。空間を守る術式だから、より強い力で外から押し潰された。最後の術式は対象を変えた。空間ではなく、君たち二人の存在そのものに除外の指定を施した」


「空間ではなく、私たち自身に」


「そうだ。原理はエリザベートが死亡フラグを書き換えた時と同じだ。あの時は設定画面に表示された『死亡フラグ』という属性の文字列を、0と1を組み替えて『生存フラグ』に書き換えた。今回は、君たち二人の記述の中にある、消去処理が対象を判別するための属性を書き換えた。『消去対象』から『消去対象外』に」


「まあ。死亡フラグの書き換えと同じ原理」


「同じだ。ただし死亡フラグの時は設定画面が実体化していて、エリザベートが直接触れて書き換えることが可能だった。今回は設定画面がない。だから私が保護領域の術式を応用し、仕組みに対して直接書き込む形で属性を書き換えた」


「その代償が、あなた自身の存在だったということかしら?」


「保護領域は魔力で維持できた。だが設定画面を介さず、仕組みに直接書き込むには、もっと根源的な対価がいる。私自身の存在を術式の燃料にした。だから保護領域が消え、私は即座に消去された」


 カイルはひび割れた眼鏡に触れた。


「計算通りの結果だ。だから、私は満足している」


 エリザベートは何も言えなかった。カイルが冷静な口調で語る言葉の一つ一つが、あの瞬間の覚悟の重さを物語っていた。



* * *



 周囲の空間が歪み、新たな人影が現れた。


 ルカスだった。白い法衣はぼろぼろに裂けており、裂け目から光が漏れている。ただし頭部は半分しか形成されておらず、残りの半分は粒子として空中に漂っていた。体はカイルと同じく、透けるように薄い。


「ジークハルト殿下、エリザベート様。無事でよかった」


 雑音の滲んだ、けれど穏やかな声だった。


 続いてレオン。大きな体に肩から腕にかけて大きな亀裂が走っていた。剣を握る手の指が二本欠けており、そこから光の粒子がぽたぽたと滴り落ちている。傷口から血が流れるように。


「くそ、こんな姿で情けねえ」


 レオンは自分の欠けた手を見つめて、悔しそうに顔を歪めた。


 ソフィアも現れた。スカートの裾が粒子となって空中に溶けかけている。手に持つ手帳はページが半分千切れ、残りも今にもばらばらになりそうだった。


「エリザベート様。私、まだ記録できます」


 震える手で手帳を開いたが、ページには文字がない。ただ雑音のような模様が走っているだけだった。


 最後に、クレアが現れた。

 彼女のドレスは色褪せて灰色になりかけており、栗色の髪は半分が粒子となって漂っている。


(それでも)


 エリザベートは目を見張った。


 クレアの顔には、あの完璧に整えられた微笑みが浮かんでいなかった。崩壊する会場で消える直前、「どうか」と言いかけた時の、言葉を探して唇が動く、あの生々しい表情のほうが近い。ドレスは灰色で、髪は崩れ、体は透けて見える。


