第23話:ハッキング・マジックの産声
カイルの研究室で0と1の研究が始まってから、一週間が過ぎた。
その一週間で、研究室はまるで別の場所に変わり果てていた。
壁という壁に紙が貼られている。すべてに0と1の数列が書かれ、部屋全体が巨大な暗号文に覆われたようだった。机の上にはコーヒーカップが乱立し、床には反故紙が散乱している。窓は閉め切られたまま、空気はインクとコーヒーの匂いが混ざった独特の淀みを帯びていた。
そして机の中央に、奇妙な装置があった。
水晶球を核に、魔法陣が刻まれた銅の円盤が何重にも重ねられている。円盤がゆっくりと回転し、低い振動音を発していた。装置の一部には黒い煤がこびりついている。
「これが試作第七号だ」
カイルが言った。目の下には深いクマ、髪はぼさぼさ、眼鏡は歪んで片方のレンズにヒビが入っている。服のあちこちに焦げ跡。しかし紫の瞳は、興奮に輝いていた。
「やっと形になった」
装置の周りに五人が集まっている。全員、疲れた顔だった。
「で、これは何なんだ?」
レオンが装置を覗き込んだ。
「見た目は複雑な時計みてえだけど。っていうか焦げてるぞ、これ」
「焦げは気にするな」カイルがあっさり言った。「試作第一号から第六号まで、全部燃えた」
「全部?」
「ああ。第三号は完全に灰になった。第五号は爆発して天井に穴を開けた」
全員が反射的に天井を見上げた。確かに、黒く焦げた穴が開いている。
「おい、この研究室は大丈夫なのか……?」
ジークハルトが眉をひそめた。
「まだ燃えてはいない」
「『まだ』……」
「研究室の耐久性の議論はまたの機会にするとして」
カイルは話を戻した。円盤の一つを軽く叩くと、澄んだ金属音が響いた。
「これは、魔力を0と1の信号に変換する装置だ」
「魔力をデータに変える、ということですか……」
ソフィアが手帳を見ながら呟いた。
「その通りだ。従来の魔法は、精霊への祈りだった。火の精霊に頼んで炎を出す、水の精霊に頼んで水を出す。しかし、それは表面的な操作に過ぎない」
カイルは壁に貼られた紙の一枚を指した。複雑な数式と0と1の羅列が書かれている。
「本質的には、世界のデータを書き換えている。『この座標の温度を千度に設定』『この座標に水分子を生成』。そういった命令を、0と1で世界に送っているんだ」
「つまり、この装置を使えば、我々も世界に命令を送れると?」
ジークハルトが腕を組んだ。
「理論上は。しかし問題がある。前にも言ったとおり、我々は『NPC』だ。書き込み権限がない。だからこの装置だけでは不十分だ」
「では、どうするんですの?」
エリザベートが尋ねた。
「そこで」カイルはエリザベートを見た。「君の力が必要になる」
「わたくしの?」
「ああ。君は裂け目に触れた。データに直接触れた。つまり、何らかの特殊な権限があるはずだ」
カイルは装置の横にある小さな水晶球を指した。
「この水晶球に手を当てて、魔力を流し込んでくれ。普通に魔法を使うときのように」
エリザベートは水晶球に手を当てた。ひんやりとした滑らかな表面。目を閉じ、魔力を集中させる。体の中から温かなエネルギーが湧き上がり、腕を伝って掌に集まっていく。
その瞬間、水晶球が光った。
青白い光が球体の中で脈動する。小さな稲妻が閉じ込められたかのように。
「来た!」
カイルが叫んだ。
装置の円盤が急速に回転し始めた。低い振動音が次第に甲高い音に変わっていく。
そして、空中に文字が浮かんだ。
0と1の羅列。蛍のように光りながら、空中に漂っている。
『01000101 01101100 01101001 01111010 01100001』
「字が浮いてる! すげえ!」
レオンが目を見開いた。
「エリザベート様の魔力が0と1に変換されています!」ソフィアが手帳と照らし合わせた。「成功です!」
「成功だ。魔力をデータに変換でき──」
