第22話:深淵からの啓示
裏庭を後にした六人は、四阿に腰を落ち着けた。
夕日はすでに稜線の向こうに沈みかけ、空は茜から紫へと移ろっている。ルカスは長椅子にもたれ、まだ顔色が悪い。レオンがその隣で腕を組み、苛立たしげに貧乏揺すりをしていた。
エリザベートの右手には、まだ裂け目に触れたときの痺れが残っている。指先がざらつくような、この世界の表面を一枚剥がしてしまったかのような感触。
裂け目の奥で見た「確定」の二文字。全員の運命が、あらかじめ書かれていたという事実。それは先ほど裏庭で共有した。
しかし、エリザベートとジークハルトの頭の中には、まだ伝えきれていないものが渦巻いていた。
「一つ、聞いていいか」
カイルが口を開いた。眼鏡の奥の目が、探るように光っている。
「さっき裏庭で話したのは『設計図を見た』という概要だ。しかし具体的に、何が見えた? 運命の確定以外にも、何か流れ込んできたものがあるはずだ」
エリザベートとジークハルトは顔を見合わせた。同じ戸惑いと驚愕が、互いの瞳に映っている。
「見たというか……」
エリザベートは額を押さえた。
「流れ込んできた、と言うべきかしら。膨大な量の情報が、頭の中に一度に押し込まれたような……」
「情報?」
ソフィアが手帳を開いた。記録の準備だ。
「ええ。数字と、記号と、見たこともない文字列が」
エリザベートは目を閉じた。瞼の裏に、あの光景が蘇る。視界を埋め尽くした、無数の数字。滝のように流れ落ちる、二つの記号の洪水。
「0と1……」彼女は呟いた。「0と1が、どこまでも並んでいたわ。流れて、流れて、止まらなくて。それだけで世界ができているかのように」
「0と1?」
カイルの目が鋭くなった。彼は立ち上がり、考え事をするときの癖で歩き始めた。
「……そうか、二進法か!」
「二進法?」レオンが首を傾げた。「何だそれ」
「数の表現方法の一つだ」
カイルは地面に指で数字を書いた。
「我々が普段使うのは十進法。0から9までの数字を使う。しかし二進法は0と1だけで、すべての数を表現する」
『0、1、10、11、100、101……』
「これが二進法だ。0の次は1。その次は、1が二つで10。我々の感覚では2だが、二進法では10と書く」
「ややこしいな……」レオンが眉をひそめた。「なんでそんな面倒な方法を?」
「面倒ではない。むしろ、最もシンプルだ」
カイルの声が震えていた。興奮だ。眼鏡を外してレンズを拭く手が、小刻みに揺れている。
「0と1。つまり『ある』か『ない』か。『はい』か『いいえ』か。世界をこの二つだけで記述できるなら、それは究極的にシンプルだ」
「でも、それだけで世界がすべて表現できるんでしょうか?」
ソフィアが疑わしそうに言った。
「できる」
ジークハルトが答えた。彼の瞳はまだ焦点が定まりきっていなかったが、声には確信があった。
「私も見た。すべてが0と1で構成されていた。重力も、光も、音も、温もりも。すべてが」
彼は自分の手を見つめた。指を曲げ、伸ばす。
「この手も。この体も。この心も」
「ちょっと待て」
レオンが割り込んだ。
「それじゃあ、俺たちは数字でできてるのか? この筋肉も、剣を振る腕も、全部数字だってのか?」
カイルが頷いた。眼鏡が夕日を反射して、一瞬、その目を隠す。
「そうだ。おそらく、いや確実に。この世界は0と1の組み合わせで構成されている。重力も、魔法も、我々の思考も感情も。巨大な楽譜のようなものだ。無数の音符が組み合わさって、一つの曲を奏でている」
「では、神は……」
ルカスが呟いた。レオンの腕に支えられたまま、震える手を組もうとしている。
「私が信じていた神は、0と1なのですか?」
エリザベートが立ち上がり、ルカスの肩に手を置いた。
「いいえ。神は、その0と1を操る存在。プレイヤーですわ」
言葉が、夕暮れの空気に落ちた。
「わたくしたちは、プレイヤーが書いた0と1のパターン。『1』と書けば存在し、『0』と書けば消える。作家が文字を書いて物語を作るように、わたくしたちは書かれた存在なんですわ」
沈黙が落ちた。
風が止んだ。鳥の声も消えた。世界そのものが、自分の正体を突きつけられて息を止めたかのように。
「でも、それなら、私の手帳に流れ込んでくる情報は……」
ソフィアが小さく言った。
エリザベートが頷いた。
「そうよ。あなたが見ているのは、この世界を構成する生の情報。世界の裏側そのもの。なぜかあなたにはそれが見える。あなたは、世界の深層を覗いているのよ」
ソフィアは手帳を見つめた。今は何も書かれていない。しかし、時折、文字が水面の揺らぎのように浮かんでは消えている。