 しかしその桃色の瞳は、はっきりとした意志の光を宿していた。

 かつて台本通りの愛らしさだけを映していた瞳が、今は彼女自身の目として、こちらを見つめている。


「皆さん。私も、最後まで一緒にいます」


 台本にない言葉。システムが書いたのではない言葉。


 五人の残滓がエリザベートとジークハルトの周りに集まった。それぞれ崩れかけ、声に雑音を帯びながら。しかし確かに存在している。


「みんな」


 エリザベートの目が熱くなった。しかし粒子となった涙は頬を伝う前に空中に散った。ここではまだ、涙すら完全には存在できない。


「泣くのは後にしろ。俺たちはまだ終わってねえ」


 レオンが言った。欠けた手で拳を作ろうとして、足りない指に気づいて、それでも拳を握りしめた。


 カイルは眼鏡を直そうとして触れた瞬間、さらにひび割れた。


「この眼鏡、もう直らないな」

「カイル様、眼鏡はいいですから」


 ソフィアが雑音混じりの声で突っ込んだ。

 その場に、ほんの一瞬だけ笑いが生まれた。



* * *



 笑いが消えるより先に、周囲の空間が歪み始めた。


 混沌とした色彩が渦を巻き、新たな光景が浮かび上がる。会場だった。しかし今の会場ではない。もっと古い、別の周回の記憶。


 その会場の中央に、エリザベートが立っていた。

 いや。「別のエリザベート」が。


 同じ金髪、同じコバルトブルーの瞳、同じ悪役令嬢のドレス。しかし表情が違う。絶望が刻まれた顔。


 そしてその前には、クレアが立っていた。


 隙のない笑顔で。

 頬の角度も、唇の弧も、瞬きの間隔も、すべてが型通りに揃えられた、不自然なほどの完成度を持つ笑顔。かつてのクレア。世界の仕組みに操られていた頃のクレア。


「エリザベート様、あなたは罪を犯しました。聖女として、見過ごすことはできません」


 澄んだ声が会場に響いた。台本通りの抑揚、台本通りの間。


「罰として、王国から追放されます」

「待って。私は何もしていないわ!」


 別のエリザベートが震える声で訴える。しかし言葉は誰にも届かなかった。貴族たちは冷たい目で彼女を見つめ、誰一人として庇わない。


 ジークハルトも光景の中にいた。クレアの隣に立ち、エリザベートに背を向けて。


「ジークハルト様、何かおっしゃって」

 別のエリザベートが手を伸ばした。しかし彼は振り返らない。体もまた、操られていた。


「さようなら、エリザベート」

 冷たい声。


 別のエリザベートは膝から崩れ落ちた。嗚咽を漏らす。


 空中に文字が浮かんだ。


『HAPPY END』


 場違いに明るいあの音が鳴った。


 別のエリザベートの体が粒子となって消えていく。最後まで泣き続け、最後まで誰かに救いを求め続けて、消えた。


 エリザベートは、それを見つめていた。


(あれは私ね)


 声は出さなかった。


 あの時のエリザベートは、何が起きているのか分かっていなかった。

 なぜ突然ジークハルトが冷たくなったのか。なぜ誰も助けてくれないのか。何が罪なのか。何もかも分からないまま、消された。


 光景が切り替わった。別の周回。


 階段から突き落とされるエリザベート。クレアが涙を流しながら「エリザベート様が階段から落ちました」と叫ぶ。周囲が駆けつける。しかしエリザベートはもう動かない。『HAPPY END』。あの音が鳴る。


 別の周回。毒を盛られたエリザベート。晩餐会で倒れる彼女を、ジークハルトが冷たい目で見下ろす。「自業自得だ」。『HAPPY END』。そして、あの音。


 さらに別の周回。魔法の暴走で消滅するエリザベート。叫び声。体が光となって消える。クレアが悲しそうに目を伏せる。しかしその悲しみすら、仕組みが与えた表情だった。『HAPPY END』。あの音。


 何度も。何度も。何度も。


 追放され、殺され、消され、無視され、絶望の中で消えていく。そのたびに『HAPPY END』が表示され、そのたびにあの音が鳴る。音が重なり合い、狂った鐘のように空間に響き渡った。


(これが、私の「役割」だったのね)


 エリザベートは耳を塞がなかった。目も逸らさなかった。


 悪役令嬢エリザベート・アルトマール。定められた役割は「排除される敵」。何度やり直しても、何百回生まれ直しても、行き着く先はいつも同じ。『HAPPY END』。そしてあの、場違いに陽気な音が鳴り響く。


 しかし、映し出されたのはエリザベートだけではなかった。


 カイルの過去。

 研究に没頭していた彼が、ある日突然クレアに一目惚れする。それまでの研究をすべて放棄し、詩を書き、花を贈り、まるで別人のように振る舞う。そして最後にはクレアに振られ、絶望の中で消えていく。


 今のカイルの残滓が、自分の過去を見つめていた。ひび割れた眼鏡の奥の紫の瞳に浮かぶのは、嫌悪と、自嘲だった。


「あの時の私は、自分が操られていることにすら気づいていなかった。研究者が分析を放棄するなど、正気ではあり得ない。けれどそれが、私に与えられたシナリオだった」


 ルカスの過去。

 神への祈りを捧げていた彼が、突然クレアを神として崇め始める。神殿の祭壇にクレアの肖像を飾り、異端として追放される。


 レオンの過去。

 騎士として誇り高く生きていた彼が、クレアを守るために命を捨てる。彼女のために戦い、傷つき、死んでいく。そして誰も彼の犠牲を覚えていない。


 ソフィアの過去。

 何度も同じ解説を繰り返し、同じ時に同じ言葉を喋り、自分が仕組みの一部になっていくことに気づきながら止められなかった。最後には、自分が何者なのかも分からなくなって消える。


