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乙女ゲームの世界に反旗を──我らNPCは運命を書き換える  作者: 宗像 凪


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第36話:神の怒り

 弛緩した空気が会場を覆っていた。


 カイルとルカスは、レオンが畳んだマントを枕にして横たわっている。

 カイルは虚ろな目で天井を見つめ、時折まばたきをするだけだ。ずれた眼鏡を直す気力すらない。

 ルカスは横向きに倒れ、荒い息を繰り返していた。二人とも魔力を使い果たし、指一本すら満足に動かせない。


 エリザベートは会場の亀裂を見つめていた。


 床の裂け目は広がったまま静止し、その底には暗い虚無が覗いている。壁の装飾は剥がれたまま宙に浮き、世界の皮膚が剥がれ落ちたようだった。

 生温い空気が肌に纏わりつく。崩壊の一歩手前で、世界は奇妙な均衡を保っている。


(凪ですわね。ただし、この先に待っているのが嵐であることは、もう分かっているわ)


 エリザベートは内心で呟いた。ソフィアの最後の報告が耳に残っている。

『プレイヤーはまだ諦めていません。「この不具合を消してやる」と、強く思っています』


 ジークハルトが剣の柄に手を置いたまま、空を見上げた。半透明の体に、翠の瞳だけが鮮やかに光る。レオンも同じように空を睨みつけていた。


 クレアは二人の傍らに跪いたままだった。何か手伝えることはないかと膝を揃えているが、その手は行き場を失って、ただ自分のスカートの裾を握りしめている。


 その時、空中に赤い文字が浮かび上がった。


『プレイヤー再接続』


 全員が硬直した。

 エリザベートの呼吸が止まる。心臓が、一拍だけ音を忘れた。


「戻ってきたか」

 ジークハルトが低く呟いた。剣の柄を握る手に、力が籠もる。


 ソフィアが手帳を開いた。ページをめくる指が震えている。手帳の表面に浮かぶ青白い微光が、不規則に脈打っていた。

 そして、ソフィアの顔が蒼白になった。


「さっき、導線が繋がったときに逆流してきた感情の残滓と同じものが、今また流れ込んできています」


 彼女の声は低く、抑制されていた。だからこそ、その震えが際立つ。


「これまでで最大の強さです。振り切れています」


 空中に、プレイヤーの思念が文字となって浮かび上がった。


『もう許さない』

『このバグ、完全に消してやる』


 床に倒れたままのカイルが、掠れた声を上げた。


「まずいな」

「何が見えますの?」


 エリザベートが駆け寄った。


「プレイヤーが最終手段を選ぼうとしている」


 カイルの紫の瞳に、知的な恐怖が浮かんだ。研究者が、自分の理論では説明できない現象に直面した時の目だった。


「世界の全消去だ。白紙に戻す」


 ルカスも床から続けた。


「世界をゼロから作り直すつもりのようですね」


 レオンが剣を抜いた。ジークハルトも構えを取る。しかし、剣で斬れる相手がいるわけではない。二人ともそれを分かっている。それでも構えた。他にできることがなかった。


 空中に新たな文字が表示された。


『警告:全データの消去を実行しますか?』

『はい』


 間髪入れず、プレイヤーが選択した。


 しかし世界は何の反応も示さない。プレイヤーの苛立ちが、再び同じ選択を叩きつける。


『はい』『はい』『はい』『はい』


 同じ選択が何度も何度も繰り返される。その衝動の向こう側に、怒りに震える指先が見えるようだった。

 繰り返しの末、システムがようやく応答した。


『全消去命令を五回検出』

『確認:本当に本当に本当に本当に本当に実行しますか?』


『実行する!』


 プレイヤーの最後の選択が、世界に焼き付いた。



* * *



 瞬間、世界が痙攣した。


 会場の空気が、突然重くなった。目に見えない巨大な掌が天井から押しつけてくるような圧力。エリザベートは息苦しさに胸を押さえた。


 天井から、白い光が降り注ぎ始めた。


 それは柔らかく、初雪のようにゆっくりと降ってくる。光の粒は羽根のように舞いながら、会場に降り積もっていった。美しい光景だった。


(なんて綺麗なのかしら)


