第24話:試作型干渉魔術「コード・ボイド」
翌朝、カイルの研究室で実験が始まった。
六人は、机の上に置かれた白いコーヒーカップを囲んで立っていた。カップには何も入っておらず、ただの空のカップだ。陶器の表面がつるりと光を反射している。しかし、この何の変哲もないカップこそが、彼らの運命を変える最初の一歩になるかもしれなかった。
「準備はいいか?」
カイルが尋ねた。目の下には徹夜の証拠たる濃いクマがあり、眼鏡のレンズには指紋と埃がついている。しかし、その紫の瞳は興奮で輝いていた。
「準備って言われてもな」
レオンが首を傾げた。
「俺たちは見てるだけだろ? あ、消火係か」
「そうだ。万が一の時は頼む」
カイルがあっさり答える。レオンは部屋の隅に置かれたバケツを見て溜息をついた。昨夜は三つだったバケツが、今朝は五つに増えている。しかも、そのうち二つには砂まで入っていた。
「砂まで用意してるのかよ。本気で爆発する気満々じゃねえか」
「念には念を入れただけだ。科学者の心得だ」
「科学者じゃなくて放火魔の心得だろ、それ」
ソフィアが小さく笑った。その笑い声が、緊張した空気を少しだけ和らげる。
「では、始める」
カイルは装置に手を置いた。試作第八号は昨夜より更に複雑になっており、水晶球の周りに銅の円盤が何重にも重なっている。
その隣には、ソフィアの手帳が開いて置かれていた。手帳は特殊な魔法陣の上に乗せられ、その魔法陣から青白い光が静かに立ち上っている。
「エリザベート、魔力を」
「ええ」
エリザベートは水晶球に手を当てた。
ひんやりとした感触が掌に広がる。目を閉じ、深く息を吸った。体の中から温かいものが湧き上がり、腕を伝って掌に集まっていく。
その瞬間、装置が唸り声を上げた。
低い振動音が次第に甲高く変わり、円盤が高速で回転し始める。水晶球が脈動するように光り、その光が手帳へと流れ込んでいった。
ソフィアの手帳のページが、風もないのに勝手にめくれていく。そのページに次々と文字が浮かび上がっては消えていく。0と1の羅列。無数の数字が、川のように流れていく。
「来ている! 繋がっている!」
カイルが叫んだ。そして壁に貼られた大判の紙を見た。そこには、昨夜彼が計算した「白いコーヒーカップを青いコーヒーカップに変える」ための0と1のパターンが書かれていた。
「ソフィア、今から私が読み上げる数列を、手帳に書き写してくれ!」
「は、はい!」
ソフィアはペンを握り、震える手で構えた。
「01000011……」
カイルが数列を読み上げ始めた。早口で、しかし正確に。ソフィアは必死にそれを書き写していく。
十秒、二十秒、三十秒。
「最後! 01!」
ソフィアが最後の数字を書いた瞬間、手帳が光った。
まばゆい青白い光が手帳から溢れ出し、コーヒーカップに向かって一直線に伸びる。光の筋がうねりながらカップに触れた。
その瞬間。
バチィッ!
小さな破裂音。風船が割れたような、乾いた音。
コーヒーカップが跳ねた。
文字通り、跳ねた。机の上で三回バウンドして、レオンの顔面に向かって飛んできた。
「うおっ!?」
レオンは咄嗟にカップをキャッチした。その拍子に体勢を崩し、後ろにあったバケツに足を突っ込んだ。
バシャァッ!