 そしてクレアの過去。


 今のクレアの残滓は、自分の過去を見つめていた。桃色の瞳が揺れている。


 過去のクレアは、まさに世界が作り上げた理想のヒロインだった。寸分の狂いもない微笑み。台本通りの慈愛。場面ごとに切り替わる表情は、プレイヤーの好感度を最も効率よく上昇させるためだけに定められたもの。笑いたくない時も笑い、優しくしたくない時も優しくし、愛していない相手に愛を語らされる。


 何百もの周回の間、彼女はそうして演じさせられていた。


 そして最後には、自分が何を感じているのかも分からなくなっていく。感情を持っているのか、持たされているのか。その区別がつかなくなった時、彼女の中の「人間」は静かに死んでいく。


「……あれが、私でした」


 今のクレアが、小さな声で言った。

 かすれて、途切れがちで——しかし、まぎれもなく彼女自身の声。


「あの笑顔が、ずっと怖かった。鏡を見るたびに、自分の顔なのに自分じゃないような」


 そこで言葉が途切れた。唇が震え、何かを飲み込むように喉が動いた。


「でも、怖いと思うことすら、許されなくて」


 すべての悲劇が、次々と映し出されていく。

 あの音が鳴り続ける。重なり合い、反響し、空間を満たす。


 エリザベートは、それをすべて見ていた。

 見続けていた。


「これが、私たちの歴史ですのね」


 涙は流さなかった。代わりに、静かな怒りが腹の底に沈殿していく。


 何百回も同じ悲劇を繰り返して、何百回も同じ音を鳴らして。プレイヤーにとっては、そのすべてが遊びの一部。周回して、効率を上げて。エリザベートたちの絶望は、攻略の手引書に並ぶ数字と同じなのだ。


 ジークハルトもまた、自分の過去を見つめていた。エリザベートに背を向けて冷たい言葉を吐く、操り人形の自分を。


 彼の手が、わずかに震えていた。



* * *



 その時、ソフィアが前に出た。

 今にも消えそうな体だったが、その瞳には意志が宿っている。


「これを使います」

 ぼろぼろの手帳を掲げた。手帳が銀色の柔らかな光を放ち始める。


「私は物語の解説役で、記録者です。だから」


 手帳から、無数の光の糸が伸びていった。

 糸は周囲に映し出されている過去の周回に触れ、悲劇の記憶を吸い取っていく。死の光景が次々とソフィアの手帳に流れ込み、ページに光の文字が浮かび上がる。


「すべての不幸な記憶を、私が集めます。散らばったまま放置すれば、ただの残骸です。でも記録として集積すれば、それは『証拠』になります」


 手帳が眩い光を放った。小さな太陽のように、根源領域全体を照らしていく。混沌とした空間が、その光でわずかに安定した。


『HAPPY END』の文字が、あの音が、ソフィアの手帳に吸い込まれていく。


(証拠。そう、これは証拠ですわ)


 エリザベートは顔を上げた。


「私たちが何をされたのか。何を奪われたのか。その記録が残る限り、私たちの苦しみは『なかったこと』にはならないですわね」


 カイルも動いた。

 ひび割れた眼鏡を外し、紫の瞳でまっすぐに空間を見据える。崩れかけた体から紫の光が溢れ出した。知的で冷静な、分析の光。


「ソフィアの記録に、私の解析を重ねる」


 紫の光が空中に複雑な魔法陣を描いた。ソフィアが集めた記録を、魔法陣が構造化していく。散らばった悲劇が体系として整理され、法則性が浮かび上がる。


「すべての周回で、エリザベートの死因は異なる。しかし構造は同じだ。ヒロインの好感度を上げるために、悪役令嬢が排除される。その繰り返し。百を超える周回の記録が、それを証明している」