 しかしエリザベートのその思考は、一瞬にして凍った。


 会場の端にかろうじて残っていた生徒の一人に、光が触れた瞬間だった。

 生徒の足先が、崩れ始めた。砂ではない。もっと細かい、光の粒子だ。足は霧のように空中へと溶けていく。


「え?」


 生徒は自分の足を見下ろした。驚き、困惑。声を上げようとした。

 もう遅かった。


 崩壊は足から膝へ、膝から腰へと這い上がる。生徒の体は下から順に、光の粒子となって空中へ消えていった。


 そして、彼が完全に消えた瞬間。

 会場に、場違いなほど明るい音が鳴り響いた。


 金貨を打ち合わせたかのような、甲高く、軽やかで、陽気な音色。何かの成果を祝うための、あらかじめ用意された祝福の音。それが人が消えた直後に鳴ったのだ。


(なんですの、この音は)


 エリザベートの思考が、一瞬だけ真っ白になった。


 白い光が次々と他の生徒たちに触れた。ある者は驚いて叫び、ある者は逃げようとした。しかし誰も逃げられない。光は確実に、容赦なく、すべてを粒子に変えていく。

 そして消えるたびに、あの音が鳴る。


 十人。二十人。三十人。音が重なり合い、旋律を成し始めた。狂ったオルゴールのような不協和音。


(人が消えているのに。命が消えているのに。祝福の音だなんて)


 エリザベートは自分の中に、怒りとは別の感情が生まれるのを感じた。おぞましさだ。この世界を支配する者にとって、命の消滅すら処理の一部でしかないという事実への、根源的な嫌悪。


「ソフィア」


 声を絞り出した。

 ソフィアは震える手で手帳を見ていた。


「世界の仕組みは、私たちをただの記録として扱っています。消去も数値の清算と同じ処理です。だから——」


 彼女は言葉を切った。言い終える必要はなかった。


 白い光が会場の壁に触れた。大理石の壁が、古い紙が朽ちるように端から崩れ落ちていく。地面に落ちる前に、それは光の粒子に変わって空中へ消えた。壁に飾られていた絵画も、燭台も、すべて。

 消えるたびに、あの音が鳴る。


 シャンデリアが光に包まれた。巨大な硝子の飾りが上から順に粒子になっていく。一粒一粒が光の粒となって消え、最後にシャンデリア全体が消えた瞬間、ひときわ大きな音が鳴った。


「大きいものほど音もデカいのかよ!」


 レオンが叫んだ。怒りが声を震わせている。

 床に倒れたままのカイルが言った。


「保護領域を展開する」

「できますの!? まだ動けないくせに!」


 エリザベートが駆け寄った。カイルの顔は蒼白で、額には汗が浮いている。


「指だけ動かせれば、足りる」


 カイルは床に倒れたまま、震える右手を持ち上げた。筋肉が痙攣し、まともに制御できていない。それでも人差し指だけを立てた。

 指先から、青白い光が漏れ出した。かすかな、しかし確かな魔力の輝き。


 カイルは空中に見えない文字を描き始めた。一つ一つ、指先だけで。文字が歪む。描き直す。汗が頬を伝って床に落ちた。唇は血の気を失い、呼吸は荒い。

 それでも描き続ける。


 最後の文字を描き終えた瞬間、空中に描かれた文字列が青白く輝き、会場の中心に透明な半球が現れた。仲間たち全員を包み込む大きさ。表面はかすかに虹色に輝き、ゆらゆらと揺れている。


 白い光が保護領域に触れた。そして弾かれた。撥水加工された布を液体が滑り落ちるように、光は領域の表面を流れて消えていく。


「通ったぞ!」


 レオンが拳を握った。

 しかし、空中に赤い文字が浮かんだ。


『保護領域検出』

『セキュリティ違反:不正なプログラムを検出』

『消去優先度:最高』


 白い光の流れが変わった。会場全体に降り注いでいた光が、一斉に保護領域へと集中する。

 光の量が激増した。領域の表面に白い光が押し寄せ、激流のように流れていく。表面が激しく明滅し、虹色の輝きが強まっては弱まる。


「持ちこたえろ、カイル!」


 ジークハルトが叫んだ。

 カイルの指先から出る青白い光が、次第に弱くなっていく。滝のように汗が流れ、唇が震えている。


「保護領域が削られている」


 カイルの声には焦りがあった。しかし分析的な冷静さも、まだ失っていない。


「外側からの消去の力が、私の出力を上回り始めた」


 保護領域の外では、崩壊が加速していた。


 床の大理石が端から順に粒子になる。床に刻まれていた魔法陣の線も、亀裂も、すべてが消える。窓が消え、柱が消え、天井が消える。あの音が途切れることなく響き続ける。会場は白い光と陽気な祝福の音に包まれ、どこか祝祭的ですらあった。