水が盛大に跳ね、レオンのズボンがびしょ濡れになった。
「冷てえ!」
レオンが顔をしかめる。
「すまん、レオン。大丈夫か?」
「大丈夫じゃねえよ! なんでカップが飛んでくるんだよ!」
「予想外の反動だな。メモしておかなければ」
カイルはそう言いながら、用箋挟に挟んだメモ用紙に何かを書き込んでいる。全く反省の色がない。
「って、おい。カップは? 実験は成功したのか?」
ジークハルトが尋ねると、レオンは手に持っているカップを見た。
「えーと……あれ?」
全員が息を呑んだ。
カップは、半分だけ青くなっていた。
上半分は鮮やかな青。晴れ渡った空のような美しい青色だ。だが下半分は元の白いまま。境界線がくっきりと分かれていて、誰かが定規で線を引いて色を塗り分けたかのようだった。
「……半分? 半分だけ?」
レオンが呆然と呟き、しばらく沈黙が続いた。
カイルが眼鏡を外し、レンズを拭き始めた。その手が微かに震えている。
「あー……」
カイルは眼鏡をかけ直して、カップをまじまじと見つめた。
「まあ、初めてだからな。五十パーセントの成功率は上出来だ」
「上出来なのか、それ」
レオンが呆れた声を出した。
「ああ。前回は爆発したからな」
「爆発してないことを成功の基準にするなよ。しかも俺、濡れたし」
「カップが飛んだのは想定外だった。次からは気をつける。だが、バケツに足を突っ込んだのは君の責任だ」
「どう考えてもお前の責任だろ。つか、次もあるのかよ」
エリザベートはくすりと笑みを漏らした。
半分だけ青いカップ。びしょ濡れのレオン。そして、全く悪びれずにメモを取り続けるカイル。張り詰めていた緊張の糸がほどけて、ソフィアも、ルカスも、ジークハルトも、穏やかな笑顔を見せた。
「けれど半分だろうと、確かに色が変わった。つまり、我々は世界のデータを書き換えたんだ」
ジークハルトが言った。
「その通りだ。これで証明された。我々は、世界を変えられる」
カイルも満足そうに頷いた。
エリザベートは、改めて半分青いカップを見つめた。
たかがカップの色。されど、それは「確定」と書かれた運命に自分たちの筆を入れたということだ。この手で、世界の一片を書き換えた。その事実が胸の内で静かに燃えている。
「ええ。これが最初の一歩ですわ」
彼女は不敵に微笑んだ。
「次は、もっと大きなものを変えましょう。例えば──」
その時、ルカスが顔色を変えた。
「待ってください。何か、来ます」
全員がルカスを見た。彼は目を閉じ、何かを感じ取ろうとしている。
「これは……強制力です。巨大な、これまでで最大の……」
ルカスの額に冷や汗が浮かんだ。
「クレアが何かを使おうとしています。おそらく課金アイテムです。しかも、今までとは桁違いの」
* * *
その頃、学園の中庭では、クレアが小さな箱を開けていた。
彼女は今日も美しかった。
薔薇色のドレスは彼女の肌を際立たせ、風に揺れる栗色の髪が陽光を受けて金色に輝いている。大きな琥珀色の瞳、長い睫毛、微かに上を向いた唇。どこを切り取っても構図として完成している。彼女が立つだけで、周囲に柔らかい光が当たっているように見えた。
箱の中には、美しい首飾りが収められていた。銀細工の繊細な鎖に、深紅のルビーが埋め込まれている。ルビーの表面は完璧に磨かれ、血の雫が凝固したかのような艶やかな輝きを放っていた。そのルビーが、脈打つように明滅している。生き物の目のように。
クレアは首飾りを手に取った。
「これでみんな、私のことを好きになってくれるのね」
クレアは微笑んだ。その笑顔は純粋で、邪気がなかった。彼女にとって、これは「みんなと仲良くなるための道具」でしかないのだ。アイテムの効果が何を意味するかなど、考えもしていない。
「ジークハルト様も、レオン様も、カイル様も、ルカス様もみんな、私を見てくれる。素敵ね」
彼女は首飾りを首にかけた。豪華な首飾りは、ヒロインの首に寸分の狂いもなく収まった。
その瞬間、学園中の空気が変わった。
重い。圧倒的に重い空気が学園全体を包み込んだ。巨大な手が上から押しつぶそうとしているかのような、耐え難い圧力。
カイルの研究室でも、その圧力は感じられた。
「うっ……」
レオンが膝をついた。呼吸が苦しい。
「これは……」
カイルが装置を見た。水晶球が真っ赤に光っている。警告の色だ。球体の表面に細かいヒビが入り始めている。
「まずい。システムが、巨大な処理を始めた」
「ジークハルト様、レオン様、カイル様、ルカス様」