 ルカスが両手を組んだ。その体から白い光が溢れ出す。荘厳な聖なる光ではなく、人間の体温に近い、温かな光。


「この祈りは神へのものではありません。私たち自身への祈りです」


 白い光がカイルの魔法陣を包み込んだ。冷たい解析に、温もりが宿る。数字の羅列が、痛みを伴った記憶として質量を持ち始める。


 レオンが欠けた手で剣を握りしめた。赤い光が溢れ出す。炎のような、力強い光。


「過去の俺は何も知らずに死んだ。でも、それも俺だ。受け入れる」


 赤い光がエリザベートとジークハルトの周りに壁を作った。外の混沌を遮断する、見えない盾。


 そしてクレアが、おずおずと、しかし確かな足取りで前に出た。その体から、桃色の光が溢れ出す。


「私はヒロインでした。皆さんを苦しめる道具として使われていました」


 その声は掠れて、途切れがちで、不完全だった。


「でも今は、自分の意志で皆さんの前に立っています。その違いが、私には何よりも大きいんです」


 五つの光が一つに集まった。銀色、紫、白、赤、桃色。混ざり合い、虹色の光となってエリザベートとジークハルトを包み込む。

 二人の体が内側から光り始めた。


「これは——」

 エリザベートが自分の手を見た。手のひらが虹色に輝いている。


「仲間たちの記憶と意志が、君たちの中に宿っている」

 カイルが言った。雑音に途切れながらも。


「消去命令への耐性だ。何百もの悲劇の記録が、逆説的に君たちの存在を強化する。『これだけの回数消しても消えなかった』という事実そのものが、もう一つの盾になる」


「皮肉な話だ」

 ジークハルトが低く笑った。


「殺された回数が、生き残る力になるとは」

「記録とはそういうものだ。使い方次第で、毒にも薬にもなる」


 カイルの声に雑音が混じり、一瞬途切れた。体のちらつきが激しくなっている。


「だが、ここに長くはいられない。私たちの残滓は劣化し続けている。削除の印がついた記録は、やがて完全に消滅する」


「出口はあるのか?」

 ジークハルトが尋ねた。


「ある。根源領域はシステムの核だ。システムは世界全体を支えているものだから、ここから表の世界に繋がる経路が必ず存在する。だが、正確な道筋は分からない。君たちの意志だけが頼りだ」



* * *



 エリザベートはジークハルトの手を握り直した。


 周囲は相変わらず混沌としている。雑音は鳴り続け、空間は歪み続け、色彩は移り変わり続けている。しかし二人の足元だけは、虹色の光が安定した足場を作っていた。


「怖いですわ」


 エリザベートは言った。聞かれる前に。


「この先に何があるか分かりません。また消されるかもしれない。また絶望するかもしれない」


 ジークハルトは黙って聞いていた。


「でも、怖くて当然ですわよね。何百回も殺された記録を見た後で、怖くない方がおかしいでしょう」


 エリザベートは背筋を伸ばした。


「ですから、怖いまま参りましょう。怖くなくなるのを待っていたら、永遠にここから動けませんもの」


 ジークハルトが微笑んだ。崩れかけた体でも、その微笑みは確かに見えた。


「君らしい結論だ」


 彼もまた背筋を伸ばした。王太子として。たとえ体が透けていようと、翠の瞳に宿る光は揺るがない。


「行こう。私たちの世界を、取り戻しに」


 五人の残滓が、二人を見つめていた。


「出口を見つけろ。道は意志が示す」


 カイルが言った。それ以上の言葉はなかった。カイルらしかった。必要なことだけを言って、あとは沈黙する。


 ルカスが穏やかに頷いた。レオンが欠けた手で拳を握り、口の端を上げた。ソフィアがぼろぼろの手帳を胸に抱えて、小さく会釈した。


 クレアが口を開きかけて、閉じた。言いたいことがあるのに、言葉が見つからないという顔。崩壊した卒業パーティーの会場から消える直前に、「どうか」の続きを言えなかった時と同じ表情。


 しかし今度は、言い直した。


「また、会えますよね?」


 疑問形だった。確信ではなく、願い。それが、彼女が自分の言葉で選んだ形だった。


「ええ」


 エリザベートは答えた。


「必ず」


 二人は手を繋いだまま、混沌の海に踏み出した。


 虹色の光が足場を作り、一歩ごとに雑音を押しのけていく。嵐の海を行く小舟のように揺れながら、しかし確実に前へ。


 背後で、五人の光がゆっくりと薄れていった。残滓は、自分たちの力をすべて二人に託して、静かに消えていく。


 エリザベートは振り返らなかった。

 振り返れば、きっと足が止まる。


 前方に、小さな光の点が見えた。


「あれですわ」

「ああ、あれが出口だ」


 混沌の海が激しく揺れ、二人を引き留めようとする。色彩が渦巻き、不協和音が膨れ上がる。しかし二人は止まらなかった。


 握った手を離さなかった。


 そして二人は光の中へ飛び込んだ。

 強い光が二人を包み込み、すべてが白に溶けた。しかしその白は、あの消去の光ではなかった。


 もっと温かく、もっと柔らかく、始まりの予感を帯びた白。

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