 その不気味なまでの場違いさに、エリザベートは歯を食いしばった。


(これが、この世界を支配する者の本性ですのね)


 自分たちの消滅は、プレイヤーにとっては処理が一つ片付いただけのこと。何人消えても、あちら側では数字が変わるだけ。

 改めて、エリザベートはその事実を噛みしめていた。



* * *



 クレアの手が光に包まれた。


「え?」


 クレアは自分の右手を見た。指先がかすかに透けている。向こう側が見える。ガラスのように。

 そして指先が粒子になり始めた。爪から、指の先端から、砂時計の砂のように、彼女の指が空中へ消えていく。


「クレア!」エリザベートが叫ぶ。「なぜ!? 保護領域の中にいるのに!」


「クレアはこの世界のヒロインです。だから、『最も重要な存在』に分類されています」


 ソフィアの声は、報告者としての冷静さを保とうと努めていた。それが却って痛々しい。


「消去の際、最も重要なものから順に処理されます。保護領域では防げません」


 クレアの両手が、もう手首まで消えていた。

 彼女は自分の消えていく手を見つめた。そして——微笑んだ。


 それは、あの整えられた完璧な微笑みではなかった。口元が少しだけ歪んで、目尻に皺が寄って、唇が小刻みに震えている。不格好で、不完全で、だからこそ、紛れもなく人間の笑顔だった。


「大丈夫です」


 声は落ち着いていた。けれど、その落ち着きはかつてのような台本を読み上げる安定感ではなく、自分で選び取った言葉を、丁寧に紡ごうとする慎重さだった。


「私はずっと、プレイヤーに操られる人形でした。自分の意志を持ったのは、今日が初めてのことです」


 腕が肘まで消えた。クレアは消えゆく腕を見つめて、少しだけ首を傾げた。自分の体に起きていることが他人事であるかのように。けれど声は僅かに掠れていた。


「たった一日だけの自由でしたけど」


 彼女の目が、潤んだ。涙が落ちるかどうかの、ぎりぎりの縁で。


「その一日が、これまでの何百もの繰り返しよりも、ずっと長く感じました」


 足元からも消え始めた。足首が消え、膝が消える。


「待って! クレア!」


 エリザベートが手を伸ばした。しかしクレアの肩を掴もうとした指は、透けた体を通り抜けた。何も掴めない。


(掴めない。この手では、何も)


 その無力感が、胸を裂いた。


「エリザベート様」


 クレアの声が小さくなっていく。胸が消え、肩が消え、首が消えていく。


「どうか——」


 最後の言葉を言い終える前に、口が消えた。顔が消え、頭が消え。

 あの音が鳴った。ひときわ大きく。


 クレアは完全に消えた。彼女がいた場所には、何も残っていなかった。ただ、彼女の目の縁に浮かんでいた雫だけが、床に落ちて微かに光っていた。


(あなたが言いかけた言葉は、何だったのかしら)


 エリザベートは、その光る雫を見つめた。


(「どうか」の続きを、わたくしは一生考え続けることになるの?)



* * *



 重い沈黙を破ったのは、ルカスだった。


「私が光を押し留めます」

 掠れた声。しかし、その底には鉄のような意志が通っている。


「何を言っていますの!?」

 エリザベートが振り向いた。

「あなたもまだ動けないでしょう! 無理ですわ!」

「できます」


 ルカスは床に倒れたまま、震える両手を天に掲げた。


「神よ。いや」彼は言い直した。「もう神に祈ることはしません」


 ルカスの体から、銀色の光が溢れ出した。胸から、腕から、全身から。それは荘厳な聖なる光ではなかった。もっと温かく、もっと人間味のある、生命力そのもののような光だ。


「私が祈るのは、この仲間たちです。目の前にいる、大切な仲間たちです」


 銀色の光が保護領域を包み込んだ。毛布のように領域の表面を覆い、白い消去の光を押し返す。光と光がぶつかり合い、空中で火花を散らした。


 しかしルカスの足元が、粒子になり始めた。


「ルカス!」

 レオンが叫んだ。


「分かっています」

 ルカスは穏やかに笑った。足首が消え、膝が消えていく。


「私自身が盾になっているのです。自分の存在を燃料にして、銀の光を維持しています」


 腰が消えた。それでも彼は祈りの手を下ろさない。銀色の光は、むしろ強くなっていく。消えゆく体から搾り出すように。


「これで皆の時間を、少しでも稼いでみせます」


 胸が消え始めた。


「レオン」

「おう」

「あなたは最高の友でした」


 レオンが唇を噛んだ。歯の間から血が滲むほど強く。返す言葉を探しているうちに、ルカスの肩が消え、首が消え、顔が消えていく。最後の最後まで、祈りの手を掲げ続けたまま。