クレアの声が、空中に響いた。その声は歌うように美しく、どこまでも澄んでいた。そして物理的な距離を無視して、学園中のすべての場所に届いた。壁を通り抜け、耳の奥まで染み込んでくる。
「今すぐ、私のもとへいらっしゃって。お待ちしていますわ」
その言葉は丁寧で、優しく、甘やかな響きだった。だが、その優しさの奥に、抗えない絶対の強制力が隠されていた。
その瞬間、四人の体に見えない力が流れ込んだ。
ルカスの体が引き寄せられようとした。足が一歩、勝手に前に出る。しかし次の瞬間、彼の周囲にガラスのような薄い光の膜が現れた。
「ファイアウォール!」
昨日、神殿で五秒しか持たなかった、あの術式。ルカスは咄嗟にそれを発動させていた。光の膜が彼の体を包み、強制力を弾く。足が止まった。
しかし、他の三人にはそれがなかった。
三人の体が動いた。いや、動かされた。
ルカスの張った膜に亀裂が走った。たった五秒の壁。砕けるまでの、わずかな猶予。しかしその五秒で、強制力はルカスを諦め、残る三人に集中した。
光の膜が砕け散ると同時に、ルカスはその場に膝をついた。激しい頭痛。だが、体は自分のものだ。
しかしジークハルトの体は勝手に向きを変え、窓に向かって歩き出す。靴音が規則的に響く。カツ、カツ、カツ。次第に速くなっていく。
「待て、私の足が。そっちは窓だ」
ジークハルトの抗議も虚しく、彼の体は窓を蹴破った。
ガラスが砕け散り、破片が宙を舞う。その中を、王太子が飛び降りた。颯爽と、とは到底言えない。無理やりだ。
地面に着地した瞬間、足首に鋭い痛みが走る。しかし体は止まらない。痛む足を引きずりながら、中庭へ向かって走り出す。
「やめろ! この走り方は、王太子の威厳というものが……」
抗議も虚しく、彼の足は全速力で地面を蹴り続けた。
一方、研究室では。
「レオン!」
ルカスが叫んだが、レオンの体は既に扉に向かって突進していた。
「無理だ、体が勝手に──」
バァン!
レオンの体が扉に激突した。木製の扉が外れ、蝶番が折れた。扉は廊下に向かって吹き飛んだ。
レオンも扉と一緒に廊下に飛び出し、全速力で駆けていく。
すれ違う生徒たちが悲鳴を上げた。
「キャー! レオン様が暴走しているわ!」
「しかもズボンがびしょ濡れ!」
「違うんだ! これは──」
レオンは階段の角を曲がりきれず、壁に激突した。壁に掛けられていた絵画が落ちて額縁が砕ける。
「ごめん! あとで弁償って、待て、止まれ!」
しかし彼の足は、壁から跳ね返ったように、再び走り出した。
そして、カイル。
「装置が!」
カイルの体が勝手に走り出す。装置に繋がっていたケーブルが引っ張られ、火花を散らす。
「カイル様!」
ソフィアが叫んだが、カイルの体は止まらない。ケーブルが限界に達し、千切れた。
装置から大きな火花が飛び、白い煙が立ち上り始める。
カイルは走りながら眼鏡が外れ、床に落ちた。
視界がぼやけた状態で階段に突入し、一段目を踏み外した。体が宙に浮き──
ゴロゴロゴロ!
カイルは階段を転げ落ちた。踊り場に激突して、ようやく止まった。
「いたたた……」
体中が痛い。しかし、足はまだ動いている。
「まだ止まらないのか。鬼か……」
カイルは再び立ち上がり、ふらふらしながら走り出した。
「待ちなさい!」
エリザベートが叫んだ。しかし三人は止まらなかった。止まれなかった。
研究室には、煙を上げる装置と、レオンが作った水溜まりと、カイルの眼鏡と、壊れた扉だけが残された。
「くっ……」
エリザベートは煙を上げる装置を見た。
「カイルの装置を使えば……けれど、壊れかけているわね」
「エリザベート様!」
ソフィアが手帳を開いた。ページには、先ほど書き写した0と1の数列がまだ残っている。
「この数列は、『白を青に変える』命令でした」ソフィアは早口で言った。「なら逆に考えれば、『命令を無効にする』命令も作れるはずです」
「命令を、無効に……?」
「はい。クレアの命令は、0と1で構成された符号です。その符号を打ち消す符号。0と1を反転させるんです」
ソフィアの目が輝いた。
「『0』で、すべてを否定するんです!」
エリザベートは、すぐに理解した。
彼女は煙を上げる装置の水晶球に手を当てた。熱い。水晶の表面が異常な高温になっていて、触れた瞬間に掌が焼けるような感覚がした。
「熱っ! でも我慢ですわ!」
「エリザベート様! あまり無理をしないでください!」