「私は、世界の深層を読める……」
震える声。しかしそれは恐怖ではなく、興奮だった。
「そして、わたくしは」
エリザベートは自分の右手を見た。まだ痺れの残る、あの手を。
「わたくしはその深層に触れられる。見ることもできる。もしかしたら」
言葉を切った。しかし、全員がその続きを理解した。
もしかしたら、書き換えられるかもしれない。
「つまり、どういうことだ? 俺たちは数字で、世界は数字で、神様はその数字を書いてるってことか?」
レオンが頭を掻いた。
「そういうことだ。我々は0と1で書かれた存在だ。この世界も0と1で書かれている。そしてプレイヤーは」
カイルが眼鏡を掛け直した。
「この世界を書いた者、ですわね」
エリザベートの声は静かだったが、確信に満ちていた。
沈黙。しかし、今度の沈黙には別の色があった。絶望ではなく、理解。そして、可能性の予感。
「ということは、私たちが0と1を理解できれば……世界を変えられる?」
ソフィアが手帳を握りしめた。
「理論上はな。しかし問題がある。我々はプレイヤーではない。Non-Player Character、略してNPCだ。プレイヤーに操られる側の存在。読み取りはできても、書き込む権限がない」
カイルが眼鏡を押し上げた。いつもの仕草。論理的で、冷静で、しかし内心では明らかに昂っている。
「でも、エリザベート様は触れましたよね? 裂け目に。世界の深層に。直接」
ソフィアが食い下がった。
「そのとおりよ。わたくしは触れた。そして見た。ならば、次は書き換えてみせますわ」
エリザベートは立ち上がった。まだ足が震えていたが、背筋を伸ばした。深紅のドレスの裾が風に揺れる。ジークハルトも立ち上がり、エリザベートの肩を掴んだ。
「しかし、どうやって?」
「分かりません。でも方法はあるはず。カイル、あなたなら見つけ出せますわ」
カイルの紫の瞳が、知性の光を帯びた。
「ああ。研究する。0と1を操る術を。魔法ではない。もっと根本的な、世界を書き換える術を」
レオンが剣の柄に手を置いた。
「俺は0とか1とかよく分からねえ。けど、お前らを守ることはできる。研究してる間、誰にも邪魔はさせねえよ」
ルカスがようやく自力で立ち上がった。まだ顔色は悪いが、瞳には決意が宿っている。
「0と1が世界の真理なら、それもまた神の御業です。私はその真理に祈りを捧げ、皆さんを守ります」
六人は、夕日を背に立った。長い影が地面に伸びて、重なり合い、一つの大きな影を作り出している。
「でも一つだけ、確認したいことがある」
ジークハルトが言った。
「何ですの?」
「我々が0と1のパターンだとして」
ジークハルトはエリザベートの手を取った。
「この温もりは、本物か?」
エリザベートは、その手を握り返した。脈が伝わってくる。規則的なリズム。
「本物ですわ」彼女は微笑んだ。「たとえ0と1で書かれていても。この温もりを感じているのはわたくしであり、あなた。それは何にも代えられない真実ですわ」
ジークハルトも微笑んだ。彼本来の、誇り高くそして温かい笑顔だった。
「ならば、それでいい。我々が符号だとしても、その符号が感じるこの感覚こそが、我々の証だ」
「さあ帰りましょう。そして明日から、本格的に反撃を始めますわ」
「反撃?」
レオンが尋ねた。
エリザベートのコバルトブルーの瞳に、夕日が炎のように映り込んでいる。
「0と1を操る術を学び、世界を書き換え、プレイヤーという神を、この世界から追放するんですわ」
その宣言に、全員が頷いた。
六人は四阿を後にした。空が藍色に沈み、星が一つ、また一つと灯り始める。
* * *
その夜、カイルの研究室。
ランプの炎だけが灯る薄暗い部屋で、カイルとソフィアが机を挟んで向かい合っていた。机の上には大量の羊皮紙、インク壺、魔法陣の草稿、そしてソフィアの手帳が広げられている。
「まず、基礎理論を確立する」
カイルが言った。眼鏡の奥の目が、興奮に光っている。
「0と1のパターンが、どのように世界の法則と対応しているのか。例えば炎の魔法を発動するとき、我々は魔力を集中させる。しかし、その『魔力を集中させる』という行為は、内部的には0と1のパターンの変化のはずだ」
「つまり、私の手帳に流れてくる情報を解読すれば、そのパターンが分かる?」
ソフィアが手帳を見た。青白く光る文字が、揺らぎながら浮かんでいる。
「その通りだ。次にイベントが発生したとき、手帳に現れる情報を詳細に記録してくれ。パターンを解析すれば」
「世界の仕組みが分かる」
ソフィアの目が輝いた。