 あの音が鳴った。



* * *



 ソフィアが前に出た。


「私が世界の記録を残します」


 小さな声だった。しかし決意に満ちている。


「ソフィア、それは」

 カイルが床から言いかけた。ソフィアは首を横に振った。


「分かっています。でも、誰かがやらなければ、この世界のすべてが完全に失われます」


 手帳を掲げた。ぼろぼろになりかけた手帳から、無数の光の糸が溢れ出す。

 夕焼けを思わせる茜色の細い糸が、蜘蛛の巣のように会場の隅々へと伸びていった。まだ残っているすべてのものに触れ、記録を吸い上げていく。


「この世界のすべての記憶を、私の中に」


 ソフィアの焦げ茶の瞳も茜色に光り始めた。膨大な量の情報が、彼女の脳に流れ込んでいく。会場の形状、壁の模様、参列者たちの顔、彼らの記憶。


 彼女の体が震えた。額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。

 鼻から、一筋の血が流れた。


「ソフィア!」

 エリザベートが叫んだ。

「やめてちょうだい! あなたの体がもたないわ!」

「大丈夫です」


 ソフィアは微笑んだ。目からも血が流れ始めている。血が頬を赤く染めていった。


「私は記録係ですから。記録することが、私の本分です」


 耳からも血が流れた。人の器が受け止められる量を、はるかに超えている。それでも手帳を閉じない。


「記録、完了しました」


 ソフィアは満足そうに微笑んだ。血に染まった顔で、穏やかに。


「これで世界が消えても、記録は残ります」


 手帳が床に落ちた。夕焼けの微光を残したまま。

 そしてソフィアの体が、粒子になり始めた。


「ソフィア」

 エリザベートの声が震えた。胸の奥が灼けるように熱い。


「……ありがとう」


 ソフィアは最後に微笑み、消えた。

 あの音が鳴った。

 手帳だけが、床に残っていた。



* * *



 カイルの保護領域が激しく揺れた。表面に、ガラスのような亀裂が走る。


「不本意ながら、限界が近いようだ」

 カイルの指先から出ていた青白い光が、消えかかっている。


「カイル、お前は十分やった」

 ジークハルトの声は静かだった。


「もういい。無理をするな」

「いや、まだだ」


 カイルは指を立て続けようとした。しかし手が震え、指が下がっていく。


「エリザベート。ジークハルト殿下」


 カイルの紫の瞳は、もう焦点が合っていない。それでも、知性の光は消えていなかった。


「システムの根源に退避しろ」

「根源?」


「この消去を実行しているのは、システムそのものだ。プレイヤーの命令を受けて、システムが対象を一つずつ消している。消去とは、このシステムが実行する処理だ」


 カイルは瀕死の状態でなお、思考の明晰さだけは手放していない。


「ならば、システムそのものは消去の対象にならない。自分で自分を消すことは、どんな仕組みであっても論理的に不可能だ。処理を実行している当事者は、その処理の対象にはなれない」