「ソフィア、新しい数列を。『すべてを0にする』数列を」
「……できます!」
ソフィアはページをめくり、新しいページに猛烈な速度で書き始めた。0、0、0、0。すべてが0の数列。単純だが、それゆえに強力な否定の命令だ。
「これを、カイル様は『コード・ボイド』と名付けていました。ボイド、つまり『虚無』の符号です。すべてを消去する命令です」
装置が再び唸り声を上げた。今度は先ほどよりも激しく。金属が軋む不吉な音が響く。水晶球が赤い光から漆黒の光に変わっていく。光を飲み込むかのように。
「行きますわ!」
エリザベートが叫んだ瞬間、ソフィアが最後の0を書いた。
手帳から、黒い光が放たれた。
その光は研究室の煙を切り裂き、壊れた扉の穴を通り抜け、廊下を駆け抜け、中庭に到達した。
* * *
中庭では、ジークハルト、レオン、カイルの三人がクレアの前に膝をついていた。
ジークハルトの服は窓ガラスの破片で所々切れており、足首は腫れ上がっている。
レオンのズボンはびしょ濡れのまま。
カイルは眼鏡なしで目を細めており、階段から転げ落ちたせいで髪がぼさぼさだった。
三人とも息を切らしている。その表情は恐怖に歪んでいた。体は勝手に動き、口は勝手に開こうとしている。首飾りの力が、彼らの意志を完全に支配しようとしていた。
「あら、みなさん、お怪我をされて……」
クレアが心配そうに眉をひそめた。その表情は不自然なほどに完成されていた。絵画に描かれた聖母のような、均整の取れた憂い。困惑と慈しみの配分が、あまりにも正確すぎる。
「大丈夫ですか? 無理に急いでいらっしゃらなくても良かったのに」
彼女は本当に、何も分かっていなかった。自分が彼らを強制的に呼びつけたことも、彼らが必死に抵抗していることも。
クレアにとって、これは「好きな人たちが自分のもとに駆けつけてくれた」という、ただそれだけの出来事なのだ。乙女ゲームのヒロインとしての認知が、それ以外の解釈を許さない。
「さあ、誓ってくださいな」
クレアが微笑んだ。泉のように透き通った、どこまでも無邪気な笑顔。栗色の髪が風に揺れる。
だが、その風はどこから吹いているのか。周囲の木々は微動だにしていなかった。クレアの髪だけを揺らす、都合の良い風。
「ずっと、私と一緒にいてくださるって」
ジークハルトの口が開こうとした。その瞬間。
黒い光が、クレアの首飾りに直撃した。
バリィィィン!
ガラスが割れるよりもっと鋭い音。空気が裂ける音。
首飾りが、砕け散った。
ルビーが粉々になり、赤い粉が宙に舞う。銀の鎖がバラバラに千切れ、無数の破片となって地面に散った。
「あ……」
クレアが呆然と呟いた。細い指が首元に触れる。そこには、もう何もない。
その瞬間、三人を縛っていた見えない鎖が消えた。
ジークハルトは自分の手を見た。動く。自分の意志で動く。指を曲げ、伸ばす。その動作が、自分の命令で行われている。
「……私は」
彼は立ち上がった。足が震えているが、それでも立ち上がった。腫れた足首が痛む。だが、その痛みすら自分のものだ。誰かに強制された痛みではない。
「お前の命令を、拒否する」
その声は掠れていたが、確かな意志が込められていた。
レオンも、カイルも立ち上がった。
三人はクレアを見下ろしている。その瞳には、もう服従の色はなかった。
「どうして……」
クレアが震える声で言った。大きな瞳が涙で潤んでいる。
「どうして、うまくいかないの? みんな、私のこと、好きになってくれるはずなのに……」
彼女の声は本当に悲しそうで、困惑に満ちていた。お気に入りの玩具が壊れてしまった子供のように。いや、彼女にとってこれは本当にそういうことなのだろう。「みんなと仲良くなる」ための魔法の道具が壊れてしまった。ただ、それだけ。この世界が彼女にそう感じるよう設計しているのだから。
その時、中庭の入り口から、エリザベートが現れた。
髪は乱れ、金髪が額に張り付いている。息も切れ切れで、頬は紅潮していた。だが、その瞳には勝利の光が宿っている。
「残念でしたわね、クレア」
エリザベートは不敵に微笑んだ。唇が乾いて声がかすれている。けれど、その笑顔は自信に満ちていた。
「あなたの魔法は、もうわたくしたちには通用しませんの。わたくしたちは、その『命令』を消す方法を見つけましたわ」
「そんな……」
クレアは後ずさった。その瞳には、本当に理解できないという困惑があった。
ジークハルトはエリザベートの方を向いた。