「だが、問題は書き込み権限だ。パターンを理解しても、それを変更する権限がなければ意味がない」
カイルは眉をひそめた。
「エリザベート様なら、できるかもしれません。彼女は裂け目に触れました。世界の深層に、直接」
ソフィアの声には確信があった。
カイルは窓の外を見た。満月が浮かんでいる。
「そうだな。エリザベート嬢には、何か特別な属性があるのかもしれない。悪役令嬢という、イレギュラーな存在だからこそ」
コンコン、とドアがノックされた。
「入ってくれ」
ジークハルトとエリザベートだった。二人とも着替えを済ませている。エリザベートは深い青のドレスに変わっていた。
「まだ起きていらしたの」
「眠れるわけがないだろう。興奮で目が冴えている」
「わたくしたちもですわ。それで、少しお話ししたいことがあって」
四人が机を囲んだ。ランプの橙と、窓から差す月の青白い光が交じり合う、不思議な明るさの中で。
「わたくしが見た0と1のパターン、まだ頭の中に残っているの。消えない。焼き付いているように」
エリザベートは目を閉じた。
カイルの目が見開かれた。
「記憶しているのか? そのパターンを?」
「全部ではありませんわ。でも一部は、はっきりと」
エリザベートは目を開け、カイルを真っ直ぐに見た。
「カイル、紙とペンを」
カイルが差し出した紙に、エリザベートはペンを走らせた。
0と1。規則的なパターンを成して並んでいく。
『01001000 01100101 01101100 01101100 01101111』
カイルはその数列を見つめ、凍りついた。
「これは……」
「何ですか?」ソフィアが身を乗り出した。
「おそらく、いや絶対に、文字だ」
カイルの声が震えている。彼はエリザベートの書いた紙を掴み、ランプの光に近づけた。
「0と1のパターンが文字を表している。八個の0と1で一つの文字。ソフィア、手帳を貸してくれ」
カイルはソフィアの手帳を受け取り、過去のシステムメッセージが記録されたページを開いた。『LOAD』『ERROR』『WARNING』。無機質な文字列は、ソフィアの女性らしい筆跡とは異なり、突き放すような印象を見る者に与える。
「このシステムメッセージの文字と、エリザベートが書いた0と1のパターンを照合すれば、どの数列がどの文字に対応するか割り出せるはずだ」
カイルは羊皮紙の上に表を作り始めた。手帳に記録された『LOAD』の表示が出た時のパターンと、エリザベートの数列を突き合わせていく。
「『L』に対応するパターンが『01001100』。ということは、この並びの法則は……」
指を折り、計算し、メモし、また計算する。ソフィアが横から手帳のページをめくって補助する。四人の間に、ペンが紙を走る音だけが響いた。
やがて、カイルが顔を上げた。額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「……解けた。エリザベートが記憶していた数列は、五つの文字を表している。H、E、L、L、O。つまり『Hello』。やはり、これは言葉だ」
「Hello、挨拶か。世界の設計図の中に、挨拶が埋め込まれていたということか?」
ジークハルトが呟いた。
「そうだ。0と1の羅列が、意味のある言葉を成していた。つまり、この世界のすべて──重力も、魔法も、我々自身も──言葉で書かれているんだ」
カイルは紙を握りしめた。
「これは革命だ」
その一言に、部屋の空気が変わった。
「我々は今、世界の言語を発見した。0と1という、世界を記述する言語を。これは、すべてを変える」
四人は紙を見つめた。ランプの光と月明かりに照らされた、インクで書かれた0と1の数列。一見すれば、ただの無意味な数字の羅列。
しかし、それこそが世界を構成する真の言葉だった。
「これを使えば……世界を、書き換えられるのね」
エリザベートが呟いた。
「理論上はな。まだ課題は山積みだ。パターンの意味を完全に理解し、それを実際に世界に適用する方法を見つけなければ」
カイルが眼鏡を外し、レンズを拭いた。
エリザベートは立ち上がり、窓辺に歩いた。満月が彼女の横顔を照らしている。
「見つけますわ。必ず。そして、この世界をわたくしたちの手で変えるんですわ」
窓の外の月が、静かに四人を見下ろしていた。
その光の中で、机の上に広がった羊皮紙の0と1が、かすかに輝いているように見えた。
世界を変える。途方もない目標。しかし今夜、彼らはその第一歩を踏み出した。世界の言語を手に入れたのだ。
あとは、それを読むことから、書くことへ。
四人は夜を徹して研究を続けた。