「つまり、仕組みそのものがある場所に行けば」

「そこだけは消去が届かない。お前たちをそこに送る。私に残った力で。説明している時間はない。行け」


 エリザベートは動けなかった。


「カイル、あなたはどうなるの」


 カイルは答えなかった。答える必要がなかった。保護領域を手放した瞬間に何が起きるか、聞かずとも分かる。


「嫌ですわ」


 エリザベートの声が震えた。


「ルカスも、ソフィアも、もうこれ以上誰かを失うのは」

「感傷に浸っている暇はない」


 カイルの声は冷たかった。しかしその冷たさの奥に、微かな温もりが滲んでいた。


「お前たちが生き残ることが、消えた者たちの意味になる。ここで全員が消えたら、すべてが無駄死にだ」


 ジークハルトが拳を握りしめた。唇が一文字に引き結ばれている。


「カイル」

「行け、殿下」

「必ず、取り戻す。お前も、全員。必ずだ」

「ああ。期待している」


 カイルの唇が、僅かに動いた。笑ったのだと、エリザベートには分かった。

 ジークハルトがエリザベートの手を握った。


「一緒に行こう」


 エリザベートは頷いた。喉の奥が詰まって、声にならなかった。二人は手を繋いだまま、目を閉じた。


 カイルが最後の力を振り絞って指を立てた。指先から、かすかな青白い光。

 そして叫んだ。


「行け!」


 二人の体が、深い青色の光に包まれた。消去の白い光とはまるで異質な、穏やかで温かい光だった。


 光の中で、エリザベートは自分の記憶が流れていくのを感じた。


 幼い頃の記憶。父の大きな手。母の笑顔。初めて魔法を使えた日。悪役令嬢として糾弾された絶望。そしてジークハルトと出会った日。最初は反発し合い、少しずつ理解し合い、共に戦うことを決めた日々。カイルの皮肉。ルカスの祈り。レオンの剣。ソフィアの手帳。クレアの、あの不格好な笑顔。


 すべてが光となって、魂に刻まれていく。


「ジークハルト様」

「ああ、エリザベート」


 光の中で、二人は互いの声を聞いた。


 カイルが最後の言葉を叫んだ。


「お前たちは、最高の仲間だった!」


 カイルの体が粒子になり始めた。最後まで指を立て続け、最後まで、あの分析的な眼差しを崩さなかった。


 彼が完全に消え、あの音が鳴ると同時に、保護領域が砕け散った。透明な半球が無数の破片となって光に溶ける。


 白い消去の光が、一気に押し寄せた。


 レオンが剣を構え、光に向かって振り下ろした。斬れないと分かっている。光は物理的な刃では斬れない。それでも彼は振った。騎士だから。仲間を守ると決めたから。

 光が剣を通過し、レオンの体を包み込んだ。


「俺は最後まで、お前たちの騎士だ」


 レオンは最後まで剣を握りしめていた。そして消えた。

 あの音が、ひときわ高く鳴った。



* * *



 会場には、エリザベートとジークハルトしか残っていなかった。


 二人は青い光に包まれたまま手を繋いでいる。白い消去の光が迫ったが、青い光がそれを押し返した。二つの光が激しくぶつかり合い、火花を散らす。


 会場全体が眩い輝きに包まれ、もう何も見えなくなった。


「エリザベート」


 ジークハルトの声が聞こえた。落ち着いていたが、わずかに震えている。


「怖いか?」

「怖いですわ」


 エリザベートは正直に答えた。


「でも」


 言葉を探した。「あなたと一緒なら大丈夫」。そう言えたら楽だった。けれど、それは嘘になる。大丈夫ではない。世界が消えている。仲間が消えた。何もかもが消えていく。


「……やっぱり怖いですわ。でも、あなたの手が温かいから。それだけで、目を開けていられます」


 ジークハルトは微笑んだ。見えなかったが、繋いだ手の温もりの微かな変化で、分かった。


「私もだ。君がいれば、闇の中でも前を向ける」


 二人の体も、ゆっくりと粒子になり始めた。しかし彼らの魂は、青い光に守られて、世界の最も深い場所へと向かっている。


 手を離さなかった。


 世界が消えていく。会場が消え、城が消え、街が消える。空が消え、大地が消え、すべてが白い光に呑み込まれていく。


 あの音が、無数に重なり合って鳴り続けていた。陽気に、無邪気に、世界の終焉を祝うように。

 やがて、音も消えた。



* * *



 暗闇だった。


 音はない。光もない。温度も感じられない。ただ、繋いだ手の温もりだけが、唯一の確かなものだった。


「ここが世界の根幹?」


 エリザベートが呟いた。声が暗闇の中で小さく反響し、すぐに吸い込まれた。

 ジークハルトが彼女の手を強く握った。


「ああ。ここなら、きっとプレイヤーも私たちを消せない」


 闇の中で、互いの温もりを感じていた。それだけが、二人がまだ存在している証だった。


 その時、遠くに光が見えた。


 小さな光。五つ。暗闘の底に、星のように浮かんでいる。紫と、白と、赤と、銀と、桃色。


 声が聞こえたわけではなかった。

 しかし、分かった。光のひとつひとつに、仲間たちの意志が宿っていることが。言葉ではない。音でもない。ただ、確かにそこに在るという、存在の重みだった。


 エリザベートは息を吸った。喉の奥が熱く詰まって、声にならない。令嬢の矜持も、悪役令嬢の不敵さも、今は要らなかった。


「みんな」


 震える声で、それだけを言った。


 世界は消えた。


 しかし、彼らの魂は残った。記憶は残った。そして崩壊する会場の床で、ソフィアの手帳は夕焼けのような微光をまだ放ち続けていた。

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