二人の視線が交わる。そこには、言葉にならない感謝と信頼があった。
そして、ジークハルトは笑った。
今まで見せたことのない、心からの、解放された笑顔。
「ありがとう、エリザベート」
その言葉は短かったが、声が震えている。感情が溢れそうになるのを堪えていた。
エリザベートも微笑み返した。
「どういたしまして、ジークハルト様。これからは、もっと大きな『命令』も消して差し上げますわ」
彼女は扇を広げようとして、扇を持ってきていないことに気づいた。慌てて走ってきたので、手ぶらだった。
一瞬の間。
仕方なく空中で優雅に指を振って、一礼のポーズを取った。本人は完璧に決めたつもりだが、その仕草はあまりにも不自然で、ジークハルトが小さく笑った。
「……何を笑ってますの」
「いや、何も」
その時、ソフィアとルカスも中庭に駆けつけた。ソフィアは手帳を抱えたまま息を切らし、ルカスの神官服の裾は泥で汚れていた。しかし二人とも、満面の笑みを浮かべている。
「成功……しましたね……」
ソフィアが息を整えながら言った。
「ええ。神の命令を、初めて打ち破ることに成功しました」
ルカスも静かに、だが確かな喜びを込めて応じた。
六人は、中庭に集まった。
クレアは、その光景を呆然と見ていた。彼女を中心に展開されるはずの物語が、完全に崩れ去っている。彼女を愛するはずのキャラクターたちが、今は彼女から離れ、一つの輪を作っている。その輪の中心には、エリザベートがいた。
「これで分かっただろう」
ジークハルトがクレアに向き直った。その声には、もう迷いがなかった。
「私たちは、もうお前の操り人形じゃない。私たちには、意志がある。心がある。そして──」
彼はエリザベートの傍に歩み寄り、その手を取った。
エリザベートは少し驚いたが、その手を払いのけなかった。
温かい。汗で湿った、けれど確かに力強い手。この体温は、システムが生成した偽りの演出ではない。ジークハルトという人間の、本物の温度だった。
エリザベートは自分の感情を分析した。ドキドキしている。けれど、これはチョコレートの時のような侵入的な感情ではない。胸の奥から自然に湧き上がってくる、自分自身の感情だ。
それが何であるかは、今は考えないでおく。
「私たちには、守るべき仲間がいる」
ジークハルトはそう言い切った。
エリザベートは顔を上げ、不敵に微笑んだ。頬がまだ赤いが、それが走ってきたせいなのか別の理由なのかは、誰にも分からなかった。
「ええ。ですからジークハルト様、そろそろ手を放してくださらない? 皆が見ていましてよ」
「……ああ、すまない」
ジークハルトが少し慌てて手を離した。
その光景を、ソフィアが手帳に何やら書き込んでいた。
レオンは少し照れくさそうに目を逸らし、びしょ濡れの靴から水を絞ろうとしている。
カイルは目を細めて空を見上げている。眼鏡がないので、世界全体がぼんやりと見えているはずだ。
ルカスは静かに祈りを捧げていた。神へではなく、この世界の理を変えてくれた、仲間たちへの感謝の祈りを。
クレアは一人取り残されていた。砕けた首飾りの破片を拾い上げる。小さなルビーの欠片が、まだ微かに赤く光っている。
「どうして……」
涙が一筋、頬を伝って落ちた。
しかし、六人はもう彼女を見ていなかった。彼らは初めて、神の命令を打ち破ったのだから。
これは終わりではなく、始まりだった。
更なる戦いの、始まり。
だが今は、この小さな勝利を、六人で噛みしめていた。
中庭の上空では、半分だけ青いコーヒーカップが空中に浮かんでいた。
誰も気づいていなかったが、あのカップは実験の余波で研究室の窓から飛び出し、今も宙に浮いたまま、六人の勝利を見守っていた。
そして、そのカップはゆっくりと、完全に青く変わっていった。
世界が、彼らの勝利を追認したかのように。
カップがくるくると回転しながら降りてきて、エリザベートの足元にそっと着地した。
レオンがそれに気づいた。
「あれ? これ、カイルのカップだよな。なんでこんなところに……って、完全に青くなってるぞ! さっきは半分だったのに」
「本当ね」
エリザベートは微笑んだ。
「わたくしたちの実験は、少し遅れて百点満点を取ったようですわ」
「……よく見えないが、今度こそ成功と呼んでいいのか?」
カイルが目を細めながら尋ねる。
「ああ。今度こそ、成功だ」
ジークハルトが高らかに宣言した。
六人は青いコーヒーカップを囲んで笑い合った。
その笑い声が、初夏の中庭に響いた。