カイルが震える声で告げようとした瞬間、装置が爆発した。
轟音と共に水晶球が砕け散り、破片が四方に飛んだ。カイルの頬を破片が掠め、一筋の血が流れる。装置全体から黒い煙が立ち上った。
レオンが咄嗟にエリザベートの前に立ち、背中で破片を受けた。
「いってえ! また爆発かよ!」
「過負荷だ」
カイルは頬の血を拭いながら、煙の中で呟いた。咳き込みながらも、口元は笑っている。
「エリザベートの魔力が強すぎた。装置が耐えられなかった」
「あなた、大丈夫なの?」
エリザベートが眉を寄せた。
「かすり傷だ。それより、成功だ。確かに魔力を0と1に変換できた。あとは装置を強化すれば──」
「ちょっと待て」ジークハルトが煙を手で払った。「今のは成功なのか? 爆発したぞ」
「爆発は想定内だ。今回は爆発する前に0と1が空中に表示された。前回より三秒長く持った」
「三秒を進歩と呼ぶのか……」
「呼ぶ。科学とは失敗の積み重ねだ」
「カイルらしいですわね」
エリザベートが煤のついたドレスの裾を払いながら、苦笑した。
* * *
その日の午後、ルカスは神殿で新しい術式の開発に取り組んでいた。
祭壇の前に座り、両手を組む。しかし、その祈りはいつものものとは違った。
「神よ……いえ、違う」
ルカスは目を開けた。静かに、しかし確かな決意を込めて。
「神に祈るのではない。世界の法則に、語りかけるんです」
彼は立ち上がり、祭壇の周りに魔法陣を描き始めた。従来の神聖魔法の陣ではない。カイルから教わった0と1のパターンを組み込んだ、新しい陣だ。
白いチョークで複雑な幾何学模様が、床に広がっていく。
「精神を守る結界。従来は神の加護を願った。しかし0と1で言えば、心を外部からの干渉から遮断する障壁。カイルはそれを『ファイアウォール』と呼んでいましたが……『防火壁』と名付けるあたり、カイルもそろそろ研究室の耐久性を心配しだしたようですね」
天井に空いた穴を思い出してくすりと笑いつつ、ルカスは魔法陣の中央に立って再び両手を組んだ。
「我が心を守れ。外部からの干渉を、遮断せよ。これは祈りではない。命令です」
魔法陣が光った。
白い光がルカスを包み込む。しかし従来の聖なる光とは質が違った。より硬質で、ガラスのような透明な光だ。
光の膜が彼の体を覆っている。触れると確かな抵抗がある。
「成功……したのか?」
試しに、魔法陣の外に置いた聖書を念じて動かそうとした。通常なら念じるだけで動く。
しかし、本は動かなかった。
「外部からの干渉が遮断されている……!」
ルカスの顔に、静かな喜びが浮かんだ。
「これなら、プレイヤーの干渉も防げるかもしれない」
しかし次の瞬間、光の膜が砕け散った。ガラスが割れるような音と共に、光の破片が霧散する。
ルカスはその場に膝をついた。激しい頭痛が、頭蓋骨の内側を圧迫するように襲ってくる。
「持続時間が短すぎる。たった五秒とは」
額の汗を拭い、荒い息を整える。
「でも、確かにできた。原理は正しい。次は十秒を目指しましょう」
震える足で立ち上がりながら、ルカスは微笑んだ。祈りではなく、命令。神官にとってそれは信仰の否定にも等しいはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
0と1が世界の真理なら、その真理に祈ることもまた、信仰の形なのだから。
* * *
一方、レオンは訓練場で異質な訓練をしていた。
彼の周りには何も見えない。しかしレオンは剣を構え、何かの気配を追っている。
世界の綻びに伴って発生する空間の歪みが、時おり形を成すのだ。目に見えないが、確かに存在する何か。カイルはそれを「虚無の怪物」と呼んだ。
「見えねえ……でも、いる」
レオンは汗を流しながら呟いた。空気の歪み、温度の変化、そして殺気。それだけを頼りに、見えない敵と対峙している。
「そこだ!」
剣を振り抜いた。
ガキィン!
確かな手応え。刃が何かに当たった感触が、腕に伝わる。しかし次の瞬間、凄まじい反動が返ってきた。レオンは歯を食いしばって踏みとどまったが、両腕が痺れている。
「硬え……! 普通の剣じゃ歯が立たねえのか」
再び気配がした。今度は上から。
レオンは横に跳んだ。直後、彼がいた場所の地面がへこんだ。巨大な何かが上から押しつぶしたかのように。
「危ねえ! 今のは当たってたら終わりだったな」
剣を構え直す。見えない敵。普通の攻撃では通じない。しかし、だからこそ意味がある。
カイルたちが0と1を操る術を完成させるまで、仲間を守り抜く。そのためには、この世界の綻びが生み出す怪物にも対処できなければならない。
「来いよ。何体でも相手してやる」
レオンは不敵に笑った。
「剣しか使えねえ男の意地、見せてやるよ」
* * *
夜、再びカイルの研究室に六人が集まった。
カイルの頬には絆創膏。レオンの腕にもいくつか傷。ルカスは顔色が悪く、時折こめかみを押さえている。それぞれが、一日の研鑽の代償を体に刻んでいた。
「進捗を共有しよう」
ジークハルトが言った。
カイルが新しい装置を指した。試作第八号。前のものより一回り大きく、より複雑になっている。装置の周りに水の入ったバケツが三つ置かれていた。
「エリザベートの魔力を変換する装置は、ほぼ完成した。あとは、それを実際に世界に適用する方法だ」
「世界に適用……どうやって?」
エリザベートが問うた。
「それが問題だ。0と1のパターンを理解しても、世界に書き込む経路がない。手紙を書いても、届ける術がないようなものだ」
「私の手帳が使えるかもしれません」
ソフィアが手帳を開きながら言った。
「どういうことだ?」
「この手帳は世界からデータを受けとっています。つまり、世界と繋がっている回線のようなもの。受けとれるなら、送ることもできるかもしれません」
カイルの目が鋭く光った。
「受信機を、送信機に改造する。それは名案だ」
カイルは手帳を受け取り、観察を始めた。ページをめくり、光にかざして透かし見る。
「この手帳自体が特殊な魔導具だ。おそらくソフィアの『情報屋』という属性と紐づいている。この手帳とエリザベートの装置を組み合わせれば──」
カイルの眼鏡が光った。
「世界に、命令を送れる。データの受信側から、発信側へ。読むだけだった我々が、書く側に回れる」
「本当にできるのか?」
ジークハルトが尋ねた。
「分からない。だが試す価値はある」
カイルは机の上の空のコーヒーカップを指した。
「明日、実験する。そうだな、あのカップの色を変える。それだけでいい」
「たったそれだけ?」
エリザベートが拍子抜けしたように首を傾げた。
「『たった』ではない」
カイルが珍しく真剣な目でエリザベートを見た。
「色を変えられるということは、世界のデータを書き換えられるということだ。色が変えられるなら、形も変えられる。座標も、属性も、そして──運命も」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
「ですが、我々の目的は全能になることではありません」
ルカスが静かに言った。
「そうだな。我々の目的は、自由になることだ」
ジークハルトも同意した。「
「ええ」
エリザベートは扇子を広げた。
「神を追放し、自分たちの運命を自分たちで決める。それがわたくしたちの目標ですわ」
扇子の向こうで、コバルトブルーの瞳が笑っている。
「おーほっほっほ。悪役令嬢が、神様の書斎に忍び込んで世界を書き換えるなんて。なかなか洒落が効いていてよ」
その夜、六人は明日の実験に向けて準備を続けた。
カイルは装置の調整に没頭し、ソフィアは手帳のデータパターンを整理し、ルカスは防御術式の改良を続け、レオンは研究室の周辺警備を買って出た。ジークハルトとエリザベートは、明日の実験手順を確認しながら、カイルの指示で魔力の流し方を練習している。
六人がそれぞれの持ち場で、それぞれの役割を果たしている。誰一人として同じことはできないが、誰一人として欠けてはならない。
世界を書き換える最初の一歩は、明日。
コーヒーカップの色を変えるだけの、ささやかな革命。しかしそれは、「確定」と書かれた運命に、最初の一文字を書き加えるということだ。




